約束


「――なぜ、俺を救けた?」
 ぴちょん。どこかで血の海に、雫が落ちた音がする。血の海面が少しだけ揺れた。
 ジェシカは呆気にとられていた。しばらくして我に返ったジェシカは、遠くを見るような視線を暗闇に向ける。
「……約束、したんです」
「約束?」
「そう、ルフィくんと」
 ルフィとの約束。それは、救け出すという約束だろうか。エースはそこまで考えて、否定する。それはルフィらしくない。ルフィとの約束だったら、マリンフォードで共闘して救い出すはずだ。しかし、ジェシカは一人で行動していた。それは、一体どういうことなのだろう。
「救けだすこと自体が、約束ではないです」
 エースの予想は外れた。けれど、それが外れるのなら、他にどんな約束があるのだろう。エースは首を傾げる。
 血の臭いに鼻が馴染んでしまっていることに、エースは気づいた。この大きな血の海は、果たしてどこまで広がっているのだろう。考えても答えが出ない。
 冷たくも温かくもなく、温い温度の血液のような赤い液体が、エースの膝から下を濡らしていく。その体温がどうしても人間の体温に思えて、エースはぞっとした。頭を振って、ジェシカの言葉に集中する。集中しようとすればするほど、液体が足に絡みついてくるようで、なんとも気持ち悪い感覚に陥った。
「ルフィくんと、あなたと、私と、私の義兄(あに)とで、ご飯を食べようって約束」
「は……?」
――なんだそりゃ。そんな約束のために、こいつは命を張ったのか?
 エースはわけがわからなかった。たった、その約束ひとつ守るために、マリンフォードまで来たというのか。
 血の海が蠢くような、どぷりと大きなものが落ちた音が聞こえた。しかしエースは周りの景色に気を取られなかった。ジェシカの言葉が頭の中で繰り返し唱えられている。
 エースは開いた口が塞がらない。組んでいた手を緩めて、片手で自分の身体を抱いた。力は入らず、ただ手を添えるだけになってしまった。
「有り得ねェ……」
「……ふふっ」
 エースが言葉をこぼすと、ジェシカは楽しそうに笑う。何がおかしい。だってそうだろう。そんなちっぽけな約束ひとつで、戦争みたいな場所までやってきただと?
「本当に、有り得ないって思ってる?」
「……ああ、もちろん」
 それはエースの本音だった。有り得ない。ありえなさ過ぎる。そのためにこの女は命を張ったというのか? どうしてそこまでできる?
 エースは頭の中の考えが絡まっていく。エースはジェシカと面識がない。今日が初対面だった。それは、赤の他人と同じだろう。その赤の他人のために、動けるのか、この女は。
「……エースくん、『有り得ない、なんてことは、有り得ない』んだよ」
 有り得ないなんてことは、有り得ない。ジェシカの言葉を心の中で復唱する。
 ぴちょん。またどこかで、雫が水面に落ちた音がする。
「なんだそりゃ?」
「私の友人の言葉。言い得て妙でしょ?」
 言い得て妙。エースは再度ジェシカの言葉を唱えてみる。有り得ないなんてことは有り得ない。つまり、信じ難いことだって実現するということ。
――確かに、そうなのかもしれない。
 救けられたことだってそうだ。ジェシカだけではない。ルフィやニューゲート、白ひげ海賊団の仲間が救けに来てくれた。
「……ふっ、くくっ」
 エースは笑いが込み上げてくる。なぜだろう、その言葉を聞いたら、ずっと考え込んでいた自分が馬鹿みたいに思えてくる。
 ジェシカの中ではきっと、約束を守るために働きかけた、そうとしか表現出来ないのだろう。正しく単純明快。それを難しく考えようとしたエースが馬鹿だった。しかし……。
「お前……大馬鹿者だろ」
 自分よりも馬鹿なやつがここにいる。エースは笑いを堪えきれない。笑いが込み上げながら、エースはジェシカに言ってやった。
 そうだ、お前は大馬鹿者だ。鬼の血を引く俺なんかを救けて、約束を守るなんざ、ましてやそれをほぼ一人でやってのけた。
「そうかな……?」
 ジェシカは首を傾げる。エースの考えを何も理解していなさそうな反応に、エースは笑いを抑えきれなかった。  
 親父、ルフィ。俺はどうやら、この大馬鹿者に、命を救われたらしい。

22,06.26



All of Me
望楼