誰も知らない宇宙
夏だというのにどこまでも続く雪景色。普段ならエルフズブラッド川はサーニア近辺のあらゆる流通を担っていた。その川が完全に凍りついている。ブライト中の景色を思い出して不愉快極まりないが、ここ最近の異常気象はあちこちで見かけるヴェイルの裂け目のせいだろうか。そしてフロストバック山脈の真上に居座る巨大な亀裂。混乱が山向こうに達していないとも思えず、とても不安だ。
フェレルデンが心配だった。しかし山脈に近づくにつれ意識が混濁するのを感じ、これ以上は戻ることができない。今の私では山を越えられないだろう。未練がましくハイグローブの辺りをうろつくのが精々だ。
私が加えた治療という名の攻撃により気を失っていたサムソンがようやく目覚めたようで、あの異形の騎士を甲斐甲斐しく世話しているマドックスが律儀に私を呼びに来た。思い悩むのにも飽きたところだしちょうどいい。
レッドリリウムを植えつけられた元テンプル騎士。古代のダークスポーンに仕えていた男。より優れた“器”が手に入ったため主君に捨てられた哀れなゴミ野郎。それが彼について知っているすべてだ。無感情な静者であるマドックスから仕入れた情報だけでは何が何やらさっぱりだが、サムソンと会話できれば我が国の空にまで広がりつつある暗雲の正体に近づけるかもしれない。
彼を見つけた時、人間だと最初は気づかなかった。赤く光る鉱石の山、囁くような歌声が聞こえたので穢れを発しているとはすぐに分かった。よくよく見ればそれは異形の男だった。赤いリリウム鉱石が体から“生えて”いる。その怪物は馬鹿馬鹿しいことにテンプル騎士の鎧を身につけていた。
怪しげな赤石男……サムソンを遠巻きに取り囲むように、同じく赤を纏った騎士たちが各々弱り果てて私を見つめていた。悪鬼じゃない、ダークスポーンでもない、しかし邪悪には違いない何かに変貌を遂げたテンプル騎士たちと、付き従う静者が一人。顔ぶれからしてサークル・オブ・メジャイの崩壊によって生まれた集団なのだろうとは思う。
通り過ぎるはずだった私は足を止め、その不審者どもに歩み寄った。リリウムの苗床が如き有り様のサムソンがまだ息をしているのに驚き、身体に触れれば未だ生命力が滾っているのに驚き、治療が可能だと判断してそれを行った。
つまり腹から背中から肩から腕から皮膚を突き破って生えていたリリウムの根本に剣を刺し込み全部を抉り取ったのだ。サムソンは途中で痛みに気を失った。自分が死に瀕した時のために持ち歩いていた非合法な強力回復薬を投与してあとは放置。今に到る。
正直、本当に立ち直るとは思っていなかったからまた驚いた。彼の生に懸ける執着たるや並大抵のものではない。そんなに未練ある人生を歩んできたようには見えないのだけれども。
マドックスに連れられて騎士たちの休息所に足を踏み入れると、ぐったりして蹲ったままサムソンは恨めしげに私を睨みつけた。
「死から救ってやったのに何だその態度は」
「ぉぐあっ! て、てめぇ……そっちこそ何なんだ一体、」
それなりに人間らしさを取り戻した体を思いきり踏みつければ彼はみっともなく呻いて悶絶する。しかし次の瞬間にはもう復活して起き上がり、全身に怒りを漲らせた。まったく呆れ果てた生命力だな。
「私はエリッサだ。そっちの名はマドックスから聞いている。サムソン、お前に穢れの力を与えたダークスポーンは誰だ? 亀裂はそいつの仕業か? 迷惑だからやめさせろ。でなければ私が殺す。そいつの居場所を吐け」
私の詰問にもかかわらずサムソンは口を開けっ放したまま呆けていた。頭の回転が鈍いな。体力だけじゃなく知力もバケモノ並みか。もちろん悪い意味で。
「仕方ない、一つ一つ聞いてやる。お前の主の名は?」
「……コリーフィウスと本人は名乗ってるが」
「本当の名前には興味がないからそれで充分だ。そいつの目的はブライトか?」
「違うね……“元”マスターの望みは、古のテヴィンター大帝国の復活さ」
「なるほど。一段階先の厄介事というわけだ」
以前殺した賢者あがりの愚者の目的はダークスポーンを呼び声から解放しブライトを防ぐ事だった、とか本人は主張していた。コリーフィウスとやらの行いを考える限り今回は“ブライトを好き勝手に起こす力を得てセダスをテヴィンターのものに!”という感じだろうか?
「おい、ちょっと待てよ。あんたはまさかコリーフィウスの知り合いか? 詳しい事情を知るやつなんかいるはずないのに、なぜそう理解が早いんだよ」
「私はグレイ・ウォーデンだ」
「……ああ」
たかがその一言でサムソンはすべてを納得したらしい。つまり、この件はウォーデンの特質と深く関わっているということだな。
鍵は空の亀裂から降り注ぐあの歌だ。切迫した想いで胸に貫き、死の恐怖を掻き立てる。あれが偽物だとはすぐに分かった。
呼び声は内なる音楽のようにも聞こえるが、我々の体に穢れを作り出す機能など存在しないのだから、歌声の発する本を辿れば自分以外の何物かに辿り着く。あれは我々をフェイドに繋いで縛る魔法だった。心の奥ではなく、その更に向こうから聞こえてくるんだ。
おそらくコリーフィウスは空に亀裂を作ってそこから漏れ出すフェイドの歌でグレイ・ウォーデンを絶望に叩き込み、烏合の衆となった彼らの心を容易く支配したのだろう。南部からウォーデンが消えたのはそのためであり、亀裂から遠く離れた異国のウォーデンに影響がないのもそのためだ。
私はコリーフィウスが聞かせる絶望の歌に惹かれない。真の呼び声がもたらすのは死への恐怖ではなく安堵だと知っているから。その音楽は優しく甘やかにすべてを許した。心が凪ぎ、感情の波が静まってゆく。無限の静寂、永遠の平穏。
“もう苦しむな、主の腕のなかで安らぎを得るがいい”
それは……慈愛と包容の歌なんだ。
偽の呼び声でウォーデンを得たのは分かった。だがそれは今どうでもいい。問題は目の前の男だ。明らかに穢れを受けていながら平気そうな顔で正気を保っている騎士崩れ。
「お前たちは何だ?」
「ただの兵士だよ。あんた方が血を飲むように俺たちはレッドリリウムを摂取して穢れを取り込んだ。失敗すりゃ怪物に成り果てる。成功しても同じだがな」
「だが、お前はグールになる気配もない」
ウォーデンになったテンプル騎士はアリスターしか知らない。誓いを済ませた者が騎士団を抜けることは滅多にないし、ウォーデンの側でも教会との間に波風を立ててまで彼らを徴兵しないからだ。サムソンを見るとやはり魔法を遮断する才能と穢れに対する耐性は関係があるのではないかと思う。もっと比較例があればいいのに。
テンプル騎士はリリウムを与えられ、魔法に片足を突っ込みながらそこを抜け出す術を得る。私は彼らのやり方を深く知るべきなのか。
「俺は特別に耐性があるんだ。ウォーデン、穢れがどこから来るか知ってるだろ? その道を辿ってみたことはあるのかな」
「お前まさか漆黒の都へ行ったんじゃないだろうな」
気持ち悪いから近寄るなと後退ったらサムソンは腹を立てるでもなくニヤニヤと不気味に笑ってみせた。神経の図太いやつめ。
「ちょっと近づいてみただけさ。どこから流れてくるか知れば塞き止めることもできるかと思ってね」
「成功したのか?」
「だったらリリウムに乗っ取られたりするかよ。だが、今も正気なのはコツを知ったからだ」
陰惨な目をしてサムソンは呟いた。穢れを摂取して狂わずにいるのは幸せと言えない。それは己の狂気と冷静に向き合うことにほかならないから。
穢れはフェイドから来る。それは知っている。ヴェイルの裂け目が現実とフェイドを繋ぐのと同じく、血の穢れが私を死に繋いでいる。この呼び声から逃れるためには洗礼の儀によって私の中に開かれた裂け目を閉じればいいのだろうとは考えていた。分からないのは方法だ。
いつだったかブラックマーシュで小さな裂け目を閉じた時のように、私と穢れを繋ぐポータルを妨害し、ヴェイルを引き裂く力を止めれば……。
「マドックスは静者だな」
「おや、鋭いねぇ」
「茶化すな。フェイドとの繋がりを断つ方法はあるじゃないか。静寂の儀式を変則的に行えば魔法の影響だけを遮断できるのでは?」
そしてお前はそれをやったのではないか。目線で問えばサムソンの虚ろな瞳とまっすぐにぶつかった。軽薄な態度で誤魔化しているが彼はマドックスのように無感情だ。体の一部を抉っても悲鳴さえあげなかった。おそらく彼は痛みを感じていない。リリウムを摂取して平気な顔なのは……死との繋がりを断っているからだろう。
彼はテンプル騎士。儀式のやり方は知っている。魔道士なら自分自身の魔法で完遂させるそれを中途で終わらせたらどうなるのか。その結果が彼、穢れへの驚異的な耐性だとすれば。
フェイドに行って自分の夢に通ずるポータルを塞いでしまう。心に障壁を張り、心をフェイドに閉じ込める。そうすれば穢れから身を潜められるだろう。静者のように。
机上の空論と言われても致し方ない。だが正解に辿り着くまではあらゆる間違いを犯し続けるしかないんだ。サムソンは実行不可能な絵空事だと笑い飛ばしたが、私はその可能性に縋る。
「お前のように穢れを撥ね退けたくば、要はフェイドに入ればいいんだろう。そして私に穢れを流し込む源を破壊する」
「簡単に言うね」
「目覚めさえすればフェイドで意識を保つのは容易だ。慣れた」
「慣れって……あんた、実は魔道士なのか?」
「魔法の才能に目覚めるかもしれないと言われたことはあるよ。まあ、その予感は外れたが」
ウィンが生きていたら助けになってくれただろうか。でも彼女がフェイドに詳しいというのは自称に過ぎなかったからな。本当の専門家に助力を仰ぐべき時か。フェイドを熟知している者……あるいはそこに住んでいる者に。
常人なら泥酔中でもしないであろう馬鹿げた会話に真顔で講じる私を見ていて、今更ながらサムソンは不安になったようだ。
「なあ、おい、コリーフィウスが何を求めてるか知ってるのか? 生身で漆黒の都に入ろうとしてるんだ。意識だけで立つ夢の中でさえ成し遂げたやつは居ない。それをあんた、」
「火を知るなら何かを燃やせ。その危険性を理解するのは自分が火傷した時だ。体験してみなければ本当に知ることはできない」
「……本気でフェイドに行こうってのかよ」
「ウォーデンを呼びつける声の主はそこにいる。黙らせるには行くしかない」
サムソンは誤解している気がする。彼は私の言う呼び声をコリーフィウスが作った偽物のことだと思っているんじゃないか。事実そっちもかなり喧しいので敢えて否定するつもりもないけれど。
彼は自分を捨てた主に対して未だ僅かなりとも忠義があるようだ。意外で、少し好ましい。私事が切羽詰まっていなければもっと彼らに興味を抱いただろう。
ともかく、ただの夢で目覚めたことはないように思う。フェイドで覚醒するには領域の主に招かれなければいけない。つまりいつだったかのように“呼んで”もらえばいいわけだ。
「信頼できる精霊にフェイドへ連れ込んでもらってそこから漆黒の都へ向かう、と」
「俺は今とんでもなく頭のおかしな女を目撃してる」
「それはよかったな」
「……よくない」
出会った精霊のほとんどは殺してしまった。コナーに取り憑いた欲望の悪魔、サークル・タワーの怠惰や傲慢、ガントレットのガーディアン、フェイドビーストにガックスカン、森の女王とウィサーファング。ああろくでもない。彼らが本当に死んでいるのかはともかく、フェイドへ招いてくれないかと尋ねたい相手でないのは確かだ。
意思疏通が可能と言える相手はただ一人。しかし彼は行方が分からなくなっている。いずれは穢れを断ち切れるかどうか試すにしても、悠長に彼を探している余裕はない。今は。
まずは正気を失わないことだけ考えなくてはならなかった。
「頼れる精霊が一人しかいないのは心許ないな」
「一人いる時点であり得ねぇよ……」
「まあ、彼を探すだけの猶予を作るためにも、この呼び声をなんとかしなければ」
しばらくはサムソンとマドックスを観察してみようと思う。魔法の、フェイドからの影響を遮断して自我を守る方法を学ぶために。呼び声が聞こえるようになって随分になる。限界が近づいていた。私にはそろそろ静寂が必要だ。