朝食後、片付けをジェシカに手伝ってもらいながら、サンジは今日も二人きりになれている事実にとろけそうになっている。今日も朝からジェシカの「美味しい」を受け止めて、サンジは天にも昇るような気持ちと、甘酸っぱくて切ない胸の痛みを味わった。
片付けも終わり、サンジは手を拭いてからジェシカに手伝いのお礼を伝えると、ジェシカは言いづらそうにも口を開く。
「サンジくん、ちょっとお願いがあるんだけど……いいかな」
ジェシカからのお願い。それは何がなんでも、命にかえても叶えなければならない、最重要案件である。ジェシカの少し不安げな瞳が小さく揺れていた。
「ああ。もちろん、どうしたんだい?」
サンジは優しさと愛情を最大限に詰め込んだ声で返事をした。
ジェシカのお願いというのは、キッチンを貸してほしいとのことだった。もっとなにか重大な事だと思ったら些細なことで、サンジは目を丸くしてしまう。
「そりゃあ全然構わねぇが……そう言わなくてもいつでも使っていいんだよ?」
ジェシカは目を丸くしていた。日光の元ではサングラスをかけているから、こうして直に宝石のような双眸を間近で見られる機会はあまりない。
「キッチンは自分のテリトリーみたいなものでしょ? それを勝手に使うのはどうかと思って」
優しさにくすぐったさを覚える。
――こういうところが、ジェシカちゃんの良いところなんだよな。
しみじみと感じつつ、サンジは気になったことを質問した。
「ちなみに何を作るんだい?」
「その……アップルパイ」
「へえ、いいねえ。アップルパイかあ。久しく食べてないなぁ」
「まだ買い物も出来てないけどね。先に、サンジくんに訊いて、いいよって言ってもらってからにしようと思って」
「そっか。……ジェシカちゃんが良ければ買い物、一緒に行ってもいいかな」
「え? いいの?」
驚いて目を丸くする。今日は様々な表情が見られることに、心は躍っていた。目を丸くし過ぎて、真っ赤な瞳が零れ落ちてしまいそうだ。食べたらどんな味がするのだろう。不埒なことを考えてしまう。
「ああ、俺も買いたいものもあるし、レディに重いもの持たせられないからな」
「ありがとう! 実は上手くいくのかなって不安で……。サンジくんがいてくれたら、すごく頼もしいよ」
「ッカハ……!」
こういうことをサラッと言ってしまうところも、魅力的だ。
*
寄港している島にて買い物を二人で済ませて、調理場に戻る。早速、アップルパイ作りが始まろうとしていた。
「アップルパイ作るところ、見ててもいいかい?」
「え?いいけど……」
見張るんじゃない。せっかく二人きりで、しかもジェシカの料理をする様子を特等席で見られるんだ。こんなチャンス逃しはしない。それに、万が一調理中に怪我をしたら大変だ。きっと彼女は怪我をそのまま放置する。それはこれまで一緒に過ごしていて仲間全員が周知している事だった。
「コックさんの前で作るだなんて緊張しちゃうな」
「そうかい?」
――なんだか新鮮だな。
サンジはいつも、調理をする側の人間である。それが珍しく調理を見る側になるとは、見ていて新鮮な気持ちになった。他のコックの調理を見る機会はこれまで多々あったが、そのような気持ちではない。
――なんだこれ。むず痒いような、緊張とは違うけど、そわそわするな。
リンゴを切り始める時、内心冷や冷やしたものの、ジェシカはスムーズな包丁さばきで切ってみせた。集中している表情は凛としていて、息を呑んでしまう。
「上手だな、ジェシカちゃん」
サンジは、ジェシカがリンゴを切り終わったタイミングを見計らって話しかけた。
「誰かに教わったの?」
「うん。義姉(ねえ)さん……て言えばいいのかな。なんて言うんだろ、こういうの」
ジェシカは言葉を選びながら語り始める。サンジはジェシカの言葉をじっと待っていた。調理中にも食材が焼くまで、煮込み上がるまでなど、待つ時間は多い。サンジにとって、待つ時間は悪いものではなかった。
「私、ヒューズの家には養子として迎え入れられたんだけど、私が兄として慕っているマース義兄(にい)さんの奥さんに教わったの」
「へえ、そうだったのか」
サンジは驚きを隠すように口角を上げた。
――初めて聞いたな。
彼女は自分から自分の話するのか。皮膚感覚の告白は、自分から打ち明ける様子はなく、チョッパーやロビンが気づき、ルフィが問い詰めて発覚した。まさか自分から喋ることもあるだなんて。サンジは耳を傾けつつ、驚きを隠せないでいた。
「グレイシアさんていうんだけどね。……私こんな身体だから、上手くできないことの方が多くて。お皿は割っちゃうし、いろんなもの零したり汚したり、壊したり。そんな時毎回怒らず、『あらあら、にぎやかね』って、何もないように笑ってくれて。『もう一回やってみようか』ってチャンスを何回もくれたの」
鍋には切ったリンゴやバター、グラニュー糖、ラム酒にシナモンパウダーが入れられていく。ジェシカがそれをするだけで、まるで魔法をしているように見えてしまう。同じ調理を自分も毎回しているのに、ジェシカのそれは魔法のように不思議なもので、神聖なものに思えた。
「グレイシアさんの得意料理がアップルパイで、作れるようになりたいって言ったら、嬉しそうにしてくれてね。沢山教えてくれたし、何度も作らせてくれたの」
「……そっか。優しいんだね、グレイシアさん」
「本当に。サンジくんじゃないけど、グレイシアさんは女神みたいな人だよ」
「そりゃあ頷けるな。なるほど……女神に育てられたから、ジェシカちゃんも女神ってわけか」
「それ、まだ言うの?」
ジェシカは鍋をかき混ぜる手を止めて、肩を竦めた。そんな姿も可愛らしい。調理場に二人きりでジェシカの可愛さを一人で受け止めることが出来るだなんて、今日はなんて良き日なのだろう。
「もちろん。女神のように美しく天使のように神々しい! それだけじゃあない! 可憐で可愛らしいレディだよ〜!」
「……褒めすぎだよ」
いいや、まだ褒め足りないくらいだ。
君は知らないのだろう。どれだけ君の言葉や仕草、行動に胸を焦がされているのか。特別なひとをつくる予定なんてこれっぽっちもなかったのに。
いつの間にか、君に視線を奪われることが多くなった。君が闘うたびに気が気でない自分がいて、どうか腕の中で守らせてくれと何度も願った。君のせいではないだろうに、皮膚感覚がないと謝られたとき、自分のことではないのに、どうしようもなく泣きそうになった。
それでも努力し続けて、誰かの役に立ちたいと、いつも何かできることを探している。もう探さなくったって、君がいてくれるだけで皆は、おれは救われているのだと伝えられたらいいのに。
――でもきっと、伝えたところで、君は首を振るんだろうな。
「……困ったレディだな」
「うん? なにか言った?」
「いいや。そういう謙虚なところも可愛いなって」
見上げると、ジェシカはパチりと目を瞬かせる。雪のように白銀の長い睫毛が震える。雪が舞い降りたと勘違いしてしまうその繊細な動きは、砂糖菓子のような美しさを放っていた。
からかわれていると考えたのか、少しだけ頬をふくらませた。頬が色づいて、いつか見た雪に照らされた桜のようだ。綺麗な形をした睫毛とお揃いの色の眉が歪む。
「サンジくん……意地悪さん」
「あああ〜! 恥ずかしそうに照れるジェシカちゃんもなんって可愛いんだ〜!」
*
数時間後、サンジが再び調理場へ顔を出す。アップルパイが焼きあがった頃だった。さすがに焼き上がるまでの間も一緒にいると、サンジの心臓が持たなそうだったため、甲板に出て釣りをしていたのだ。
「ジェシカちゃん。そろそろできたか?」
「サンジくん! うん、冷めたから、ちょうど今味見してみようかなって思ったところ」
ジェシカは早速といった様子で包丁を握り、アップルパイにあてる。サンジはジェシカに近づいた。サクリと小さく音がする。アップルパイのいい匂いが、調理場に広まって、サンジは大きく息を吸った。
小さく一部分をカットし終えて、中に詰めたリンゴの様子が見えた。つやつやとしたリンゴがなんとも美味しそうで、重なった綺麗なパイ生地が芳ばしそうな香りを醸し出す。しかし、ジェシカは難しそうな顔をしている。
「んー……」
ジェシカは少しの間、それっきり黙りこくる。小さな溜息をこぼして、肩を落とした。
「失敗かも」
「え?どうして」
「サクッて音があんまりしない」
――この子は音で判断してるのか。
当たり前だが、料理人は五感すべてで料理の出来を判断する。視覚を通して飾りつけを、出来たての匂いで嗅覚を、味と食感は味覚と皮膚感覚で判断され、聴覚で料理の硬さを確認し、引き立てられる。それは料理人にとって、自分の作った料理が上出来だと判断される材料だった。
しかし最終的には、食べてくれた人が『美味しい』と感じてくれる。それがすべての答えなのだ。
「せっかく見ていてくれたのに、失敗しちゃった。出来損ないのものは、さすがに食べさせられないから。ごめんね」
「ッ……」
――出来損ない。
胸の奥に封じ込めた、過去の記憶が蘇る。あの要塞で、地下牢で、そしてあたたかい病室での出来事。それらはすべて繋がっていて、今のサンジを形づくる礎になっている。
出来損ないと言われ続けた。今でもその言葉に苛まれることがある。記憶がよみがえって悪夢を見ることだってあった。あの忌々しい一族では『出来損ない』なのかもしれない。しかし、それでも母とのかかわりは、唯一の救いだった。
存在すら肯定されない生活で、料理だけが、手作りの弁当を食べてくれた時の母の反応だけが、生きる希望だった。本で知った『オールブルー』を見つける夢も、当時のサンジを支え続けた。それらがサンジにとって、人生を決めた出来事だったのだ。
「……ジェシカちゃん、味見してもいいかい?」
「え? うん……でも、美味しいかどうか――」
「いただきます」
「あっ……」
サンジはジェシカの話を遮って、アップルパイを口元に運ぶ。サクッとパイ生地が潰れた音がして、リンゴの後ろに隠れたシナモンの香り、リンゴの甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
――優しい味って、こういう味を言うのだろうか。
確かに、彼女の言う通りサクサク感は足りないけれど、胸が詰まるほど嬉しくて、もっと食べたくなって、自然と元気になる味だった。
「――うん、美味い。すんげぇ美味い。クッソ美味いよ! こんなクソ美味いアップルパイ、初めて食べた!」
「っ……!」
「がんばって、愛情をたくさん込めて作ったんだ。出来損ないだなんて、言わないでよ」
「――……サンジくん」
ドンッと胸に衝撃を受けて、サンジはすかさずその小さな白い塊を受け止めた。背中に可憐な腕が周っている。ジェシカに抱きつかれたのだ。
サンジは息が止まった。心臓が身体から飛び出しそうになる。叫び出したくなる気持ちを必死に抑えて、サンジはジェシカの背にそっと手を添える。
ジェシカの細い腕が、これ以上ない力でぎゅっとサンジを抱きしめる。サンジとジェシカの身体の間には隙間が存在しない。ジェシカの柔らかい身体が、サンジの筋肉質な肌に、服越しに押し付けられる。サンジは自分の理性を最大級に働かせる。
「ありがとうっ……!」
ジェシカの声は濡れていた。細い肩も、華奢な背中も、折れてしまいそうな腕も震えている。サンジは背に添えていた手で、ゆっくりと小さく撫でた。
「今日のこと……絶対忘れない」
そりゃあ嬉しい限りだ。おれも絶対に忘れない。このシチュエーションもそうだが、きみとこうしてアップルパイを作って食べさせてくれたこと、一生の思い出だ。サンジは心の中で練習してから、唇に言葉を乗せた。
「ああ、おれもこんなクソ美味いアップルパイを食べたこと、絶対忘れない。一生の思い出だ」
ジェシカの喉の奥が、大きく震えた音がした。ああ、泣かせてしまっただろうか。サンジからはジェシカの顔が確認できない。泣いているのか、それとも涙を耐え忍んでいるのか。どちらにせよ、レディに悲しい思いをさせた。それはサンジにとって非常に心苦しいものである。
けれど、それでもサンジは、ジェシカのアップルパイが出来損ないには思えなかった。出来が悪いと彼女が言っても、自分は何度だって「クソ美味い」といって返すだろう。だって、実際そうなのだ。彼女が、自分や仲間を思って作ってくれた、大事な思い出を話してくれた、それらを通して作られたアップルパイが、出来損ないだなんてあってはならない。
「……またアップルパイ作ったら、食べてくれる?」
ジェシカの愛情は、空気に溶けてわかりにくいこともあるけれど、こうして形となって、目の前に存在してくれているのだ。
「もちろんさ! 何度だって食いたいよ! 今度は、俺も一緒に作ってみたいんだけど、いいかな?」
少しの間があったが、ジェシカが首を縦に振ったのを、サンジは全身で感じ取った。
彼女が自分の作った料理を、がんばった結果を、出来損ないだなんて言いませんように。そう願ってすぐに、サンジは気がついた。
――そうだ、おれがそのたびに、言ってやればいいのだ。
きみは最高だと。出来損ないじゃないんだと。きみは美しい人で、かわいさもあって、とっても優しくてがんばり屋さんなのだと。
自分の本当の魅力に気づいていないのならば、おれが教えよう。きっと、彼女がこれまで与えられてこなかったそれらを、おれは伝えてあげられるはずだから。
22,05.31