星を数える夜
デネリムに戻る前に少しだけ、とソルジャーズ・ピークに立ち寄った俺を迎えたのは泥と雪に塗れたフェリクスだった。ドライデンの子供たちと一緒に野性動物がどうやって霧を越えてくるのか調査していたらしい。まあ、そうだな。要塞に害を為さないほど知能の低い生物には魔法が働かないってだけだと思うが。とにかく仲良くやっているようで何よりだ。
フェリクスはここへ来た当初こそ呼び声を恐れて結界の強力な塔に引きこもっていたが、ウォーデン特有の夢と混乱に慣れてきた今では要塞を散策する余裕を見せ始めている。曰く「何も聞こえないと自分に言い聞かせれば平気」だそうだ。まさしく。紛い物だと分かっていれば、気を確かに持ち続ける限りコリーフィウスの呼び声に騙されることはない。
ドライデン家の面々にも無事に馴染んだようだ。一族ぐるみで二百年も疎まれ蔑まれ排斥されてきた歴史のせいか、ドライデン家のやつらはテヴィンター人の親子に寛容だった。それに父親の方はともかくフェリクスは前の住人より余程まともで親しみやすい同居人といえる。アヴァナスの後継を気にしていたレヴィも彼なら大丈夫そうだと安堵の息を吐いていた。
妥協を強いなくとも周囲に馴染む方法を知っている。他人のために働くことを苦にしない。フェリクスは良いウォーデンになるだろう。……なれただろう。今までなら。これからのことは、俺にも分からない。審問会はすぐにでもアダマントへ攻め込みそうな気配だし、どういう決着がつくにせよグレイ・ウォーデンの在り方も大きく変化するだろう。
健全な生活を取り戻しつつある息子はさておき父親のゲレオンはアヴァナスの亡霊に取り憑かれてでもいるんじゃないかというくらいの熱心さで研究に没頭していた。レッドクリフで捕らえた時とはうってかわって瞳に生気が宿り、全身に気力が満ちている。フェリクスによるとあれが素らしいが。
学者肌なのは元々でテヴィンターにいた頃から魔法研究に心を捧げると誓っていたそうだ。ブライトによって妻子を亡くし、唯一残されたフェリクスを守るためコリーフィウスに降ったところでちょっとばかり方向性を誤った。根っから善良とまでは言えなくとも、本来の彼は進んでコリーフィウスに忠義を尽くすような悪党というわけでもないんだろう。
ピークに到着するなりアレクシウスはさっさと塔を自分の領域にしてしまった。先達の残した膨大な資料、誰の邪魔も入らない閉鎖空間、そして息子を穢れから救うという大義。今は罪悪感になど苛まれず堂々と興味深い魔法に向き合うことができる。
ある意味で、俺はフェリクスではなく父親の方をこそ助けたことになるのかもしれない。洗礼の儀は自力で乗り越えるしかないものだ。フェリクスは自分で運命に抗ったんだから、俺は何もしちゃいない。
「それで、どうだった?」
「ああ。結論から言うと何の収穫もない」
手土産も特にない。俺自身は久しぶりにレッドクリフの魚料理を味わってきたが、この親子はつい先日まであそこの城にいたんだから食べ飽きてるだろうし。
「審問会はもうレッドクリフの出来事に首を突っ込まない。その点では争わずに済むだろう」
「救世主のことは何もなしか」
「宛が外れたな。審問会も彼女を見つけてはいないようだ」
「……あまり気を落とさずに」
「大丈夫だよ」
フェリクスは物言いたげな顔をしつつそれ以上何も言わずに要塞へ入っていった。もう夕暮れだ。文字通り時間を忘れて机に向かっている父親の口に晩飯を放り込みに行くんだろう。
何の収穫もなかった。本当に。レリアナならエリッサが今どこにいるか知っているんじゃないかと期待した。でなくともスパイらしいやり方で無数の目を使って彼女の足取りを追えるのではないかと。グレイ・ウォーデンの件に託つけて、「フェレルデンの救世主に連絡をとってくれ」と……依頼するつもりだったのに、先に審問官の方から聞かれてしまった。
彼女はウォーデンと共にいるのか? そんなこと俺が聞きたい。今すぐアダマントへ飛んでいって自分の目で確かめたい。
心配事は山ほどある。エリッサはクラレルを止めないだろう。ウォーデンが掲げた偽りの大義に、彼女は賛同するはずだ。古代神を殺すには至らなくても南部のウォーデン全員と悪魔の軍団があれば地底回廊をかつてないほど蹂躙できるであろうことは確かだから。失敗したって喪うものは何もない。コリーフィウスの存在に気づかず彼女がアダマントにいたら。その不安はとてつもなく大きかった。
だがもっと恐ろしいのは彼女が古の者に接触しようとするかもしれないってことだ。アーキテクトのように、コリーフィウスにブライトを起こす力があるのなら、わざわざ攻め込まずともさっさと古代神を堕落させて地表に出てきたアーチデーモンを全部殺してしまえばいい。……エリッサならやりかねない。あいつは時々、びっくりするほど考えなしに無謀なことをするから心配なんだ。
思慮深く聡明な才女だと思っていた時期が俺にもあった。真実はまったく違う。エリッサは、自信家で、傲慢で、それが許されるほど有能な、ただの不滅の女神だ。致命的な失敗をしないなんてことはない。いつもギリギリのところで幸運を味方につけて生きている。実際にはものすごく無謀で向こう見ずなやつだ。
とりあえず試してみよう、ダメだったら殺そう。そんなつもりでコリーフィウスやヴェナトリや赤いテンプル騎士や狂ったウォーデンに近づいてたら、そう思うと、居ても立ってもいられない、のに……俺は彼女が今どこにいるかさえ知らない。
もう星が顔を出しつつある。今から洞窟を抜けるのは危険だろう。デネリムへ帰るのは明日にして、今夜はピークに泊まることにした。
夜と共に怖いくらいの静けさに包まれた要塞の中、アヴァナスの塔だけが奇妙に生命力を漲らせている。居住区のバルコニーからアレクシウスがいるであろう部屋の灯りをぼんやり眺めた。
俺はあまり塔に入り浸らないようにしている。長く留まると影響を受けすぎてしまうのだ。積み上げられた石のひとつひとつにまで魔法の染み込んだアヴァナスの塔は、それ自体が老魔道士のアーティファクトと化していた。あそこでは時間の流れが遅くなる。彼が穢れの研究をするために自身の寿命を延ばした名残だ。
アヴァナスの作り出した魔法は生命を維持するための障壁だった。端的に言えば老化を遅らせる魔法だが、言い替えればそれは生命の成長を妨害するということにもなる。
人の生涯を死へと続く一本道に例えるならば、穢れや様々な病は命を縮めてやろうと背中を叩く追い風だ。アヴァナスの魔法はそこへ強引に横道を作り出し、わざと遠回りをして死までの道程を長くするもの。そして最終的な目標は、追い風の出所を探し出して風を止め、自らのペースで道を歩みきることだ。
彼の魔法は俺にもエリッサにも、今はアレクシウス親子にも影響を及ぼしている。あの塔に居ればエリッサだって100年くらいは生きられる。だが、穢れの侵食を止めることには成功していない。
ヴェイルの裂け目から魔力を得られないので大規模な魔法は使えなくなったが、アヴァナスのレポートを基にしてアレクシウスは魔法の原理に迫っていた。俺としてはその時間に干渉する力で“エリッサの仕事を助けるために人並みの寿命を得たい”くらいの気持ちだったんだが、もしかしたら想像以上のことを成し遂げてしまうかもしれないとも思う。
アレクシウスは既に一人で洗礼の儀を行える。彼は古代の魔法をいとも容易く会得した。ダークスポーンの血から穢れを抽出し、別の肉体に結びつける魔法を理解した。その結び目を解く魔法を探し出すのもそう難しいことではないという。「要はマナの作用する流れを逆に辿ればいいだけだ」……俺には何言ってるのかさっぱりだが、魔道士の感覚で捉えれば単純なことらしい。
ただし、方法が分かってもそれを為す力が足りているとは限らないが。
意外と、エリッサより先に彼が呼び声を癒す方法に辿り着くかもしれない。そんな期待とそれはないという自戒が胸の中で暴れている。そんな簡単に終わるはずがない。だが彼女に安らぎを与えてやれないのがもどかしくて、不遜な賢者の言葉に縋りたくなる。
もう頑張らなくていい、運命なんて放っとけ、ただ好きなように生きてくれ……一刻も早くそう言ってやりたいのに。
しばらく夜風に身を晒していたせいで、大きなくしゃみが出た。部屋に帰ろうかと鼻を啜りながら振り向くと、呆れ顔のフェリクスが毛布を広げて後ろに立っていた。俺を見つけて防寒着を持ってきたようだ。……あの父親の子とは思えないほど甲斐甲斐しいなあ。
「この寒空にいったい何をしてたんだ」
「ん? ああ、星を数えてたのさ」
これ以上ないってくらいの暇潰しになると笑ってみせると、フェリクスは余計に渋い顔をする。
「王に暇があるとは思えないが……。デネリムに帰る前に、しっかり眠っておいた方がいい」
「眠りたくないんだ。鬱陶しい夢を見るからな」
「ウォーデンの悪夢か?」
「違う。エリッサの夢だ」
悪夢といえばまさにそうだ。このところ毎晩のように見る夢は。星を数えるのと同じくらい、終わりのない悪夢。
ある時は地底回廊の奥深く、全身傷だらけで倒れ伏した彼女にダークスポーンが群がっている。苦悶の表情を浮かべながら彼女は暗闇に引きずり込まれていく。誰も知ることのない影の中でブルードマザーと化した彼女は悲鳴をあげながらダークスポーンを産み続けた。
ある時はどこかの砂漠で倒れ伏し水を求め悶えている。泣きたくなるほど苦しいのに彼女の体は芯まで乾ききって涙を流すこともできない。必死の形相で熱い砂を掘り返し、彼女の心は冷たい青を求め続ける。髪も肌も容赦なく太陽に焼かれ、干からびて枯れるように力尽きた。
ある時は雪深い山奥で凍りついたように歩みを止める。もう足を上げることもできない。寒さに体力を奪われ、吹きつける雪に少しずつ身体を埋めてゆく。やがて手足から感覚が失せ、太陽を求めて見上げた空には漆黒の闇が広がり、彼女は冷たくなった。
ある時は古代の呪わしい力に満ちた深い森で息を荒げている。毒に冒され、苦痛のあまり掻きむしった喉から血を流す。じわじわと弱り、自決する力もなく、泥水の中に横たわって涙を流しながら緩慢な死を待っている。自身が内側から腐食してゆくのを感じつつ、ついに苦痛が消え果てた時には、死だけが救済なのだと理解した。
彼女はコリーフィウスに傅いて忠誠を誓った。我が子を見捨てた創造主を呪い、幸少なく苦痛に満ちた世界を憎み、すべてに背を向けた彼女は悪魔の軍団を率いてフェレルデンに攻め寄せた。彼女は俺たちの民を次々に屠っていった。右手にはクーズランドの剣。輝きは失せ、どす黒い血が滴るそれを振りかぶり、暴虐の化身となった彼女の心臓を、俺の剣が貫いて――。
エリッサは死の苦痛の中でいつも俺の名を呼んだ。助けてと泣き叫んだ。いつだって俺の姿を求めながら息絶えた。それを何度も、何度も何度も、夜がくるたび、目を閉じるたびに眺めてきた。
気づけば虚空を見つめたまま硬直してた俺を、フェリクスが必死に揺さぶっていた。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと、くだらない夢を思い出してな」
ただの夢だ。俺の恐怖心が作り出した幻に過ぎない。分かってるさ。夢に見るからこそ現実ではないと信じられるんだ。彼女の死について考えるよりもっと酷いのは彼女がいた頃の夢だった。
俺が馬鹿なことを言ったら彼女はわざとらしく顔をしかめ、やがて仕方ないなと笑ってくれる。頬に触れ、髪を撫で、口づけを交わす。その唇の感触も抱き合う体温も、知りすぎるほどに知っていた。まるで現実のような手触り。彼女がそこにいるのだと心から信じられる。
最悪なのは目覚める瞬間だ。どんな悪夢でも彼女がいない現実よりはマシだった。夢ならいずれ覚めるのだから。
目が覚めると彼女はいない。あんなにも確かな存在感があったのに彼女はいない。どこにいるのか分からない。無事でいるのかも分からない。彼女がいない。それだけだ。
何百年を生きられたとしても、この身から穢れを取り除けたとしても、彼女がいなけりゃ意味がない。焦りばかりが募った。俺は彼女を探しに行くこともできない。ただ、待っているだけだ。