悪魔の子たち


 誰かのために強くなりたいだなんて、考えたこと無かった。
 ずっと、自分自身のために生きてきた。迫害された過去はもはや亡霊と化した。海軍に追われる日々は、落ち着ける時はほとんどない。
 緊迫感と緊張感に常に晒されて、他者の視線を意識して息を潜めた。自分の存在を認めてほしいのに、まるで自分自身は居ないかのように振舞った。周りが見ているのは、偽物のロビン。本物は、もっと可愛いものに触れていたいし、謎や不思議なものが大好きなのに。
 本物の自分と久しぶりに再会したのは、エニエスロビーでの一件後、サニー号の鏡を覗いた時だ。感情をさらけだし、子どもみたいに涙と鼻水をぼろぼろ垂れ流して、大きな声で助けを乞うだなんて、オハラから逃げる時が最初で最後のはずだった。鬱屈とした暗い森で、静かに息を潜めてただ生き延びてきたようなロビンを、麦わらの一味は森の外に連れ出して、光を浴びさせてくれた。
 ロビンの発する言葉が本音の裏返しなのだと気づいてくれた、数少ない子たち。真っ直ぐで、迷いがなくて、ブレなくて、どこまでも突き進んでいく姿。困っている人がいると助けてしまう、海賊らしくない様子は、お人好しとさえ捉えられる。それなのに、狙った獲物は絶対に逃がさない。仁義を貫き、恩を仇で返すようなことはしない。仲間の危機には必ず駆けつける、海賊らしい一面もある。
 憧れにすらできなかった、自分に素直すぎる生き方。そんなことできるのは、遠い海の向こうにいる知らない人々だけだと考えていた。しかし、それを当然のようにするのは、大半が十代半ばの少年少女たちなのだ。
 ロビンが安心して眠りにつける場所を手に入れて、仲間も増えたある日、ジェシカ・ヒューズはやってきた。
 この日をロビンは絶対に忘れない。ジェシカを見た時の衝撃は、ずっと胸の内にしまっておく。
――おかあさん……?
 もしかしたら、小さな声で呟いてしまったかもしれない。
 新たに仲間に加わったジェシカを一目見たとき、母オルビアに見間違えてしまった。それほど、二人は共通点があった。静かに、けれど包み込んでくれるような笑い方が、母にそっくりだった。そして、その肌と髪の白さ。純粋さと純白、どこまでも続く白い雲、一人で見上げた初めての雪をイメージさせた。ロビンはしばらくの間、開いた口が塞がらなかった。クルーに名前を数回呼ばれて、ようやく我に返ったくらいだ。
 歳が一番近いロビンは、いつの間にかジェシカと仲良くなっていた。たぶん、麦わらの一味の中で、一番ジェシカと距離が縮まったのは自分だ。ロビンはそう自負している。
 ジェシカは探究心があり、希求心も持ち合わせていた。科学者という立場は、考古学者の自分とは一番かけ離れた場所にいる。しかし、よく関係性を紐解いていくと、両者は互いなしでは研究が進まないのだ。切っても切れない関係性、まるで正反対の性格をした双子。それが考古学者と科学者である。
 互いの研究領域の話に花を咲かせるのは、ロビンの楽しみの一つにすぐ加わった。ジェシカは話がとてもわかりやすく、時折小説のような言い回しで、難しく遠巻きにしそうな科学知識を、すぐにロビンの身近に連れてくる。
 ジェシカが一番に興味を示したのが、ポーネグリフにまつわる、この世界の歴史について。科学者としてのジェシカに火をつけてしまったのが、『ハナハナの実』の能力についてだった。研究者の顔を全面に見せたジェシカに、サンジが食事だのおやつだのと話しかけてこなければ、ロビンは一日中拘束されていただろう。おっとり、しっとりした見た目と反して、とてつもなく情熱的なのだとロビンは目を丸くしながら、ジェシカの新たな一面を知った。
 ジェシカは一味を驚かし続けた。まずはその容姿の美しさ。次に戦闘における強さと、皮膚感覚がないという事実。さらには、研究熱心で謎に対しては解き明かしたくなってしまう科学者の顔。そして、男性から暴力を受けていたという壮絶な過去。ジェシカが船に乗ってから、大きな戦闘はなかったはずなのに、死闘をくぐりぬけたような感覚は、きっと彼女を本当の意味で理解していった代償だろう。
 なにがあっても、ロビンはジェシカを嫌いになれないし、軽蔑もしない。それは、ジェシカと初対面した時から揺るがない事実であり、麦わらの一味全員がそうだろう。
 潮の香りに馴染むように、ジェシカは一味に馴染んでいく。いつの間にか近くにいて、気づけばなにか手伝ってくれて、会話に花を咲かせる。そんなジェシカは、麦わらの一味になくてはならない存在になった。海賊らしくないこの一味に、ジェシカもよく当てはまったのである。
 決して私欲に塗れず、相手を慮り、働きかける。海賊にも、ましてや海軍にですら稀な人間だ。
「誰かのためにしか、生きる意味を見いだせなかったから」
 いつだったが、ジェシカが語った言葉だった。ロビンは雷に打たれたような衝撃を受けた。
 ジェシカの言葉と、普段の彼女を見て、まさかとは勘ぐっていた。けれど、実在した。そういう考え方が、この世界に、人間にあるのだと。
 あの炎に包まれた故郷で、最期の力を振り絞って逃がしてくれた、母の姿がロビンの脳裏を過ったのだ。

   * * *

 穏やかな海域を進むサニー号は、ちっとも揺れを感じない。それはパラソルの下にいても変わらない。
 ロビンは海を感じながら本を読むことがお気に入りだった。甲板にいると、賑やかで時に騒がしい仲間の声が聞こえてきて、ロビンは『麦わらの一味の仲間になった』という事実を実感するのだ。
――ジェシカもそうだと嬉しいのだけれど。
 本から顔を上げて、ロビンは向かいの席に座るジェシカを見つける。最近特にこの時間がお気に入りになったのは、凪のように傍にいてくれるジェシカがいるからだ。
 パラソルの下でロビンは本を読み、ジェシカはチョッパーから借りた医学書で勉強中である。穏やかな漣と風が、二人の間を過ぎ去っていく。顔を上げて空を見上げると、午前中にジェシカが洗濯した服やシーツが視界に移る。その白さは太陽に照らされてさらに明るく見えて、ロビンは目を細めた。
「勉強熱心なレディたち、ティーブレイクでもいかがかな?」
 紅茶を乗せたトレーを片手に、サンジが顔を覗き込んできた。
「あら、ありがとうサンジ」
「そんなぁ〜! ロビンちゅわんが飲んでくれて俺も紅茶も幸せだァ〜!」
 笑いかけただけでくねくねと身体を揺らす、瞳がハートになったサンジは、しばらくの間そうしていた。ロビンはほんの少し息を吐いて、唇を引き締めた。彼らを名前で呼び始めてからだいぶ経つものの、未だ慣れないものがある。少しだけの照れくささが、ロビンの唇を震わせる。
「ジェシカちゃん、失礼」
 サンジはくねくね動くのをやめて、ジェシカの視界に入る位置のテーブルを小さくノックする。集中しているジェシカは、一度や二度声を掛けたくらいでは顔をあげない。目に見える形で、彼女の集中を遮らなければ、顔を合わせられないのだ。
 ジェシカにはきっと、サンジが断った言葉は聞こえていない。しかしサンジは毎回こうやって、断りを入れてからジェシカの集中にノックをする。
 数回サンジは小さくノックを繰り返す。ジェシカがハッと気づいて勢いよく顔を上げた。彼女は自分の集中癖を知っている。知っていてなお止められないのだと以前話していた。ジェシカが可愛らしい困り眉になって口を開く前に、サンジは笑みを深める。
「ジェシカちゃん。勉強お疲れ様。そろそろティーブレイクしないかい?」
「ごめ……ありがとう、サンジくん」
「集中しているジェシカちゃんもとっても可愛かったけど、俺の容れた紅茶を飲むジェシカちゃんも最っ高に可愛いからさ、早く見たくなっちまったんだ。悪いね」
 水面下で謝るような、相手を思いやるような二人は似たもの同士だ。ロビンの瞳に映る二人はお似合いで、けれどまだジェシカは自分の隣にいてほしい。欲張りな本物の自分と、二人の距離が縮まっていく様子を一番近くで見たい野次馬な自分が、ロビンの中でせめぎ合っている。
「ジェシカちゃんは、一分くらい待ってから飲むとちょうどいいよ」
「いつもありがとう、サンジくん」
「感謝の気持ちを毎回伝えてくれるジェシカちゃんもなんって優しいんだァ〜!」
「サンジくんも優しいよ」
 二人のやりとりは甘酸っぱいというよりも、やさしい世界に閉じ込められたようだった。
――サンジも、とんでもない子を好きになってしまったわね。
 まさかサンジが一人の女の子へ愛情を注ぐとは、考えられなかった。これまでのサンジは、女の子へ平等に愛を振りまく王子であったのに、今ではすっかりジェシカに対しては騎士のような振る舞いだ。王子から騎士へ、大多数から一人へ。それは、今までのサンジからすれば奇跡に近いこと。
 しかし、サンジは変わった。ジェシカへ向ける感情に、慈しみと愛おしさ、独占力が加わった。
――恋敵は多そうね。
 一番の天敵は、きっと『あの子』だろう。ロビンは頭の片隅で、彼女に何度も恋に落ちる『あの子』を思い出す。優しさの塊のようなサンジは、『あの子』に勝てるのかどうか。
 まだ誰にも共有していない事実に、ロビンは胸がそわそわしてしまう。早く打ち明けて、一緒に応援しつつ見守ってくれる人が出てこないか、ロビンはずっと待ち続けている。
「お代わりがほしくなったら、いつでも呼んでくれ」
 サンジはそう言って一礼すると、踵を返す。サンジは、この時間を誰にも取られたくないと意固地になっているロビンの心中を悟っていた。水面下でのやりとりのような憶測の広がりに、ロビンは感謝と同時に申し訳なさを感じる。ロビンは、この船でジェシカと二人きりになれる機会を逃したくないし、彼女がサンジと一緒にいる姿も見逃したくない。
 なんとも贅沢な願いだと、ロビンは失笑しそうになるのを抑えて紅茶を口に運ぶ。香りのよい、味わい深い紅茶だった。
 チラリと視線を上げると、きっちりサンジの言いつけを守ったジェシカは、紅茶に少し息を吹きかけながら、ようやく一口目を飲み込んだところだった。飲み込んだ後、ふわっと微笑むジェシカの姿を、きっとサンジも見たかっただろうに。
「やさしいね、サンジくん」
「そうね。紅茶も美味しいわ」
「ね、美味しい」
 サンジのやさしさに気づいているのだろう。ジェシカは必ずサンジがいなくなったあと、ぽつりと呟くのだ。恋愛小説よりも瑞々しく、ティーンエイジャーの恋模様のよりも、二人はずっと甘いのだ。まろやかな甘さはまるで口溶けの良いクリームのようで、ロビンはいつまででも味わっていられる。
「チョッパーの講義はどう?」
「とってもわかりやすいよ。一つ質問したら回答を十くらいくれて、学びが深くなるし、新しい疑問も出てきたりして。昨日もね――」
 それからジェシカは、昨日の講義内容をロビンに伝えた。チョッパーのわかりやすくも、専門的な意見は、ジェシカの科学者魂を刺激していくらしい。疑問や予想、仮説が検証される素晴らしさと達成感を知っているが、ロビンは最近それに恵まれていなかった。このサニー号のなかでそれが日常的に行われているのかと思うと、少しだけジェシカを羨ましく思う。あの快感にも似た衝撃を、彼女は毎日のように全身で受け取っているのだ。
「どうして、医療を習おうと思ったの?」
 ロビンからすれば、ジェシカが医術を学ぶことは、あまりにも急な話だった。
「チョッパーにも話したんだけど……」
 ジェシカは続けた。元からの興味と、チョッパーを見て学びたくなったと。学ぶことで、有事の際に皆の役に立てるのだと。
――どうしてそこまで?
 ロビンは開いた口が塞がらなかった。
「……どうしてそこまで」
 無意識のうちに、疑問は口から飛び出していた。ジェシカの目を丸くした顔に気づき、ロビンはハッとする。
 ジェシカはグラスの縁をそうっと撫でた。陶器と指先がキュウッと擦れた音がする。耳の奥まで響いたその音に、ロビンはなぜだか、首を絞めつけられたように息ができなかった。
「……ニ度、拾ってもらった命なの」
「っ、え……」
「一度目は、幼い時、私に名前をくれて、生きる術を教えてくれた。でも、幸せな時間はずっと続かなくて。私のせいで『彼』は死んでしまったし、私が殺してしまった。だから、もう生きる価値も意味もないと思って、死のうと思った。その時に、義兄(にい)さんに助けてもらった。それが二度目」
 ロビンはようやく息をつく。
 ジェシカ自身の話を、初めて聞いた。身の上話だなんて、聞いたこともなかった。言いにくそうな内容なのに、話してくれた。
 信頼できる人にしか、こういう話はできない。
 ロビンはジェシカの生い立ちに驚愕しつつ、話してもらえたことを嬉しく思えた。
 ジェシカと目が合う。眉を下げて笑いかけられる。心を読まれたような気持ちになる。
「拾ってもらった命だから、それに見合うことをしなければいけないって、絶望の中で考えた。そうしないと、拾ってくれた二人に申し訳ないなって」
「……苦しく、なかったの?」
「苦しかった。とっても。こんなに苦しくてつらいのなら、死んだ方がマシだって何回も考えた。それでも踏みとどまれたのは、『彼』や義兄さん、他にも優しくしてくれた人たちが、私と一緒にいるとき、すごく優しそうな顔をするの。それだけで心に陽が射したような、ぬくもりに包まれているような感じがした。今なら嫌なことを全部、忘れられるかもって、そんなことさえ思えた。彼らは、私の『世界』そのものだった」
 漣がザアザアとロビンの耳元に届いてくる。風が大きく吹きつけて、「もしかしたら嵐が来るかも!」と航海士の声が聞こえてくる。船内が慌ただしくなる一方で、ロビンとジェシカの傍は、ひどく静かだった。
「彼らの優しそうな顔をもっと見たい。私がなにかをすることで、彼らのそんな表情が見られるのなら、何だってやりたいと思った。……いま考えれば、すごく稚拙な理由だと思う。褒められたい子どもみたいな。でも……拾われたこともあって、無意識のうちに彼らに見捨てられないよう、必死だった面もあったのかもしれない」
――誰かのために、だなんて。
 考えたことすらなかった。だって、生きることに必死だった。みすぼらしく生きることにすがりついて、明るい『いつか』がくるのだと、暗闇から光をずっと探してた。自分のためにしか生きられなかった。それがすべてだった。それ以外、何も無い。憎悪と悲哀と、かすかな希望。それらを押し殺して、ただひたすらに息をしていた。
――なにもかも違うのね。
 ジェシカの話は、まるで異なる世界のことを聞いている気分だった。幼い頃から違う道を歩いてきた。それは当たり前のことなのに、なぜだかロビンは、ずっとジェシカが自分と近いとこにいると感じていた。
「…………」
 ロビンは口を開く。しかし、言葉はなにも出てこない。唇は力なく閉じた。ただ呼吸を繰り返すことしか、今の自分はできないのだ。
「……『悪魔の子』」
「ッ!」
――この子、私のことを知っているの?
 博識なことも、希求心があって様々な専門知識を突き詰めることも厭わない。二十年前のことだけれど、調べ方によってはたどり着ける真実だ。手配書にですら載っているその呼び名。
「生きているだけなのに、ただそこで息をしているだけなのに……『悪魔の子』と呼ばれた」
「っ……それは、あなたが?」
――まるで、私のことを話しているように思えない。
 ジェシカは頷いた。ロビンは目を見開かせる。ドクリと大きく心臓が響いて、風がロビンの髪を揺らしていく。しかし、顔にかかる髪ですらロビンは気にならなかった。
――どうしてあなたが。
 ジェシカと視線が交わり、また笑いかけられる。ドクリと大きく心臓が鳴った。考えていることが、彼女に伝わってしまったのだと察した。
「私が住んでいた場所は砂漠地帯でね、雨があまり降らなかったの。数十年に一度と言われる干ばつが起きて、作物が育たなくなると、すぐに飢饉も起きた。……そんな時に産まれたのが、私だった」
「なぜ……」
 あなたは何も関係がない。そんなこと、赤の他人である自分にも簡単にわかる事だ。しかし、そう簡単に進まないのが国、集落、人種、そして人間なのだ。
 ロビンは、自分の生い立ちや知り得た歴史から、単純な話ではないことを悟る。
「私の一族は宗教を信仰している民族で、厳しい戒律があって、神への信仰心が一律に多いの。同族や家族、仲間への意識や絆、繋がりも深い。そして、かの一族には身体的な特徴がある」
 ロビンは、それだけでピンと来てしまった。
「髪の毛は白銀、目は赤くて……肌は褐色なの 」
 ロビンは視線を落とす。全てを理解したのだ。あまりにも不運、不憫、不幸すぎる。
 信仰心の強い教徒は、そのために突飛な考えにたどり着いてしまうことがある。
 ジェシカは言葉を続けた。周りの教徒は考えたのだと。酷い干ばつが起きたのも、飢饉が起きたのも、それらにより大勢の同胞が亡くなったのも、全部異質な白い肌を持って産まれてきた『悪魔の子』のせいにしたのだ。
 理屈が通用しない。数と声が大きければ、権威を持つ者がしたこと、話したことが真実になり、歴史の正史となる。
「なぜ……話してくれたの?」
「……なんでだろう」
 波風が荒々しく鳴り響き、雲行きが怪しくなってくる。ついにロビンとジェシカに声がかかった。舵取りは男手が担当する。帆を調節して、これからくる嵐に備えるのだ。
 しかしロビンは凍りついたように、その場から動けなかった。それは紛れもなく、ジェシカが起こした魔法だった。科学の力は遠い昔、魔術と勘違いされたことがあるらしい。その歴史からしても、ジェシカはロビンにとっての魔法使いだった。
「聞いてほしいって、思っちゃったの。――だって私たち……仲間だから」
――悪魔の子の。
 ロビンの脳裏は一瞬で魔法にかかる。裏路地で蹲る幼いロビンに、白い手が伸ばされる。掴んだ先には、同じように幼いジェシカがいた。
 ロビンに笑いかけるジェシカは、母のような顔をしていた。

22,05.13



All of Me
望楼