私はあなたと生きていたい。



 スカイホールドは雪に埋もれるように建っていた。荒れ狂う突風が暑さを吹き飛ばしているかのように、フロストバックの天辺には夏が見当たらない。
 話に聞くばかりで実際ここへ来たのは初めてだが、一通り内部を見て回ってすごく不思議に思う。どうしてこんなにボロボロなんだ? 昨日ハイドラゴンの大群に襲撃されでもしたのかというくらい壁も天井も穴だらけだ。
 彼らがここに陣取ってもう一年くらいになるはずだが、審問会には思ったより人が集まっていないんだろうか。今ここがもぬけの殻なのはアーバー荒野に軍を集結させているためだとしても、定住しているとおぼしき者の姿がほとんど見当たらないのは気掛かりだった。
 セダスのあちこちへ部隊を展開しているようだし、軍備を優先するあまり城塞の修復に割けるだけの人手は足りてないのかもしれない。しかし守護の手をどこまで伸ばしたとしても肝心の本拠地が崩れかけってのはどうかと思う。審問会の力が広がれば広がるほど、スカイホールドが崩れた時に壊れるものも増えるのだから。
 これは困ったことだ。もし追いつめられたコリーフィウスが審問官の本拠地を攻めようなんて考えたら一体どうやって例のアーチデーモンもどきと戦うつもりなんだ? スカイホールドにはドラコン砦のような屋上広場もない。あの高い見張り塔に取りついてブレスを吐き続けられたら兵士たちには為す術もないだろう。
 もっと困るのは、それを危惧した審問会が決戦の場を他のどこかに選んでしまうことだ。例えばここからそう遠くなく、つい十数年前にもアーチデーモンとの決戦が繰り広げられたデネリムなんかにコリーフィウスを誘導されると俺はすごく、とてつもなく困る。腐りかけのドラゴンが飛び回る光景なんてそう何度も見たいもんじゃない。どうにか南の荒野で事が済んでくれればいいんだが。

 エリッサの間借りしている部屋も崩れた壁はそのまま、折れた木材やなんかが床に散乱している酷い有り様だ。彼女のことだからきっとまだ片づけてもいないところへ勝手に転がり込んだのだろう。
「ベッドくらい綺麗にしておけよ。眠れないだろ」
「……熟睡したくないんだ。だからこれでいい」
 埃を被りっぱなしのベッドに腰かけて、彼女はいつかのダンカンと同じことを言う。
 穢れの侵食が進むとグレイ・ウォーデンは心が無防備になるのを避けるために睡眠を拒み始める。眠ったが最後、悪夢の奥深くから二度と戻ってこれなくなりそうだからだ。屋外と変わりなく風が吹き荒ぶ寒い部屋、木片の転がるベッドでは浅い眠りしか得られない。だからちゃんと目覚められる。
 もう理性だけでは戻ってこられないほど夢が深くなっているってことだ。
 ぼんやり犬と戯れていた後ろ姿に声をかけた一瞬、エリッサは俺が誰なのかを理解できなかった。無意識に「アリスター」と呟き腑に落ちたように頷いたあと、遅れて俺のことを“忘れていた”のに気づいた彼女はその衝撃に崩れ落ちた。
 時期が近づくとグレイ・ウォーデンの記憶は混濁してくる。正直、いくらかは覚悟していたのであまり衝撃は受けなかった。とにかく生きて、無事でいてくれればそれでよかった。そしてその願いはどうにか叶ったわけだ。

 エリッサは荷物の中に多くのメモを残していた。記憶を失った明日の自分に、それまでの経緯を伝えるためのものだ。もちろん俺が彼女の状況を理解するにも役立った。日記代わりの膨大な紙束を読み込むうちに、字が上達したようだなんてどうでもいいことに気を取られたりもする。
 これまでに集めたブライトと穢れに関する情報はとあるドワーフの商人に預けているらしい。ティグリンとかいうそいつには月に一度必ず何らかの連絡を取るようにと彼女が自身に与えた指示がある。もし不慮の事故で商人に接触できなかった場合、彼女が積み重ねてきた仕事はすべて俺のもとに届く手筈だった。エリッサが死んだという報せと共に。
 こっちへ戻ってきたのは一年と少し前。天の亀裂から溢れる魔法に阻まれ山脈で立ち往生していた彼女は、調査を続けるため――狂気に呑まれないために穢れが精神に及ぼす影響を一時的にでも留めようと試みた。
「その静寂の儀式みたいなものは、一応の成功をおさめたようだな」
「呼び声は聞こえている。でも魔法は私を見つけられない。私の心がそこにないので、穢れには侵されない」
「で、自分でも自分を見つけられなくなったんだろ。心をしまい込んだ扉の開け方が分からなくなったって? お前って、本当に……」
 頭悪いんじゃないのかと言いかけたところで慌てて口を噤む。しかし彼女は不思議そうに首を傾げているだけだった。
「……馬鹿」
「……」
「馬鹿。馬鹿だよ、お前は。ほんと馬鹿。俺もビックリの大馬鹿者だ」
 反応はない。怒る素振りも見せない。まるで本当に静者そのものな無反応が少し悲しいけれども絶望するつもりはなかった。泣くのは本当にどうしようもなくなってからだ。エリッサはなんとかして時間に猶予を残した。俺はそれを力一杯に引き延ばすだけだ。

 俺が昔テンプル騎士の修行内容を教えたのは結果的に良かったのか悪かったのか。騎士団が使う集中法を得た彼女は特殊能力と呼べるほどの精神統一を可能にした。徹底的な自制によってエリッサは文字通り“我を忘れた”んだ。始めから心がなければ狂気に侵されもしない。穢れに見つからないところに隠してしまえば破壊されはしない。
 残された肉体からグレイ・ウォーデンとしての性質を取り除くことができれば、そこに隠した心を取り戻せたなら、彼女は助かる。
「でもどうしてスカイホールドに来ちゃうかな。審問官はコリーフィウスに狙われてるんだぞ。もしあの野郎がここに攻めてきたら……」
 審問会があの古代のダークスポーンとアーチデーモンを倒したところで、ここにいる唯一のグレイ・ウォーデンを依り代に甦ろうと目論まれたら彼女の肉体は破壊されてしまう。
「なぜスカイホールドに来たのか? “私”はモリガンを殺さなきゃいけないから」
「そいつは最高だね。あー、これか。『モリガンが私の死に様を伝えるのを阻止する』……つまり、お前の……最期を、俺に秘密にしておくためか?」
「そうなのかな。たぶん。どうだろう? 分からない」
 おそらくモリガンはお得意の邪悪な魔術でエリッサの動向を監視していたんだろう。そして死に物狂いで本当に死ぬまで目的へと突き進んでしまうであろう彼女を生の世界に留め置くため、俺を足枷にしたんだ。ちょっと気に入らないが感謝しておくべきだろうな。お陰でエリッサも“死なないこと”を最優先にしてくれたんだから。
「だけどモリガンを殺すのは最後の最後って書いてる。その前にやるべきことがあったんだろ?」
「そう……たぶん……だから私は、まだ彼女を殺せないんだ」
 何の対策もなく心を捨てたりしない。こんな空っぽになっちまうなら穢れに取り込まれて死ぬのと変わらないじゃないか。エリッサは戻ってくる自信があったんだ。忘れるのと、なくしてしまうのは違うと、隠した心を見つけ出して忘れた記憶をもう一度取り戻せると確信があったから決断したんだ。

「情報の蓄積が問題だった。ウォーデンの過去を辿り、呼び声の源を突き止め、穢れを断ち切る方法を探し求めて、……手が届きそうだった。でも核心に触れようとするたび記憶が曖昧になる。自分が何をしていたのかも分からなくなる。秘密を守るヴェイルのように思考に薄靄が掛かって、どうしても答えに辿り着けない」
 それは例えばソルジャーズ・ピークを隠す霧の魔法のように。穢れが招く混乱はウォーデンを真実に辿り着かせないための障壁なのかもしれない。俺たちは洗礼の儀から長くても30年足らずで死に至る。その寸前には錯乱してしまう。寿命については入団するまで聞かされないので“なぜ生きられないのか”なんて疑問はグレイ・ウォーデンにならなきゃ抱き得ない。そして知った時には既に遅し、穢れを克服する方法を探すうちに時間切れ。なるほど、嫌な話だ。
 呼び声を癒す方法を、今まで誰も探さなかったはずがないと言ったのはエリッサだ。もしそれが叶うならブライトのない間はウォーデンでいる必要などないじゃないか? 倒すべきアーチデーモンのいない時代に呼び声を聞いて闇に堕ちる者たちは、それは一体、何のための犠牲なんだ?
 誰も探さなかったはずがない。だが誰も見つけていない。グレイ・ウォーデンの性質がそもそも、それを見つけられないように作り上げられているかのように。

 エリッサの隣に腰を下ろすと、ほとんど半壊したベッドが不安げに軋んだ。二人分の体重を支えるのはギリギリって感じだ。
「まだ足掻けると思った。あの音楽を耳にしても感じなければ肉体が滅びる寸前まで調査を続けられるって。でも、手離したはずの心が訴えてくる……恐怖だけは今も私の居場所を知っている。本当に私だけで答えを見つけられるのか? 失敗して、あなたを裏切って死ぬんじゃないか? 呼び声を癒せて戻っても……あなたが、もう、いなかったら……」
 彼女のメモは重要度の順に並んでいる。何のために何をすべきか、毎日読み返さなければならない部分は重ねた束の一番上に。そして一番下には、きっと正気と混乱の狭間で書いただろう俺への手紙があったんだ。
“会いたい……。何の結果も出してないけれど、会う必要などないけれど、あなたに会いたい。顔を見たい。あなたの声を聞きたい。その腕のぬくもりに再び抱かれるために、まだ未来が欲しいと思う。私自身がそれを忘れたとしても願いはここに残される”
「私は鍵をかけた。記憶とか感情とか私が私であるための証を壁で囲って、穢れに食い荒らされないようにして、呼び声から遠ざけた。誰にも開けられないように心を閉ざした。鍵は……その鍵は、あなただ。呼び声よりも強く私を呼んでくれ。闇に迷ってもきっとあなたが連れ戻してくれる。そう信じて、私は……」
 言葉を並べながらわけが分からなくなった彼女は目に涙を浮かべて俺を見上げた。普段プライドが高すぎて他人に頼らないでいるとこんな時にどうすればいいかも思いつかないらしい。俺は痩せこけた彼女の手を握り、お前の言いたいことは簡単な言葉ひとつで済むのだと教えてやった。
「アリスター、私を助けて」

 審問会はグレイ・ウォーデンを追放したが、何人かはフェレルデンに逃げてきた。俺たちの民が彼らの保護を求めたんだ。皆まだブライトの脅威を覚えている。追放者はアンダーフェルスと決別するだろう。これからはエリッサの持ち帰った資料をもとに全員で調査に向かえる。
 実はコリーフィウスの傘下から逃げ出したはぐれ者も匿っていたりする。結局は彼らも居場所を探していただけの迷い子なんだ。離れてしまえばコリーフィウスへの忠義など持ち合わせていない者は多い。アヴァナスの研究は後継者によって更なる進歩を見せた。俺もエリッサもせめて普通の人間と同じくらいは生きられる。
 気づけば正義と秩序から爪弾かれた落ちこぼれ揃いの仲間たち。そういう俺は何者だ? 妾の子として生まれ、持て余されて追い出され、騎士の誓いも果たせずウォーデンに拾ってもらい、そこにさえ留まれず……だが、忌々しい血脈が俺を生まれたところへ押し流して最後には一国の王となった。今の俺は寄る辺なき人々に家を与えてやれる程度には力を持ってるんだ。愛する女一人も救えなくてどうする?
「いいか、エリッサ・クーズランド。お前は自分だけで何もかも解決できると思い上がった馬鹿だ。できなくて、失敗して、不安になって当たり前なんだよ。反省しろ。俺を頼れ。お前みたいな傲慢で居丈高で可愛いげのない女を守ってあげたいと思う馬鹿なんて世界に俺くらいのもんだぜ」
 ガラス玉みたいな瞳が相変わらず無感動に俺を見ている。烈火の如き猛反発が返ってこないと分かってるから言いたい放題だ。それも今だけの楽しみだろう。
 彼女が心にかけた覆いを剥がしてしまうのは危険だと思う。呼び声に対して無防備になるということだ。それでも鍵は俺なんだ。一人で先を行くのをやめて、エリッサは俺に選択を任せた。彼女をどうやって生かすのか、決めるのは俺なんだ。



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