『科学はね、『美しい詩』なんだ』
太陽が登り、世界が朝と夜の狭間に閉じ込められる。海面はふたつの時間の色を映し出し、それらは混ざりあう。海面が揺れるたびに太陽に照らされて、黒曜石のように輝きだす。黒、紫、群青、橙、白、様々な色に包まれて生まれてくる『今日』は、すべては小さな見えない粒で構成されている。
『僕たちは、この世に生きるものはすべて、星のかけらなんだ。みんな、星の子どもなんだよ』
そう語った『彼』の表情を、もう思い出すことができない。かろうじて覚えている声は、太陽のようにあたたかく、月のようにやさしげで、星のようにたのしそうだった。
科学が『美しい詩』ならば、錬金術は、禁忌とされる人体錬成は、何なのだろう。仮に、錬金術も人体錬成も『美しい詩』に当てはまるのならば。
『彼』が愛してやまなかった『美しい詩』で、私は『彼』の死を冒涜したのだ。
* * *
錬金術の基本は、等価交換である。これは質量保存の法則に基づいたものであり、無から有を生み出すことはできず、逆も然りである。一のものからは一、十のものからは十しか生み出されない。
ある者は言った。人は何かの犠牲なしに、何も得ることはできない。何かを得るためには、同等の対価が必要になる。それが錬金術における、等価交換の原則であり、世界の真実だと。
死んだ人間は、決して生き返らない。その揺るがない真実を判っているつもりでいた。人が生き返るだなんて、そんな魔法のようなことは絶対に起きないと。
それでも、可能性を秘めていた術がすぐ傍に転がっていた。誰も成し遂げたことがないと聞いていたけれど、もしかしたら奇跡が起こるのではないか。
――『彼』が死んでしまったのは私のせいだ。ならば、私が責任を持って償わなければ。
自分が死んでも構わないと思った。どうせ捨てられた身だ。生まれてきてはいけない命が、素に還るだけのこと。
ただもう一度、声が聞きたかった。
やさしく頭を撫でてもらいたかった。
微笑みながら抱きしめてほしかった。
温もりを感じたかった。
ささやかな願いを胸に宿して、もう一度青年と会うために、人体錬成を犯した。
真っ白な悪魔と別れて錬成された物体を目にしたとき、ジェシカは事の重大さを思い知ったのだ。
生物の身体は、肉体、精神、魂に分けられる。提唱者によっては、肉、骨、魂と分けることもある。三つのうち、どれか一つでも欠けてしまえば生物は成されず、朽ちて天命を終える。
しかし多くの場合、肉体と精神、あるいは肉と骨は結合している。これら二つを一つと括るのならば、身体と魂、二つの要素を持つことで生物の身体は成立する。この議論は精神について、独立している一つの要素だと考えるか、脳の一部と捉えるかの違いだろう。
「馬鹿だよなぁ」
今なら理解できる。等価交換は、交換が成り立ってこそだと。冷静さと思考力を持ち合わせていれば、人体錬成などという虚しい錬成を犯さなかった。魂を定着させることは、肉体が生きているから成立する。
しかし――。
「原則と法則の違い……じゃなくて、これはもう欠如だよ」
錬金術、アメストリス、イシュヴァール、ブリッグズ、シン、錬丹術。これまで生きていた環境すべてがひっくり返った世界で、ジェシカは今、息を潜めるように過ごしている。
――どうしてこんなことに。
無意識に考えてしまう『はじまり』を、頭を振って脳から追い出そうとする。
以前の身分は国家錬金術師だったが、紆余曲折を経てジェシカは今、海賊だ。船首に可愛らしいライオンが施されたサウザンド・サニー号という船に乗せてもらい、麦わらの一味と呼ばれる海賊に身を置かせてもらっている。突飛押しもない転職先に、きっと義兄(あに)であるマース・ヒューズが知ったら、度肝を抜かしてひっくり返るだろう。
世界が一変した。ここはまるで童話の世界だ。
ジェシカは新しい発見のたび途方に暮れた。そして、その回数が数十回を超えた頃、とうとう考えることを放棄することを覚え始める。放棄しようとしても勝手に思考が巡ってしまうので、たびたび目眩に襲われることがあった。
幼少期からの習慣であり、今では癖になっている分析思考。この世界ではほどほどにした方が良さそうだというのが、最初の学びであった。
人間以外の種族というべきか、人間の形をした者以外の形を有する生き物。原則や法則とは完全に無縁な、科学技術に変わるシステム。極めつけは、摂取すれば特殊な能力を手に入れることができるという、悪魔の実と呼ばれる植物。それらすべてが、潮の香りに包まれて、漣の音を響かせながら、生命を輝かせている。
生を受けたものすべてが参加する、個性コンテストみたいな世界。そういえば、義兄は、ジェシカと同郷である傷の男と、同僚たちが闘う様子を『万国びっくりショー』という言葉で表していた。錬金術をつかう側であるジェシカは、その戦闘を目の当たりにして何も思わなかった。だが、この世界にやってきてからというものの、義兄の言葉は言い得て妙だった。
潮の香りが鼻につき、ジェシカは顔を上げた。ゾッとするほどの水の塊である海。潮の流れや気候との関係で、どれほどの重さになるのか、それは大きく揺れて漣を生み出す。
アメストリスは内地であったため、海という存在は 、本や絵の中に存在するほど日常から遠い。ジェシカもこの世界にきて、初めて海を生で見たくらいだ。義兄も、もしかしたら海賊という言葉だけでは、すぐにピンと来ないかもしれない。
「ヨホホホホホ! ご機嫌いかがですかジェシカさん!」
すべての法則をすっ飛ばして生きているのが、ブルックという九十近い年齢の男性だった。ジェシカの中でも『ベスト・オブ・万国ビックリショー』である。
「ブルックさんが元気そうなので、調子はいいよ」
「アラッ! ヨホホホ! 嬉しいこと言ってくださるゥ! ジェシカさんの言葉で私、もーっと元気になっちゃったので、一曲披露しますよー!」
ブルックはどこからとも無くヴァイオリンを取り出し、上機嫌に十八番である『ビンクスの酒』の演奏を始める。音色が奏でられると、聞きつけた釣りをしているルフィ、ウソップ、チョッパーの三人は大きな声で歌を乗せた。ブルックはない目を細めて嬉しそうに笑う。
『美しいハープのような声ですねえ! パンツ、見せてもらってもよろしいですか?』
それが、ジェシカは初対面でブルックから掛けられた言葉だった。容姿について一番に指摘されるジェシカにとって、その話題を出さなかったブルックの言葉は、ジェシカの心に雪解けをもたらした一つである。素直に声を褒められたのは、ほとんど初めてであった。
そしてブルックは、ジェシカの知っている原則や法則をぶち壊した代表選手だった。
この海に覆われた世界には『悪魔の実』と呼ばれる、原則と法則すら欠如した恐ろしい想像を絶する果実が存在している。ブルックは死んで蘇るというヨミヨミの実、トナカイであるが人語を話せる船医チョッパーはヒトヒトの実、そして船長ルフィは身体がゴム素材になって伸びるというゴムゴムの実と呼ばれる果実を口にしたらしい。
「おーいジェシカ! 釣りするぞー!」
船長であるルフィの誘い声に、ジェシカは視線をあげる。船首付近で釣竿を見せびらかしながら、大きく口を開けて笑っていた。語尾の伸ばし具合が、まるでヴィブラートをかけるようにゆらゆら揺れているのは、きっとブルックの演奏に合わせているのだろう。ジェシカは自然と笑みを零した。
お誘いではなく決定事項のような船長の言い方に、ジェシカは片手を挙げて返事をする。マスト部分に備えつけられたベンチから腰を上げ、ルフィの元へ歩み寄る。
一歩ずつ踏みだすと、甲板に敷かれた芝生が小さく音を立てる。船大工であるフランキーが丹精込めて造ったこの船は、船という概念を通り越して、クルーにとっては仲間の一人であるらしい。機能的かつ遊び心満載なデザインは、ジェシカも気に入っていた。
「アウ! ジェシカじゃねェか! あとで作業場に来い! おもしれぇモンが出来上がりそうだぜ!」
「うん、わかった。あとで行くね、フランキーさん」
フランキーは、機械鎧を彷彿とさせるような身体をしており、ブリッグズの軍人を思い出させる。どのような造りをしているのかと思えば、エネルギー源は本人の好物であるコーラだというのだから、それを聞いたときジェシカは、呆気にとられてしまった。
「ジェシカー! 早く来いよ!」
「大変だジェシカ! 大物釣らないと、今夜晩飯ナシだぞ!」
ジェシカは自分の容姿について、意識しすぎるきらいがある。それは幼少期の経験が影響していた。しかし、この世界では自分の存在が霞んでしまうほど、目を引く容姿の者が数多く生きている。
ジェシカを呼んだウソップとチョッパーも、目を引く容姿をしている。ウソップはなぜか鼻がとても長く、チョッパーはトナカイの姿なのに人語を喋ることが出来る。
「それは大変。私も釣りするね」
ジェシカは駆け寄って釣竿を受け取る。遠くへ飛ばすように思い切り釣竿を降って、ウキを海面へ落とした。ポトリと小さく水が弾ける音がすると、背中にサンジの声が届いてくる。
「ジェシカちゅわん!? オイ! テメェら! なんっでジェシカちゃんを働かせてるんだ!」
「サンジ! 別にいーじゃねーか! ジェシカと一緒に釣りしたって!」
「魚が引っかかった釣竿がジェシカちゃんの麗しいお手を傷つけたらどうしてくれる! ……ジェシカちゃん、野郎たちに任せてくれていいんだよ」
「でも、夕飯がないって言うから 」
「それは! 野郎共の飯だよジェシカちゃん! 大丈夫、レディたちの夕飯は、しっかり確保してあるから」
「……夕飯、ルフィたちとも一緒に食べたいから……私も釣りしちゃだめかな?」
「ウッ」
「サンジくんのごはん、みんなで食べるともっとずっと美味しいし楽しいから」
「グハッ!? ジェシカちゅわん! きみって人はなんて優しいんだ!」
この船のコックであるサンジは、レディ・ファーストを心に刻んでいるらしい。ナミやロビン、巷の女性たちにも似たような振る舞いをする。最初は少し警戒してしまったジェシカだったが、サンジの呼吸をするようなやさしさに、警戒心は一気に溶けてしまっていた。
「まーたやってるのサンジくんは」
「ふふっ、定番のやりとりね」
「釣りくらい、別にやらせてあげてもいいじゃない」
「あらそう? ここで『ジェシカを先に取られた』ってむくれてるのは誰かしら」
「ちょっ! ロビン! むくれてなんてないわよ!」
遠くで航海士のナミと、考古学者のロビンがなにか言い合っている。しかし、ジェシカは既にウキに集中しており、会話の内容までは頭に入ってこなかった。
「でもそんなにすぐに掛からないよね……」
「おいジェシカ! 引いてるぞ!」
「……えっ、う、わ……!」
「ジェシカちゃん!」
少し目を離した途端に、ウソップから報告されて、ジェシカは現実に戻される。
釣竿に思い切り身体を持っていかれそうになったところで、後ろから黒い腕が釣竿を掴んだ。顔を上げると、サングラスから外れた視界に金髪が映る。サンジだ。あの一瞬で、サンジはここまでやってきたのだろうか。
「ジェシカ! 大丈夫か〜!?」
次いで、にゅるんと伸びてきた両腕が、ジェシカの腰と釣竿を同時に掴む。ルフィの名を呼びかけようと唇を動かそうとすると、サンジの早口がすかさず頭上を飛んでいく。
「オイ、ルフィ! ジェシカちゃんは俺担当だ!」
「なんだそれ!? 海に落ちたら危ねーだろうが!」
「それはお前ぇも一緒だろ!」
二人でやり取りをしていても、釣竿を掴んで引っ張る力は一向に緩んでいなかった。海賊は同時進行することが得意なのかもしれない。
――神業だ……。
ジェシカは静かに、しかし勝手に感動してしまう。
「あんたたち〜! 絶対逃がすんじゃないわよ〜!」
「ジェシカ、がんばって」
「網!? 網を持てチョッパー!」
「ウソップ! 網だとあの影のデカさの魚は取れねーよ!」
ゆらゆらくるくる、大きな大かな魚の影が海面に近づいてくる。耳元で、「こりゃあ大物だ」と低くて嬉しそうな声がした。
「おい! クソゴム、クソマリモ! 今夜のメインディッシュ絶対ぇ逃すなよ!」
「よっしゃー! やるぞ〜!」
「誰に言ってやがるグル眉!」
「ヨホ! 今夜はご馳走ですね」
「オレもコーラ満タンだ! 手が欲しかったら言えよ!」
ついに海面に姿が現れる。そう確信した瞬間、ズリッと釣竿が手から滑って動いてしまう。ジェシカがわからないなりに握力を込めようとすると、大きな手に包み込まれた。
「ジェシカちゃん、悪い。強く握るよ」
サンジの手だ。ジェシカの手が滑ってしまわないよう、ストッパーのようにぎゅっと力を込めている。
「引き上げるぞ、ルフィ!」
「おう! せ〜っの!」
ルフィの掛け声で一気に釣竿を引っ張りあげる。後ろに倒れそうになったのを、サンジが支えてくれた。現れたのは、大きな大きな海獣のような魚。サンジの口笛とルフィの笑い声が重なった途端、視界の端でキラリと何かが光った。それに続き飛び出したルフィを目で追いかける。天高くルフィ、そして剣豪のゾロが舞い上がり、必殺技を決めた。
魚から降りかかる水しぶきは大粒で、身体が一気に濡れていく。サンジが影を作って余計に受け止めてくれたが、ジェシカは降ってくる水しぶきから目が離せなかった。
大きな口を開けて笑うルフィとゾロ。サンジやほかのクルーの嬉しそうな声。晴れ渡る大空に、綿飴みたいに白い雲。陽射しを受けてキラキラと輝く水面と心地よい漣の音。それらを一粒ひとつぶに詰め込んだような水しぶきを一身に浴びて、ジェシカはなぜだか涙が込み上げそうになる。
「――きれい」
この世界にやってきて一番の問題であり、真っ先に解き明かしたいこと。自分は錬金術のある世界で命を落としたのか、それとも生きているのか、生きているならば戻れるのか。それらを一秒でも早く答え合わせしなければならない。そして、生きているのなら、元の世界に戻る術を見つける必要がある。
――……『軍がやべえ』、か。
義兄が最期を迎えた場所の光景が、瞼の裏に鮮明に媚びりついている。赤く染った電話ボックス、元の位置に戻された受話器、血に塗れた愛用のナイフと家族写真。
義兄が殺されたのは一目瞭然だった。彼ほど太陽に近いような朗らかな人間が、恨みを買うのはあまり想像できない。そうだとしても、彼だって軍人なのだから、返り討ちできるだろう。
義兄のナイフには、彼の血痕しか残されていなかった。つまり、ナイフは襲撃してきた人物まで到達していない。判断力や洞察力、俊敏性に長けている義兄がナイフを放つ前に殺されたのだ。義兄は隙をつかれた。それも攻撃を躊躇するほどだったのだろう。
義兄の最後の仕事現場である、中央司令部内の書庫は燃えてしまっていた。軍内部の火災調査室でさえ『事故』と処理したが、連絡所まで向かう廊下には血痕が点々としていたのだ。それは受付担当が確認している。しかし、床の血痕は事件後、綺麗に拭き取られていた。血痕が残っていたのは、連絡所内の床のみ。明らかに、誰かの手が加えられており、証拠を隠滅しようとした証明だった。
第五研究所、ホムンクルス、人体錬成、賢者の石。国家を巻き込む一連の計画について、いち早く気づいた義兄は、口封じに消されのだ。
義兄が見た遠くない未来、アメストリスに起こる国家転覆事件。これが事実ならば、グレイシアやエリシアも危険に及ぶ。
――わかってるんだけどな……。
潮風が髪を揺らしていく。顔にかかる髪を耳にかけた。
視界が白く染っていく様子は、真理の扉を思い出させる。ジェシカは眉間に皺を寄せた。
もし皮膚感覚が残っているのなら、潮風の勢いを肌で感じて、何も遮ることの無い日光の温かさに目を細め、海水の冷たさに指先を引っ込ませるのだろうか。
もう手に入らない感覚、もしかしたら『あるもの』と交換して取り戻せる感覚。痛いのはもう懲り懲りだから、二度と戻らなくていいとすら思っていたもの。
――……だったはずなのに。
ルフィの体の柔らかさを肌で感じたい。ゾロの刀に触れて重みを確かめたい。ウソップに狙撃を教わって、力加減をコントロールして標的に当てたい。気候の変化を肌で感じて、ナミのように航海できるようになりたい。サンジの料理を味だけではなく、固さも一緒に味わいたい。チョッパーが扱う薬草の手触りを感じたい。ロビンが探しているポーネグリフの石の硬さや冷たさを実感したい。フランキーの改造している身体や船の設計を、材質選びから手伝いたい。指先で音の強弱をつけられるようになって、ブルックと一緒にピアノを弾きたい。
まるで夢のような日々。元の世界では羨望の対象ですらなかったのに、この世界にいると、まるで喉が渇くように、ひどくそれらが眩しくて仕方がない。
義兄や彼の妻子たちの、家族として迎え入れてくれた人たちの体温ですらわからなかった。それでもいい、どうしようもない事だと自分に言い聞かせてきたのに。
――もし、もう一度、感じることができたら。
秩序が統制されていない世界。己の欲望にそって生きる世界。何かの犠牲なしに、何も得ることは出来ない。
――世界の美しさがわかるだろうか。
何かを得るためには、同等の対価が必要になる。それすらも覆す常識と理。けれど、対価に痛みを伴うことは共通だ。
――痛みの先に、素晴らしい何かがあるのだろうか。
ジェシカはあまりにもサウザンド・サニー号という小さな世界をとりまいている、海に包まれたこの世に、しばらくは身を置きたいと考えてしまう。
――まるで現実逃避みたい。
この世界がジェシカの知る理をひっくり返した『夢の世界』だと仮定する。夢には終わりがあり、目覚める瞬間が必ずやってくる。
――でも、まだ夢の中にいられるのなら。
それほど、ジェシカにとって心地よく、わかりやすいやさしさを、彼らは与えてくれていた。
その後、おまけ
「ジェシカちゃん悪い、赤くなっちまったな」
サンジの手が離れ、卵でも持ち上げるようにそうっと両手を取られて、甲を親指の腹で撫でられる。
「大丈夫だよ。気にしないで」
「いや! レディの玉の肌をこんなにしちまったんだ……男として許されねぇ。おーいチョッパー! ちょっと来てくれ!」
「なんだー! どうかしたか?」
「ジェシカちゃんの手、冷やしてやってくんねぇか。俺が上から掴んで赤くなっちまった」
「わかった! ちょっと待ってろ!」
あれよあれよという間に、チョッパーが召喚されてしまう。手が赤くなったところで別に気にしないのに。ジェシカの考えとかけ離れているサンジは、レディのしかもジェシカの手を傷つけてしまったことで頭がいっぱいだった。
「えーと……」
――こういうの、なんていうんだっけ。……そうだ。あれだ。
ジェシカはサンジの手を握った。手を取られていたため、自然とジェシカとサンジの指は絡み合うように握られる。サンジのギョッと目を飛び出しかけている瞳と目が合う。ちょっと意味合いが違うかもしれないが、夕飯のおかずが手に入ったということは、まさにこの言葉が似合うだろう。
「勝利の、勲章? てきな……」
「――ッ!!!?!?!?!?!?」
サンジの身体に雷が撃たれるような衝撃が広がる。咥えていた煙草は口を開いた衝撃で甲板に落ちてしまう。ジェシカはさりげなくそれに気づいて足を動かして火をもみ消した。吸殻はあとで拾っておこうと心に決める。
「あれ、サンジくん?」
ジェシカは背中を反らすイメージで顔を上へ向ける。日光の明るさにサングラスの下で目を細めた。サンジの金髪がキラキラと輝いて見える。
ジェシカが背を反らしたことにより、ジェシカの旋毛部分はぽすんとサンジの鎖骨部分にふれる。ふわりとした髪がサンジの顎をくすぐった。息をするたびに、ジェシカの香りが身体中に広がっていくことに、サンジは限界寸前だった。サンジはジェシカから逃げるように背中を大きく反らす
「ッッッッッッッッジェシカちゃん、ダメだ、そんな……!!」
「だめ?」
「まっっっっってくれ本当に待ってくれ、それ以上動いちゃダメだ本当に俺はどうにかなってしまう」
サンジはこれ以上ない早口で話倒す。ジェシカは目を丸くした。こんなに早く人間は話せるのか。舌はどうなっているんだろう。素朴な疑問が浮かんだジェシカは、じっとサンジを見つめてしまう。今のサンジにとっては最高級の毒である。
「ちょっとサンジくん! いつまでジェシカとイチャイチャしてるのよ!」
ジェシカはナミの言葉に視線を動かした。ナミがなんだか苛立っている。しかし隣のロビンはにこにこしていた。
――なんだろうこの違いは。
イチャイチャしている気は毛頭ないのだけれど。ジェシカはサンジの手から自分のそれを引き抜いた。支えを失ったサンジの手はだらんと垂れ下がってしまう。
「ジェシカ! とりあえずサンジから離れろ!」
「え? う、うん。わかった」
チョッパーが手に何かを持って走ってやってくる。焦った声を上げているため、ジェシカは素直に船医の言うことに従ってサンジから数歩離れた。振り返ると、サンジは顔を天に向けていて、表情は拝めない。しかし、確実に何かを耐えるように唇を噛み締めてプルプルと震えている。
――ブッシャー!
「え……鼻血?」
サンジは噴水のように鼻血を噴き出した。ジェシカは数歩後退り、勢いの良い鼻血が身体にかからないよう距離をとる。
「――んナミすわ〜ん! ロビンちゅわ〜ん! 待っててね〜! おれともイチャイチャしよ〜ん!」
「鼻血だしながら過度な運動するなァ!」
サンジはクルクルと回転しながら高速でナミとロビンの元へ移動していく。ジェシカはぽかんとしてしまった。一体サンジに何が起きていたのだ。
ジェシカは、自分がサンジに何かをしてしまった可能性を、完全に捨てきっていた。
「おやおや。サンジさん、誤魔化しましたね」
「意外とチキンだよな、アイツ」
ブルックとフランキーの発言は、ジェシカの耳に入ることも無く、潮風に流されてしまった。
22,05.21