それぞれの魔法


 黒いインクから流れ続ける水脈のようで、まるでその行為がとてつもなく聖なるものみたいに見える。するすると白い紙に現れていく刻印は、息を潜めるように生まれて、しかし確かに存在していた。
 ペン先が静かに止まった時、それは刻印の死ではなく、初めて生を受けるようだった。まるで職人技。ここまで綺麗に製図を描ける者は、船大工でさえそうそういない。直線と曲線のバランスは美しく、まさに芸術の礎、そして芸術品そのものだ。
 ジェシカは円や線を描くのが上手い。コンパスで描くように、完璧な円が仕上がる。それはコンパスを紛失した際に、偶然作業場に顔を出したジェシカがしてくれたことだった。
 円を描くだなんて、設計図を書く人間ですら熟練の技がいる。それをジェシカは簡単にやってのけた。それだけではなく、直線もすうっと呼吸するように書きあげる。皮膚感覚がない、あのジェシカがだ。
 黒いインクが水面に光る白い線のように現れて、図案の紙に軌跡が描かれていく様子は、まるで魔法の陣のようだった。

   * * *

 少女と呼ぶ年齢ではなくても、一味の平均身長よりも下である低い身長を見ると、少女という言葉がぴったりである。不運な、しかし運命に抗うように、生きている少女。
 フランキーはジェシカの人生の片鱗を垣間見れた時、滝のような涙を流した。卑劣で悲痛な経験を多くしていてもなお、ジェシカは笑い続けている。その健気な姿に、心を打たれてしまったのだ。
 フランキーのなかで、ジェシカの印象は『過度の頑張り屋』だった。まるで、自分がここにいてもいいのだという照明のように、仲間の手伝いを買ってでる。手伝いをして、感謝されて、ようやくそこでジェシカがほっと胸を撫で下ろす姿を、フランキーは知っていた。
 フランキーはジェシカから興味津々と言った視線を送られたことがある。機械弄りに興味があるのかと問いかけたくなったが、フランキーはあえて質問をしなかった。ジェシカから話しかけてくるのを、待ってみたいと考えた。
 ジェシカに無理を呈して発明作品を見せびらかさないフランキーに、ナミやウソップは首を傾げていた。男たるもの、時に待つことだって大事なのだ。それをわかっていたのは、長齢のブルックだけだったけれど、フランキーはその姿勢を貫いた。
 そしてある日、ついにジェシカが口を開いたのだ。
「私の知り合いにも、機械鎧をつけた人がいたよ」
 フランキーは耳をかっぽじりたくなった。あの秘密主義の塊みたいな雰囲気を醸し出すジェシカが、自分から、自分の話をしている。
 これは重大案件だ。一言も聴き逃してはならない。
 使命感に駆られたフランキーは、それを醸し出さないよう、慎重に言葉を選んだ。
「オートメイル……ジェシカはそう呼ぶのか」
 オートメイル。もう一度、心のうちで唱えてみる。悪くない響きだ。これから何か作ったときは、オートメイルと名乗ってみよう。きっとウソップやチョッパーが目を輝かせるだろう。
「とある兄弟がね、機械鎧の身体をしていて。兄は右腕と左足、弟は身体全部がそうだった」
「身体全部……そりゃあ俺と似たようなモンだなァ」
 ジェシカはこくりと頷き「そうだね」と呟く。彼女がこの船に乗るまでにいた場所では、機械鎧は珍しいものではなかったという。
 機械工学に長けている自分と話が合うのは、この船でウソップくらいだった。ルフィやチョッパーも話に興味を持つが、同じレベルで話せるかと問われれば、否定するだろう。それが、ジェシカがやってきた途端、フランキーは同じレベルか、今までにないくらい高度な話までできるようになった。ウソップがはてなマークを頭の上に浮かべるほど、細やかで繊細な話だ。
 ジェシカと話したのは、機械内の成分量についてのことだ。炭素の配合量を増加させ、結合度を変化させることによって、硬化レベルをあげることが出来る。それにより、防御力を高め、さらには寒冷地でも扱うことが可能だ。フランキーが喉まででかかっていたアイディアが、ジェシカの助言により言葉となって現れたのだ。 
「そんで、ジェシカは機械工学に詳しいってワケか」
「そういうことになるね」
 風が凪いで行くようにジェシカは言いのけた。彼女は風情がある。科学よりも自然のほうが似合う気がする。それでも知識は豊富で、科学や化学、機械工学なんかの方に長けている。
「ジェシカは、やらねぇのか? 機械いじりとかヨ」
 ここまで知識があるのなら、自分の専門を機械工学一本に絞っても悪くないと考える。
「私は、科学者だから」
 それでもジェシカは科学者を貫くらしい。最近では、チョッパーに師事して医療知識も学んでいる。ジェシカのいう『科学』はどこまで広いのだろうか。
「科学はね、『美しい詩』なの」
「美しい、詩?」
 なんだそりゃ。どういうことだ。科学のどこらへんが詩に相当するのだろう。比喩表現だということはすぐに理解できたが、フランキーの中で点と点が線で繋がらない。
 ジェシカは笑みを浮かべたまま、線を描く時のようにすうっと息を吸った。
「『僕たちは、この世に生きるものはすべて、星のかけらなんだ。みんな、星の子どもなんだよ』……。私に、科学を教えてくれた人の言葉」
「はぁ〜……スゲェなァそりゃあ」
 なんだ、壮大すぎてありきたりな感想しか浮かばない。ジェシカはくすくすと笑っていた。小っ恥ずかしい気持ちになるが、気分は悪くない。妹ができたらこんな感じなのだろうか。
 フランキーは頭の隅っこで、『兄貴』と呼ばれていた頃のことを思い出す。長いことそう呼ばれて板に付いてきたけれど、思い返せば自分にも悪ガキのような時代があった。それが『兄貴』と呼ばれるようになり、今や『船大工フランキー』だ。長いこと生きていると、何が起こるかわからないなと静かに頷いた。
「あと、こんな一節があってね。――『美しく変化に富む夕べの光は、朝空の薄れてゆく輝きは、天上の次第に消えてゆく色合いは、永遠の太陽から発生するのだ』」
「…………」
「今のは、その人が好んでた詩。科学のことを詩に表してるの」
「永遠の太陽か……」
 真っ先に思い浮かんだのは、ルフィのことだった。あいつは永遠と輝き道標のような太陽だ。きっと自分以外にも、道を照らしてもらった者はいるだろう。
「いいじゃねェか! 身近に実は科学が存在するっつゥ感じがするゼェ!」
 確かにその通りだ。科学はいつも身近に、目に見えないところに存在していて、あるとき突然現れては、生活を豊かにしてくれる。サンジの扱う調理器具だって、チョッパーの薬の調剤についてだって、フランキーの専門である機械工学だって、科学の仲間みたいなものだ。この船は、科学の力によって支えられて、生きている。
「そう! そうなの。フランキーさん、さすが! 科学はね、すごく身近にあるものなの」
 嬉しそうに両手を叩いて笑うジェシカは、なんだかすごく可愛く見えて、フランキーは大きな手をジェシカへと伸ばす。丸い頭に手を乗せるとわしゃわしゃと丁寧に頭を撫でた。
「わっ、なに……? いきなりどうしたの?」
「いんや、いろいろ話してくれたからよ。礼だよ、礼」
「私べつになにも」
「いいや。してくれたさ」
 こんなにジェシカと話し込んだのは初めてかもしれない。フランキーはそれが嬉しくてたまらなかった。彼女はきちんと会話のキャッチボールをしてくれるのだ。質問を投げかければ、しっかりと言葉を選び返してくれる。秘密主義なんてのは、ただのイメージであって、こちらの憶測の塊でしかなかった。
「お前ェ、この船に乗ったのが運の尽きだったな」
「えっ?」
 声と同時に顔を上げるジェシカの瞳は、サングラスに隠れて大きく見開かれている。わかんねぇか。そうだよな、まだ船に乗ったばかりで、特別大きな戦闘も、仲間の危機も訪れていない。
「この船のヤツらは、みんな似たもの同士ってことだ」
 フランキーの手のひらの中でジェシカは首を傾げる。ジェシカはこういうとき、きちんと回答を用意して返してくれるが、残念ながらおれは違う。こればっかりは、自分で経験するしかないのだ。
「みんな、お前ェのことが大好きだってことだよ」
 フランキーはささやかなヒントを与えてやる。ジェシカは聞き届けて、ぱちくりとサングラスの中で数回瞬きをした後、心から嬉しそうにはにかんでいた。

22,06.16



All of Me
望楼