最後のお願い


 大きなシャボン玉が、上空にふわりと浮かんでは消えていく。夢物語のような不思議な光景が見られるシャボンディ諸島は、『偉大なる航路』に位置している。ヤルキマンマングローブと呼ばれる巨大な樹木の集合体である。約二年前、モンキー・D・ルフィ、ユースタス・キッド、トラファルガー・ローの三人が『最悪の世代』と呼ばれるきっかけの一つとなった場所であった。
 シャボンディ諸島は、かつての奴隷制度が根強く残っており、『人間屋』と呼ばれる店まで存在していた。ルフィが『世界貴族』を殴った事件を境に、表立った『人間屋』はなくなった。そのため、クリーンなイメージが広がった。しかし実際は、一番から二十九番の無法地帯はさらに悪化し、その奥深くにて、人間を裏取引する商売は続いている。
 珍しい種族、美しい容姿の者が『出品』されて、取引している現場に、ジェシカは居合わせた。過去の経験からも、許せるはずがなかった。
 『3D×2Y』というルフィからの暗号を頼りに、詳細な月日を数えるのが難しかったものの、ジェシカはシャボンディ諸島を再び訪れた。寄港早々に『人間屋』後進のような人物に襲われ、一悶着あったものの、『冥王』と呼ばれ生きる伝説と化している、シルバーズ・レイリーに心身ともに救われ、一件落着したはずだった。
 けれど、ジェシカは諦めがたい性格でもある。自身の過去と同じように、他者に心身や尊厳を嬲られる人間が、これ以上増えてはならなかった。
 ジェシカは単身で、シャボンディ諸島の人身売買の現場を虱潰しに殲滅にあたった。鬼神のような振る舞いに、裏取引をする者は泣き叫びながら逃げ惑い、一人残らずジェシカに捕縛される始末。錬金術で施した絶対に解けない金属縄で縛り上げられていった。
 順調に思えた矢先、とある店跡地にて、子どもを人質に取られてしまったジェシカは、逆に捕らえられてしまう。錬金術で逃げようとも考えたが、人質の自由が先だと、ジェシカは交換条件をもちかける。
「人質が受けるはずだったことを、自分が受ける代わりに、人質の解放を」
 世は、等価交換の原則により、成り立っているのだから。

   * * *

 薄暗い倉庫内にて、ジェシカは両手を手錠で拘束されていた。両手は左右離れた場所に繋がれており、両足首には足枷が嵌められて、鎖で繋がれている。身につけているものはここに来る時に着ていたワイシャツのみだった。その他に身につけていたものはすべて引きちぎられ、剥がされた。
 暴行を受けていた時間がいったいどれくらいなのか、検討もつかなかった。痛みは感じなくても、心はひしゃげるほど痛かった。視線を落とせば、身体中に白濁としたものが固まった痕、そして切り傷や青痣が目に留まる。
 名前も知らない男が「こいつは肌が白すぎるから、よく映える」だなんて話していたっけ。人をキャンバス扱いしておいて、終われば物見の見物をして楽しんでいた男の顔を、バッチリとジェシカは覚えていた。
 こうして嬲られ虐げられるのは、何回目だろう。幼い頃から経験してきても、慣れるものでは無い。自分の方が強いとわかっているのに、恐怖の対象でしかなくて、『男』を出されると一気に体が動かなくなってしまう。無理矢理に身体を開かれると、感覚もないのに痛くて苦しくてたまらない。声を上げないように、せめてもの抵抗をしてみても、それが面白いのか首を絞められて呼吸がしにくくなる。まるで、自分の命が他人に握られているような感覚に、毎回「死んだ方がマシなのかもしれない」とすら考えてしまう。
「っ……」
 ゆるりと小さく頭を振って、ジェシカはすべてを忘れようとする。大事なのはこれからだ。ここからどうやって抜け出すかである。この手錠を破壊しなければ、手合わせ錬成は無理なのだ。なにか考えないと。
 そう理解していても、傷ついた身体でそれを考えるのは難しいことだった。
――ああ、眠い。このまま眠ってしまいたい。
 瞼が落ちていく視界の中で、必死に目を開けようとする。倉庫内は薄暗くて何がどこに置いてあるのかさえ把握できない。なにか使えそうなものがあればいいが。ああそうだ、まずは手錠をどうにかしないと。そしたらなんだって錬成してしまえばできるのに。
 そもそも、どうして手合わせをしなければ錬成ができないんだろう。円は力の循環を示す。手合わせしたことにより、身体のなかにあるエネルギーが循環されるのか。でも、ヴァン・ホーエンハイムは手合わせ無しで錬成をやってのけた。ああ、そうだ。彼は身体が『賢者の石』そのものだからだ。
 ジェシカの脳は、まとまりのないことをぐるぐると考えだす。
――じゃあ、私の中にもし『賢者の石』があったら、私も手合わせなしで錬成できるのかな。
「ははっ……かっこいい」
 だめだ。眠くて眠くて仕方がない。このまま眠ってしまったら、次は何が待ち受けているのだろう。
 次に起きたら、サウザンド・サニー号にいるとか、そういうことはないだろうか。
「にねんご……いつだろ」
 そもそも、自分はもう一度、麦わらの一味に加えてもらえるのだろうか。船に乗ることをルフィは許してくれるのか。
「ゆるさない、だろう、な」
 許すはずがない。愛していた義兄エースの死刑を執行したのは自分だ。誰にも打ち明けていないが、エースは生きている。秘密にしていることすら、秘密なのだ。この世界ではもう、ポートガス・D・エースは死んだ。それは誰しもが周知していること。
「ごめん、るふぃ」
 ああ、眠い。これは本当に眠気なのだろうか。なんだが、錬金術の世界で、最後に目を閉じたときの感覚に似ている気がする。
 身体を動かすのすら億劫で、まるで風に吹かれてしまえば身体がバラバラになって消えてしまうような。
 これが最期なのだとしたら……。
「ゃ、だな……」
 もう一度、会いたかった。会って、色んな話をして、一緒に冒険したかった。ああ、そうだ、最後に、特別美味しい料理を食べたかった。
 出来損ないの私の、出来損ないのアップルパイを、美味しいと笑顔で言ってくれたひと。
――会いたい、最期に。
「――さんじ、くん」
 視界が揺らいだ。かと思えば一瞬だけ視界がクリアになる。けれど、すぐに景色は歪んだ。自分は泣いているんだ。そうか、私は、悲しいのか。ぽろぽろ流れる涙を拭うことも出来ず、ジェシカの眠気に似た何かはとうとう限界を迎える。
「さ……じ、く……」
 空気を震わせる力もなくなった唇で、最後にもう一度だけ、名前を呼ぶ。許してほしい。エースを処刑したことも、真実をルフィに伝えられないことも、こうして捕まったことも、二年後の『約束の日』に間に合わないことも、すべて。

「――ジェシカちゃんッ!!」
 消える意識の端っこで、あなたが名前を呼んでくれた気がした。

22,06.08



All of Me
望楼