その嘘と、真実を超えて



 革の帽子と頬当てと、目深に被ったフードで顔を隠した彼女が誰であるか気づかないのと同様に、俯いたまま動かない彼女が泣いていることに気づく者もいなかった。私だけだ。使徒が涙していると知っているのは。彼女を慰めてやれるのは。私だけなのだが……。
 彼女がもっと幼ければ頭を撫でて菓子でも与えて泣き止ませることもできただろうか。あるいは彼女がもっと大人ならば私に涙など見せなかっただろう。気安く頬に触れて涙を拭ってやるには微妙な相手なのだ、トレベリアンは。
 私はどうすればいいか見当もつかず、長い間無意味に立ち尽くしていた。
 使徒の名から逃げ出すほど無責任にはなれず、といって喜んでその名を着飾るほど傲慢にもなれない彼女は、自分を捨ててしまうことを望んでいた。恐怖も不安もなくただ唯々諾々と使命に従えるよう感情を破壊して静者となることを求めていた。そのうえ私にその決断をしろと言うのだった。

 稀なことではあるが、自ら静寂の儀式を望む魔道士は確かに存在する。例えば最初の魔法が引き起こした惨劇に耐えられなかった者だ。
 魔力の芽生えは幼い頃に起こる。その時に被害を受けるのは大抵が術者の家族や友人、あるいは大切にしているものだった。不意の出来事だから常にそばにあるものが巻き込まれるのは当然とも言えよう。突如として現れた能力によってそれを破損もしくは破壊してしまった魔道士は、己を憎み魔法を憎み続け、自らの罪深さを悔やんで静寂を求めることもあった。
 そしてまたサークル・オブ・メジャイの教育を受ける見習いたちの中にも、己の能力の低さゆえにいずれ課せられる試練を乗り越える自信が持てず、成功への期待よりも失敗への不安が大きく上回った時、悪魔に敗れるくらいなら己の意志で死を選ぶ方がマシだとして静寂を求める者がいた。
 トレベリアンはどうだったのか。彼女が魔法を憎んでいたようには見えなかった。既に試練を乗り越えていたのだ。噂によればオストウィックの騎士団長をも唸らせるほど簡単に。その強大な力を恐れ厳重な監視を欲してはいたが、役立つ魔法が好きだとも言っていた。
 魔法を罪の根元として消し去ってしまうよりもそれを誰かのために使うことに喜びを感じていた。彼女は静者になりたがるタイプではなかった。彼女を竦ませたのは左手の印だ。裂け目を操り、天の亀裂にさえ干渉する人の身には余る力を与えられてしまったから、それを切り離すために自らの持つ魔法を捨てることも厭わないと決めたのだろう。
 彼女はずっと、自分はアンドラステの使徒などではないと主張し続けてきた。だが我々がその能力を必要としている時、重荷に嫌気がさして使徒の名を放り出したりもしなかった。嘆きながらもトレベリアンは使徒という呼び名に折り合いをつけ、うまく利用してきた。少なくともそのように見えた。
 変わったのは……セリンファールより帰って以来だ。

 あるいは手枷を嵌められていた頃から脳裡の片隅にあった選択肢が今になって露出してきただけなのかもしれない。審問会に多くのテンプル騎士が加わった。リリウムの供給源も確保した。今なら静寂の儀式を執り行うのは簡単だ。バリス以下セリンファールで加わった者たちは決して彼女にそれを行いたがらないだろうが、私を説得することに成功すれば彼女は静寂を手に入れるだろう。
「……私は賛同しない。絶対に」
 未だ涙を流し続ける彼女の肩がびくりと小さく震えた。論理的に納得させられないなら脅迫してるのと同じじゃないか。しかし私は嫌だ。どうしても嫌だ。静者は誠実で善良で従順で、彼女の言う通り人には耐えられない重荷を押しつけるにはうってつけの存在とも言えた。しかし、だからこそ嫌だ。トレベリアンを静者にするなどと。
 アンドラステの意志を注ぐために、それを強制しやすくするために彼女を単なる器に変えてしまうなど。絶対に御免だ。彼女はイヴリン・トレベリアンでなくなってしまう。カサンドラかレリアナか、……私の思うままに動く人形になってしまう。
 静寂の儀式によって彼女は泣き止むだろう。もう不安に押し潰されることはなく、恐怖に引き裂かれることもない。あらゆる感情を失い穏やかに朽ちてゆけるだろう。それを引き留めるのは彼女に「苦しみ続けろ」と言うも同じだった。
 涙を止める言葉が見つからない。懐を探るが、ハンカチの一枚も出てこなかった。自分の無精に苛立つ。揶揄半分にレリアナがくれたシルクのハンカチを持っておけばよかった。

 何もできないまま時が過ぎ、疲れ果てるまで泣きじゃくったトレベリアンはやがて静かになった。喉が渇いているだろうと思い水筒を差し出すと、彼女はそれを一口飲んで何事か考え、中の水を魔法で凍らせて瞼にあてる。赤く腫らした目を他の者たちに見つかったら私は袋叩きに合うだろう。それも自業自得だな。
 祈るように目を閉じたまましゃがみ込むと、彼女は積み上げた木箱に寄りかかった。
「この印がもっと適切な人に与えられたらよかったのに。使命に竦まず、どんなことにでも強く立ち向かっていけるような。フェレルデンの救世主や、カークウォールの英雄みたいな人が選ばれればよかったのに」
 私が審問会に加わると決めた時、カサンドラとレリアナも彼らを探していた。皆を導くことのできる人物が求められていた。
 教皇の手が審問官の地位を与えたがったのはフェレルデンの救世主だった。彼女は第五次ブライトにおいて祖国フェレルデンのみならずデイルズエルフやドワーフ、魔道士たちをも束ねて一つの軍として率いた指導者だ。ウォーデンの協定書を用いたのは接触のためだけであり、皆を団結させたのは救世主自身の行動だとレリアナが保証した。それが真実であるのはサークル・タワーで彼女に救われた私も知るところだ。しかし彼女の行方は分からなくなっていた。
 次に探したのはカークウォールの英雄だった。ヴァリックの尋問を行ったカサンドラは、例の魔道士と深い関わりを持ち反乱の引き金となったともいえるホークを探した。ホークは良くも悪くもセダス中の注視を浴びている。秩序と平和を回復するために、その姿がここにあれば審問会は大きな影響力を得、魔道士とテンプル騎士の争いに一石を投じることもできただろう。しかしカークウォール壊滅の後ホークもやはり姿を消していた。
 彼らは確かに英雄だった。救いを求める人々が、揺るぎない意志と強さを持つ者を求めるのは自然の成り行きだ。天の亀裂が口を開けてからは特に、彼らさえここにいればと願った人も多いだろう。トレベリアンもその一人だった。

「私は彼らに会った。救世主……レディ・クーズランドと、ホークに」
 俯いた顔を心持ち上げて、トレベリアンは上目遣いに私を窺った。
「親しかったわけではないが、知人と呼べる程度に話したことがある。確かに類い稀な人物だった。だが普通の人間だ。気まぐれに奇跡を起こせる聖人ではない。我々と、あなたと同じ、ただの人間だった」
 意志が強く、傲慢で、優しく、利己的で、愛情深かった。彼女のように。
「クーズランドは一族を皆殺しにされ、両親の願いのためフェレルデンを守ろうと決意した。ブライトが起きたのが他の国であれば命を賭して戦おうとはしなかっただろう。ホークは家族を連れてブライトの蔓延る故郷から逃げ出した。生き延びたのが自分だけであればただの放浪者として生涯を終えただろう」
 己の使命に邁進するためには感情をも捨ててしまわなければならないのかと疑いたくなるような、苛烈極まりない決断が多々あった。しかしそれを為したのは人間だ。心を持ち、誰かを想い、その幸せを望む人間だ。だからこそ戦えたのだ。彼らは英雄たるために戦ったのではないと信じている。戦い抜き、人であることを全うしたからこそ英雄と呼ばれるんだ。
「あなたは確かに大きな使命を背負っている。我々皆がそうなんだ。生きとし生けるものすべてが役割を授けられている。自分自身であるということを、創造主の与えたあなた自身を壊してはいけない。トレベリアン、あなたの大切なものは何だ? 守りたいものは? 自分のために戦うんだ。それが皆のためにもなるだろう」

 彼女はじっと私を見つめたまま答えない。無機質な印象さえ感じる青い瞳を見つめ返しながら、彼女に生きる理由があるのだろうかと考える。オストウィックを故郷だとは思っていないようだ。彼女の口から国へ帰りたいと聞いたことはない。家族とは長く疎遠でいるようだ。今も繋がりがあるのはトレベリアンの名を持たぬ遠い親戚だけ。
 講和会議で喪った従兄だけが家族と呼べたのかもしれない。あるいは私の関知し得ないところに彼女を受け入れてくれた者がいたにもかかわらず、それも反乱によって失われたのかもしれない。彼女の親類は多くが司教やテンプル騎士だった。魔道士となった途端に彼女に背を向けた者がいただろう、反乱の際に殺された者がいただろう、今もヴァル・ロヨーで我々を批難する声に彼女の知るものが混じっているかもしれず、もしかしたらセリンファールで殺した赤いテンプル騎士の中には彼女の……。
 大切なものは何だと問われ、彼女はただ沈黙するのみだった。
「……もし戦う理由が見当たらないなら、……ここから逃げても構わない」

 クーズランドやホークが講和会議に来る可能性も確かにあった。特にホークは魔道士の決起に深く関わっており、自身も生まれながらの背教者だ。もしも彼らがその場にいたらどうなった? ホークが印を授かることもあったのだろうか? 彼らがアンドラステの使徒となった可能性が?
 それが起こった場合、トレベリアンは爆発で死んでいたということでもある。左手の印があったからこそフェイドを逃れて現実に戻ってこられたのだから。そして彼らがそこにいてなおトレベリアンが選ばれたとしたら、我々は二人の英雄を失うはめになった。
 彼らはいなかった。そして彼女が選ばれた。結果として、得難い三人を誰も失わずに済んだということだ。彼女が背負う重荷は二人の英雄を救った証とも言える。
 使徒は既に奇跡を与えてくれた。この暗澹たる世界に希望を残すという奇跡を。重荷から逃げるために死ぬことはない。
「あるいは古の者を倒せば天の亀裂は消えるのかもしれない。あなたが亀裂を閉じられなくともまだ方法を探すことができる。失敗しても、逃げても、我々はあなたを責めない。私もレリアナも、ジョゼフィーヌや兵士たちも、あなたが最善を尽くすことを知っている」
「……カサンドラは?」
「頑固者だからな。一緒に旅して身に染みただろう? 彼女はあなたを引き留めるだろう。だが、それを振り切って逃げたあなたを卑怯だと詰ることはない。カサンドラも、あなたが限界まで戦ったのだと理解するだろう」
「私がいなくなっても大丈夫……?」
 それが、そんなことが一番の望みなのだ。彼女にとっては。考えるべきことの多さに長らく忘れていた痛みが戻ってきた。こんなにもリリウムを欲したのは久しぶりだ。突き刺すような衝動を抑え込み、彼女に頷いてみせるのは一苦労だった。
「あなたが加わる前から我々は戦っていた。あなたが……去っても、何も変わらないさ」

 トレベリアンは笑った。必要ないと言われて、いなくなっても構わないと言われて、母親を見つけた少女のように心からの安堵を浮かべて笑った。審問会に居ることがどれほどの苦痛と重圧を与えてきたのか……否応なしに理解してしまう。
 彼女が加わるまで我々は何も成せずにいた。戦うだけなら誰にでもできるだろう。彼女がいなくても。だが天の亀裂はそれだけで済まなかった。誰にも、何もできない。世界は奇跡を必要としていた。彼女という奇跡を。
 私の言葉は嘘だ。彼女が去れば我々には為す術がない。トレベリアンが自分の運命を恐れて逃げ出せば、あらゆる人々を見殺しにすることになる。真実を告げたら彼女は耐えられないだろう。不安を和らげるために嘘を吐いただけだ。
 重荷を背負わなくてもいい、あなた一人でやらなくていい、逃げてもいい、甘い言葉でここに留まる力を与え、その細い肩に命運を託すため、押し潰され死んでしまいそうな恐怖に目隠しをしてやっただけ。
 静寂の儀式と何が違うんだ。私は彼女を騙してここに留めようとしている。



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