いつまで純白でいればいい



 この辺りは女王クモの大きな縄張りだったらしく、やつらを倒した今ダークスポーンやその他危険な生物の気配はとりあえず感じられない。
 安全にキャンプできる最後の機会かもしれないということで、持ち込んだ氷の岩を溶かし湯を沸かして入浴することにした。
 これから死の前線と呼ばれる回廊の奥地へと進んで行く。いつ暗がりからダークスポーンが飛び出してくるかと思うと湯を沸かして体を洗ってなんて悠長なことをしていられない。たぶん、食事の時ついでにお湯で濡らした端切れで体を拭くくらいが精々だろう。
 しかし、匂いや痒みは我慢すればいいとしても自分たちが浴びているのがダークスポーンの血だってことを忘れてはならない。贅沢だなんて言ってる場合じゃなく、しっかり洗い流しておかないとな。

 それにしても、ドワーフのキャンプがそこそこの物資を残していたので助かったと思う。お陰でエリッサは衝立に隠れて入浴することができた。
 彼女の方は「嫌なら後ろを向いてればいい」なんて無頓着なものだったが、嫌なんじゃなくて、嫌じゃないから問題なんであって、大体オグレンがちゃんと彼女の……その、体……から目を背けているとも思えないし、それ以上に俺がとても困ったことになる。
 地上でなら女性と一緒に過ごしている事実を気にすることはあまりなかった。こういう場合もウィンに頼んで沸かしてもらった湯を各々のテントに運べばそれで済んでいた。
 キャンプで入浴する時エリッサは大抵モリガンと湯を共有して……つまり俺からは離れたところにいるから、変に意識することもなかったんだが。今は違う。距離が近すぎる。
 適当な布でカーテンをかけた、その向こうに彼女がいる。背を向けて座っていても落ち着かない。何も妙な想像をしてしまわないよう、意味もなくバックパックから取り出したものを並べてまた片づけたりしていた。
 うーん。オータン洞穴で拾ったものはほとんどがゴミだが、この積み重ねが数日分の食料代や装備費になるんだから大切にしないと……なんて呆けたように思考を弄びながら、全神経が彼女の方に向いているのは自分でも分かっていた。

 エリッサはついでに犬を洗っているらしい。時々楽しげな笑い声が聞こえてくると、なんとも複雑な気分になった。
 彼女は自分の犬といる時だけ、ついでに言えば他の誰もいない時だけ本当にリラックスしている。かなり仲の良さそうなモリガンと二人でいたってあんなに無邪気な声は聞かれない。
 仏頂面とも言えるくらいの冷静沈着な普段の彼女とは大違いだ。そういう意味でもちょっとの間だけパーティから離れていられたのは、彼女にとって良いこと、だろう……。
 あのマバリが羨ましいと思う自分がいる。幼い頃からずっとエリッサのそばにいて、彼女の何もかもを知っていて、今は唯一の安らぎとでも言うべき存在だ。あいつはただそこにいるだけで彼女を幸せにできる。些かの警戒心もなく素顔を見せてもらえる。
 なれるものなら俺も犬になってみたい。……いや、変な意味じゃなく。

 背後の水音が耳に入らないように大きく溜め息を吐くと、水浴びもそこそこに酒を浴びていたオグレンがこっちを見て目を細めた。
 レリアナなんかもしょっちゅう物言いたげな視線は向けてくるが、こいつは俺をおちょくってやろうという気分が全身に満ちている。そんな年長者の厄介な性質では、オグレンはウィンに似ていた。
「何なんだよ、そのニヤニヤ笑いは」
「悩ましいなぁ、青年」
「だから何が!」
「しかしボスとお前とは、意外だねぇ。ああいう一人で生きていけるような強い女は、お前みたいな泣き言の多いやつに興味なさそうなもんだが」
「うっ」
 気紛れに吐かれた言葉にしては強く胸を抉った。図星ってやつだ。酔っ払いドワーフのくせに鋭いじゃないか。
 彼女は俺を必要としていない。そんなこと知ってるさ。そもそも荒野を去ろうとした彼女を引き留めたのは俺の方だったんだ。一人きりでブライトに立ち向かうなんて絶対に無理だ、見捨てないでくれと縋りついた身で、それ以上の何を求められるっていうんだ?
「実際……興味はないと思うよ。付き合ってるわけでないしな」
「は? 違うのか?」
 常に酩酊してるドワーフの赤ら顔がその瞬間いきなり真顔になったのが、わりとショックだった。……違うんだよ。悪いか。

 それにしても、出会って数日で当たり前に分かるほど顔に出てるのか俺は。
 人目がある時はなるべく彼女を見ないようにしてるし、見るとしても感情が漏れてないかと気をつけてるつもりだが、俺が彼女を見てるのはなんだかもう全員に筒抜けだった。彼女はそれを迷惑に思ってないだろうか。
「正直、手も握ったことがないし、そもそも好意を伝えてもいないし、もしかしたら彼女は気づいてないかもしれないし、」
「そんな鈍い女じゃないだろあれは」
「……と、とにかく、そういう関係じゃないんだ」
 まだ、そういう関係じゃない……と言えるほどの希望もない。ならいつかそうなる見込みがあるのかっていうと? まあ、無理だろう。
 本当に、彼女が俺をどう思ってるのかさっぱり分からなかった。嫌われてはいないはずだ。でもこの想いを告白して受け入れてもらえるようにも思えない。明確に拒絶されるのが怖いから敢えて求めないんだろうと言われたら返す言葉がなかった。
 何度考えてみても、彼女が俺を必要とする理由が見当たらないんだ。何も言わずにいれば少なくとも現状維持はできる。拗れるよりは仲間のままで……そういう卑怯な考えも、ないわけじゃない。

「信じられんな」
「自棄になって言うんじゃないが、彼女の理想はもっと高いんじゃないかな? 公爵サマのお嬢さんだぜ。俺なんかよりずっと優雅で気品ある男を見てきただろうから」
「馬鹿め。信じられんのはお前のことだ。あの胸だの尻だの見てなんともないのか? なんでさっさと口説かない? 妙な性癖でも抱えてるのか?」
「傷つくから純粋に心配してるだけって顔するなよ!」
「ムチムチの肉があったら触りたくなるのが男だろうが」
 そんな全身下半身みたいな男ばかりで堪るか。そりゃあ、触りたいのは事実だけど。でもべつに欲求不満を拗らせてるからって彼女を見つめてるわけじゃない。
 確かに触れるものなら触りたいが、それは相手が好きな女だからであって重要なのは性欲じゃなくてだな……、ああもう!

 そんなの当たり前じゃないか。だって俺は彼女が好きだし、男だし、若いし、触りたいと思うし、それ以上のこともしたい。あの革鎧の下がどうなってるか知りたい。露出した腕や太股がどんな感触か知りたい。
 そばにいて、彼女の髪がちょっと触れるたび、彼女の肌が香るたびに気が変になりそうだった。
 戦闘に集中していれば平気だ。でもこんな風に何もない時、平和な時間を過ごして気を抜いてると、彼女のことを考えるだけで頭が割れそうに痛む。
「だがそいつは誰のための忍耐なんだ? 堪らんから俺のテントに来いと言えば、あいつは断らないだろうよ。あんな男好きのする体をしといて」
「おと……だ、だから、そういう言い方するなよ。下品だな」
 尤も、オグレンの言う通り彼女はなんていうか経験豊富なようで、今まで何人と夜を明かしたんですかと聞くのも怖いくらい、そのことに躊躇がない。たぶん仲間内でも誰かが誘えば彼女はあっさり承諾するだろう。
 エリッサが一人寝に甘んじているのは、単にレリアナやゼブランが俺を気遣ってくれてるだけだと思う。

 俺から言い出したら断られないだろう。だが彼女から誘ってくることは絶対ない。それはつまり、俺はその対象ではないってことだ。恋をしたいと思うような、相手じゃない。
 嫌われているのでなければ、たぶん、俺がグレイ・ウォーデンだから……駄目なんだ。
「だがあいつは貴族だろう。地表の流儀なんか知らんが、貴族の女なんてのは、いつだって孕みたがってるもんさ」
「は……!?」
「火照った体を持て余してるのは、あっちだって同じじゃないのか?」
「いっ、今そんなこと言うなって! 妙な気持ちになっちまうだろ」
「今だからだろうが。何なら向こうへ行ってちょっと襲ってこい」
 ちょっと襲ってこいってどんな言い種だよ。ただでさえ地底回廊に入ってから俺はいろいろと厳しい状況に置かれてるんだ。誘惑するな。
 地上には個人の領域ってものがある。つまり、自分のテントだ。キャンプにいても彼女のあらぬ姿が目に入って慌てなきゃならないことはそうそうないし、一人で悶々としてたって見咎められはしない。
 でもこのダークスポーンだらけの狭い洞穴の中では互いを遮るものがない。心の距離はちっとも縮んでないのに、手を伸ばせば触れるところに彼女がいる。だからどうしていいか、分からなくなる。
 着替えにしろ入浴にしろ俺のすぐそばで行われ、休む時にはすぐ横に彼女が寝ていて、……何も感じないわけがない。

「惚れてるんだろうが? でなくたって、すぐそこでびしょびしょに濡れた女が肌を磨いてるってのに、何も感じないのか?」
「ああもう、うるさいな酔っ払い!」
 感じないんじゃない、考えないようにしてるんだ。具体的な想像ができるほど知識がないからまだマシだった。変容の書でも諳んじていれば染み着いた習慣ですぐに思考を遮断できる。頭の中にはロウソクの火が揺れるだけだ。
 もし俺が女を知ってたとしたら、理性はたちまち溶け出してとっくに彼女のもとへ飛び込んでいたに違いない。なんて考えてるだけでも首の後ろ辺りがカーッと熱くなってくる。
 叶うなら一歩先の段階へ進みたい、だがもし拒まれたら、どうなってしまうか分からない。拒絶されたそのあとでさえ今まで通り一緒に旅をするんだと考えたら気が滅入る。俺はどんな顔してればいいんだ?
 そしてまた、万が一にも受け入れられたとして、それもやはり想像がつかなかった。果たして俺は彼女の恋人になりたいんだろうか? それってどんな感じなんだ?
 結局のところ、俺自身がどうしたいのかまだ決めかねているんだ。このままでいいという気持ちもまるっきり強がりではない。信頼できる相棒として一緒にこれをやり遂げて、今の関係が続くのならそれはそれで……きっと、いいことだろう。
「そんなことを……してる場合じゃないんだ。今はブライトの真っ最中で、俺も彼女もグレイ・ウォーデンだから……」
「ああそうかい分かったよ。つまりお前さん、ついてないんだな」
「勝手に言ってろ。それを大事にするのが悪いことだとは思わないね!」

 何かを終わらせたいんじゃなく、続けていきたいんだ。そのためにも慎重になるのは悪い選択じゃないだろう。
 でも……、彼女を求める気持ちが日に日に強くなるばかりで、どうしたらいいのかは何も思いつかない。それが息苦しくなってきてるのも事実だった。
「忠告しておいてやるがな、お嬢さん。今はその時じゃないなんて思うなら最初から諦めとけ。いつだって、今しかないんだよ」
「……それは……、そうかもしれない……けど」
 他にすべきことがなくなったら、アーチデーモンを倒したら、使命から自由になったら、そのことをじっくり考えられるようになったら、ゆっくり決めればいい。
 ……それっていつだ? 俺たちは明日にも死ぬかもしれない日々を生きている。それにエリッサは、グレイ・ウォーデンを嫌っている。ブライトを阻止できたらもう一緒にいる理由がない。二度と会うこともなくなってしまう。
 俺は王になるかもしれないし、ならないかもしれないけど、どちらにせよ戦いが終わったらお別れなんだ。朝陽の眩しさに目が覚めてテントを出たら、犬に餌をやりながら微笑んでる彼女を見つける……なんて機会は……永遠にない。
 もしブライトを阻止できなかったら、もちろんそれは考えるまでもない。
 いずれ、せめてこの気持ちを伝えるだけでも伝えたいと思ったとして、そうするのに相応しい時と場所なんて俺たちに与えられるんだろうか。まだ結論を出すには早いとは言いながら、その時はいつになったら訪れるんだ?



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