たった一つだけ


 ガープはジェシカから一定の距離を取って地面に腰を下ろした。小鳥のさえずりや暖かい風が草花を許していく。桜の木の下で寝こける女性。これだけならばとても絵になる光景だが、問題は相手である。
 黒いシャツにスラックス、そして黒いロングコートの背には、大きくウロボロスの刺青が描かれている。
「なんと不用心な……」
 巷を騒がせている悪人が、こんなところで素性がわかる格好で寝転んでいていいのだろうか。ガープは悩んだ末に、自分の着ていた上着を脱いで、ジェシカの上に掛けた。ガープの上着のサイズでは、ジェシカの体はすっぽりと隠れてしまい、ウロボロスの刺青も見えなくなる。
「さぁて……どうしたもんじゃろの」
 ガープは後先考えずに行動することがたまにある。それが重要な場面でこそ働いてしまうことも。今がその時であった。この後、どうしようか。それだけが頭を埋めつくしている。
 海軍なのだから、取締対象者である海賊であり犯罪人のジェシカを捕らえるのは簡単な話だ。このまま拘束して、海軍本部に連れていけばいい。
――しかし、本当にそれでいいのか? 
 なにかがガープの中で引っかかっている。ガープは元々、富や名声、権力には興味がない。ジェシカを海軍に差し出して受け取る報酬だって、欲しいとは思わない。ただ自分は、自分が正解だと思うこと、大切だと思うもののために行動したいと思っている。そこには、海軍や世界政府の考えすら影響されない。だから、エースのことだって助けたのだ。
 瞼を閉じれば今でも思い出せる。ポートガス・D・ルージュが命と引き換えに産んだ赤ん坊のことを。ルージュから頼まれたときのことを。海軍の目を盗んで赤ん坊を抱え、逃げたことを。
「……ん、んぅ」
「っ!」
 ガープは身を強ばらせる。視線を向けると、ジェシカが目を擦りながら身体を起こしていた。
「あれ……?」
 ジェシカは自分にかかる上着を見て首を傾げる。キョロキョロと周囲を見回して、ガープの存在に気づいた。赤い瞳が真っ直ぐとガープを射抜いてくる。
「これ、あなたのですか?」
「あ、ああ……」
「ありがとうございます。お返しします」
「ああ……こんなとこで寝てると、風邪をひくぞ」
 ジェシカは軽く上着を畳み、ガープの元へ駆け寄った。ガープは警戒を怠らずにそれを受け取った。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
 ジェシカはサングラスをかけながら、再び礼を言う。
 ジェシカの赤い瞳。思い出したのは、七武海の一人でもある海賊の男だった。そうか、あの男と同じように、陽の光が苦手か。ガープは赤い瞳の人間を見るのは、人生で二人目だった。
「それで、海軍の英雄であるガープ中将は、私を捕まえるんですか?」
「っ! 知っておったか、わしのことを……」
「知っているもの何も、有名人じゃないですか。それに……ルフィの祖父だ」
 ジェシカの言葉にガープは目を丸くする。そうだ、曲がりなりにもこの娘はルフィの海賊団の一員だ。それが、なぜ今は……。
 ガープの眉間に皺が刻まれる。
「それがなぜ今……ウロボロスの刺青を背負っている」
「あ、海軍でも有名になりました? 私たち。結構相手は見極めて、やってるんですけど」
「お主……わざとか」
「ええ。わざとです。わざと、海軍が狙ってそうな海賊を狙っている。……海軍に、気に入られるために」
「なに……?」
 ジェシカは跪いた。ガープが座り込んでいる視線と同じ高さになる。サングラス越しに見つめられたガープは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「ガープさん、私を、『名誉大罪人』にしてくれませんか?」

22,05.31



All of Me
望楼