海に溺れる


 すべからく、男は女性に優しくする生き物だ。長年、父親と尊敬している男に叩き込まれた教訓は、今ではすっかりサンジの信念だった。
 頭のてっぺんから足の先まで、込められるだけの優しさを詰め込んで、サンジは女性に接している。下心が出てしまうことも多いけれど、相手との距離を無理やり縮めることは絶対にしなかった。ナミやロビン、その他大勢の美女に対して、紳士の咎が外れて野獣のような本能が顔を出すこともあるが、無体を強いることは決してしないよう心掛けている。あくまでも自分が感じた興奮や高揚感を、言葉や身体で表現し、相手に伝えることに留めていた。
 女性の美しさに所謂メロリン状態になることは、美しさに拍車がかかるほど、サンジの欲望に沿っている女性ほど高頻度である。それは最近麦わらの一味に加入した、ジェシカ・ヒューズに対しても変わらなかった。ナミとロビンだけでも両手に花状態であるのに、そこに登場した新たな女性クルー。サンジは数日間、夢を見ている心地だった。
 ジェシカはきめ細やかな生クリームのような白さに、最高級の苺のような双眸を持ち、落ち着いた声音はまるで子守唄のあたたかさを感じた。今まで出会ったことのない、高価なドルチェ。美しく独特の雰囲気を持ち、雪が降るようにそうっと微笑む姿は、少しだけ亡き母を思い出した。
 ジェシカとぜひお近づきになりたい。あわよくば、美しく天使のような姿を目の前で拝みたい。サンジは真心こめて料理を作り、彼女に提供した。皮膚感覚がないという情報は寝耳に水だったが、彼女が咀嚼しやすいようなものを作ろうという気持ちは、より一層の料理への情熱を掻き立てる。
「――ありがとうサンジくん。こんなに美味しくて優しい味のする料理、初めて食べた」
 美味しいと言われたことは数多くあったが、優しい味と言われたのは初めてだった。
 ジェシカの微笑みを受け止めた途端、サンジは言葉で表現できない感覚に襲われた。普段女性たちに胸躍るような衝動ではない。かと言って、ナミやロビンと過ごしていて感じる気持ちとも違う。
 胸が締めつけられて苦しくて、ずしりと身体が重くて、それなのに足元はふわふわとしている。まるで海に落ちて溺れてしまったように錯覚する。けれど、キラキラと輝く海中に、息苦しさを忘れて目を奪われる。もっと深く潜れば、もっと美しい、たくさんの景色が見られるのではないか。
 呼吸のしづらさも、動かしにくい身体も、何もかも気にならない。手足を必死に動かして深いところまでいきたい。きっとそこに行き着くまで、道のりは長いし苦しいと、頭のどこかで理解していた。それでも、そこへ届くのならば、自分は投げ捨てられるものはすべて投げ捨て、身軽になって泳いでいける。
 オールブルーに憧れている気持ちにも似ているけれど、自分には『それ』がなければいけないという確信と、手に入れなければという焦燥感。胸が高鳴って、はやく『それ』を見つけて、この腕に閉じ込めたい。
――なんだ、これは。
 サンジは目の前のジェシカが不思議そうに見上げてくることも、煙草をくゆらせていることも忘れて、ただ呆然とその場に立ち尽くしてしまった。

   * * *

 一緒に過ごし始めて知ったこと。まず、ジェシカは美しい。いやこれは全人類周知の内容であるが、容姿は言わずもがな、内面もとても美しかった。
「……優しさの塊を体現したら、ジェシカちゃんになるんじゃないか?」
 ボソリと呟いているところを、居合わせたウソップに聞かれてしまった。ドン引きしている表情に、その日の夕飯はたっぷりキノコを出してやった。「確かに、ジェシカはすごく優しいよな!」と同意してくれたチョッパーには、後日特大の綿あめを作ってやった。
 しかし、美しさは時に諸刃の剣でもある。ジェシカの優しさは、裏を返せば自己犠牲的なものだった。
 まるで自分自身が空気にでもなったかのように、ジェシカは他者を慮る。船内では自分のことよりも、他のクルーの手伝いばかりをしている。体質ゆえに手つきが覚束無いこともしばしばあるようだが、クルーはそれでも彼女の手伝いに感謝している。
 それはサンジも例外ではなかった。しかし、レディに手伝いをさせるのは気が進まない。やんわりと気持ちだけ受け取ると返事をする。
「美味しい料理を食べさせてくれた、お礼ができればと思ったんだけど、だめかな?」
――なんっっって優しいんだ! そしてかっっわいすぎるよジェシカちゅわん!
 サンジは必死に叫ぶのも、鼻血を出すのも耐えきった。なぜ今ここに子電伝虫がいないんだ。この可愛すぎるジェシカを永久的に保存したいのに。
 結局サンジは、ジェシカに首を傾げて見上げられてしまえば、頷くしかできなかった。決して怪我をさせてはならない。気を引き締めつつ、ジェシカと二人きりで過ごせる時間は、天にも昇るような気持ちにさせた。
 二つ目に、ジェシカは自分に無頓着であること。皮膚感覚がない状態を、サンジは想像もできない。想像して理解することすら、失礼に値すると考えていた。
 ジェシカは仲間になった当初、暑い日も寒い日も、同じような格好をしていた。見兼ねたナミが、ロビンと手を組み、その後は毎朝、二人が服を選定しているようだった。流石はナミさんとロビンちゃんだ。様々な服装に身を包むジェシカを拝めるようになり、サンジはまた天にも昇るような気持ちになった。
 ジェシカは皮膚が弱いらしい。日光の元では肌が晒せないようだった。それをナミとロビンは考慮して、足はタイツやレギンスに包まれて、腕もカーディガンなどで隠されている。そのため、二人のような露出の高い服を着ている姿を見ることは、夢のまた夢だった。
 極めつけは、あの宝石のような赤い瞳すら日光が敵だとか。太陽の下にいる時は、サングラスで隠れてしまうのだ。室内にいる時や夜は外していることもあるため、居合わせることができた時はラッキーである。
 ジェシカは、自分の容姿の美しさにまったく興味がないようだった。街を歩けば誰もが振り返るというのに。今まで彼女の魅力に気づいた男は、どこにもいなかったのだろうかと疑ってしまう。
「ジェシカちゃん、今日も可愛いね」
 サンジは毎日、ことあるごとにジェシカを褒めた。服装、髪型、言葉、仕草、考え方。ありとあらゆる彼女の部分を褒めたたえる。不意打ちで可愛い瞬間が見られた時――ほぼすべてにおいて――はメロリン状態に陥ってしまうが、それでも言葉で伝えられることは伝えようと心に決めていた。
 花を愛でるように、宝石を磨くように、流れ星に願いごとをするように、サンジはジェシカに美しさの片鱗を唱えていく。
 サンジに褒められたジェシカは、最初きょとんとした表情を浮かべるだけだった。しかし、ナミやロビンの反応や、サンジが女好きと知ってから、さらっと礼を言うだけに留まっていた。ロビンにも似た受け流し方だったが、ほんの少しだけ身を引きながら話す姿に、サンジは違和感を覚え始める。
 島に到着し、街に出るとその違和感の正体は、簡単に姿を現した。それは、周囲が彼女を注目するからだ。
 彼女へ突き刺さる視線は主に二種類。一つは、その容姿の物珍しさにおののき、遠巻きに眺める視線。島の文化によっては、彼女の容姿は島民から奇異として写るようで、小声で会話をしながら眉間の皺を深くしている様子が見られる。
 そしてもう一つは、彼女の美しさに目移りする視線。その中でも、弱者でありあろうことか道具とひて見ているのだ。下衆な連中は汚い笑いを浮かべ、彼女を組み敷く妄想を浮かべる。
 ジェシカは一味の中でも背が低い。身長は百六十前半くらいだろうか。なおかつ華奢なため、抵抗する姿を男らは想像できないようだ。汚い笑みを浮かべ、汚い声で彼女に声をかけ、汚い手で彼女の肩や腰に触れようとする。
「声かければ抱かせてくれるだろう?」
「子猫ちゃん、迷子かな?」
「こっち来てイイことしようぜ」
「どうせ他の男にも股開いてんだろ」
「いくら金を積めばヤらせてくれる?」
 穢らわしい言葉の数々がジェシカに降りかかる。丹精込めてつくりあげたデザートが、踏み潰されてぐちゃぐちゃにされるような屈辱感。
 腸が煮えくり返る思いはサンジだけでなく、麦わらの一味全員がそれを抱えていた。だが、ジェシカ本人は、それらの視線を何とも思っていないようだった。
 そんなジェシカに耐えきれなかったルフィは、再びジェシカを叱りつけた。
「ジェシカ! なんで何も言わねえ! なんで言われっぱなしなんだよ!? 言い返せよ!」
 もちろんルフィは、下世話な男らに言い返した。ジェシカを叱るルフィは、『痛い時は、痛いって言え!』と彼女に剣幕で迫った時と、その姿はダブっていた。
 ルフィがどこまで下衆な野郎たちの発言の意味を理解しているのかは謎だが、自分の仲間が虐げられていると気づいたのだろう。ああ見えて、仲間の尊厳には敏感なのだ。
 しかし、ジェシカからの返事は、またもや一味の背筋を震わせた。
「いいの。慣れてるから。いちいち気にしていたら、埒が明かないよ」
 日常会話としては、非常に重い話であるのに。落ち葉が水面に流れていくように、ジェシカは軽く言ってのけた。
 自分も含め、誰しもが腹になにかを抱えている。それは理解しているが、これはあまりにも惨い。このような発言をさせるまでの過去が、身を置いていた環境にあったのだろう。
 サンジは携帯灰皿の存在を忘れて、煙草を地面に踏みつけた。体重をかけて強く火を消した煙草は、足を上げた時には、拾えないほどバラバラに崩れていた。
 そしてサンジは悔いた。ジェシカ相手に、いやらしいことを一度でも想像してしまった、いけすかない自分自身を。

   *

 ジェシカの発言を受けて、サンジは身の振り方を弁えようと心に決めた。レディすべてに対しては難しくても、ジェシカに対してだけは、不埒な関わりは一切しない。発言もなし。想像や妄想も絶対にしないと一大決心する。それはもう、オールブルーを見つけることと同じくらい、強く心に刻んだ。
 幸いジェシカは肌の露出が少ない。そのため、そういった目で見てしまうことは、ナミやロビンと比べて著しく低い。しかし、彼女の可愛らしさは、肌の露出とは関係ない部分で著しく見られているため、サンジは困難を極めた。
 もう自分にとって、海に潜っていく感覚を得たあの時から、ジェシカは海底に眠る秘宝のような存在であるのだから。
 ジェシカが仲間に加わりしばらくして、少しずつ彼女の新たな一面が見られることに、サンジは胸躍った。まるで、知らない果実の成分や栄養素、調理法を知っていくようだった。
 魚人島を目指す途中で寄港した島は、交易が盛んであり市場に並ぶ食材の鮮度も良く、サンジは口笛を吹きそうになった。クルーに大食らいがいるため、ここで数日の食料を調達しようと決める。
 幸い、三日ほど滞在できるため、初日に買い忘れたものがあっても買い足しが可能だ。市場ではほぼ毎日食材が入荷するようで、サンジは張り切って初日に調達へと出掛けた。
 しかしその夜、夕食は次第に宴へと発展してしまい、調達した食材の三分の一がクルーの腹の中、主にルフィの栄養へと消えていった。
 滞在二日目、サンジは再度調達に出掛けた。また買い出しをしなければならない怒りはあったものの、サンジは調理をするのと同じくらい気分が良かった。なぜなら、ついにジェシカと二人だけで出かける権利を手に入れたからだ。それは、買い出しの付き添いに、ジェシカが名乗り出てくれて実現した。ジェシカと二人だけの買い物は、今回が初めてだった。
 サンジはジェシカの隣を歩く際、最大限の注意を払って彼女をエスコートした。特に、変な輩と出くわしてしまうことは、何がなんでも避けたかった。せっかくのジェシカとのデートなのだ。例え一味の男であったとしても、誰にも邪魔されず用を済ませて船に戻りたい。
 ジェシカは、白地にレモン色のストライプ柄のワンピースを着用し、カーディガンとレギンスで肌を守っていた。サングラスは掛けていたが、空には雲が多く漂っていたため、帽子は被っていない。三つ編みを揺らして歩く姿は天使のように可愛くて、サンジはことあるごとにジェシカを褒めたたえた。
 ジェシカとの買い出しは至福のときだった。市場は活気に溢れ、昨日はなかった食材も手に入り、ジェシカとは料理やクルーの話をしながら練り歩いた。
 人通りも多く、老若男女問わず利用しているため、すれ違う際にぶつかりそうになることも多い。ジェシカは上手くすり抜けるように歩いていた。しかし、避けようとするたびにサンジの胸にジェシカの頭が近づいたり、腹に華奢な肩が触れそうになる。
 サンジは顔の筋肉が緩むのを全力で耐えながら、彼女がぶつからないよう心掛けた。その代わり、ジェシカの香りは胸いっぱいに吸い込んだ。
 市場は盛況で、歩くことさえやっとである。自分一人ならこのまま買い出しを続けるが、レディには酷だろう。
「混んできたなァ。ジェシカちゃん、疲れてないか? どこかで休もうか?」
「大丈夫だよ。このまま買い物続け――っ!」
「ジェシカちゃん!」
 返事をするために、ジェシカがサンジを見上げる。サンジは彼女の視線を一身に受け止めてしまい、周囲への注意が疎かになった。それはジェシカも同じく、すれ違いざまの男に肩をぶつけてしまった。
 ぶつかった男は大柄で、肥満体型であった。この人混みで急いでいたようで、ジェシカを気にもとめず走り去っていく。よろけたジェシカの肩を抱き、サンジが振り返って文句をぶつけようとするが、すでに買い物客のなかに男は消えていった。
「ジェシカちゃん、怪我ないか!? おい! レディにぶつかっておいて――」  
 サンジは腕の中の彼女に視線を移す。だが、ジェシカの様子がおかしいことに、言葉が止まってしまった。
 抱いた肩は強ばり、サングラスに隠れている瞳は揺れていて、唇が少しだけ震えていた。呼吸が浅い。まるで幽霊の類にでも出くわしたような反応。片腕を体の前にやり、自分をさりげなく抱きしめるようにしていた。
 大丈夫か、怪我していないか。そんな言葉、かけられたところで困るだろう。現に彼女は、大丈夫ではないのだ。
「……ジェシカちゃん、ちょっと休憩しないかい?」
 サンジはあえて変化に気づかないように努め、大通りから逸れて小道にある店に入った。

 昼休憩と称して店に入ったときには、すでにジェシカはいつも通りであった。軽食をともにして、食後のティーブレイクで腹を落ち着かせてから、再度大通りにて買い出しを再開した。
 それからも、時たまジェシカは体を強ばらせることがあった。すれ違った男、立ち寄った出店の店主、客引きをする店員……すべてに共通するのは、恰幅のよい身体の大きな男。大通りでジェシカとぶつかった男も当てはまる。
――デブが苦手なのか?
 身長の高い男はクルーにもいる。もはやジェシカよりも低い身長の仲間はチョッパーしかいない。ブルックやフランキーといても、ジェシカの様子がおかしいことはなかった。
 サンジは歩きながら思考に耽る。レディ、しかも同じ船に乗っている子だ。女の子に立ちはだかるものはすべて蹴り飛ばしてやりたい。ジェシカならなおさらである。
 闘志を燃やすサンジの脳裏に、ふと彼女の言葉が思い出された。
――まさか、な。
 背筋がぞっとするような感触に、サンジの足は止まる。ジェシカもそれに気づき歩みを止めた。
「サンジくん? どうかした?」
 見上げてくるジェシカに、サンジの憶測はさらに色鮮やかなものになる。
――今、おれはなにを想像した?
 最悪の事態を考えてしまい、さらには光景を想像してしまい、吐き気に似た気持ち悪さを催した。とっさに口元を片手で抑える。そうしなければ、得体の知れない魔物が腹からでてきてしまいそうだった。
「サンジくん……? 買い忘れたものでもある? それともお腹痛い?」
 サンジの様子に気づいたジェシカは、眉を寄せた。心配そうな視線を受け止めて、サンジはぐっと気持ち悪さを堪える。飲み込んだ魔物はあまりにも邪悪なもので、気を抜けばレディの前であるのに口からび出して火を噴きそうだった。
 サンジは大通りに行き交う人々を見渡す。彼女が苦手そうな男が近づいてくるのを発見した。男はきっと真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。そうしたら、自分たちとすれ違うだろう。
「いや、大丈夫。腹も平気だよ。……悪ぃ、ジェシカちゃん。ちょっとこれ、持っててくれないかい? 煙草を変えたいんだ」
 サンジは近くにある、人が一人通れるくらいの裏路地に、ジェシカをさりげなく追いやった。紙袋を持ってもらう。普段ならこんなことしない。パンが入っている紙袋は長く、彼女が抱えると瞳の高さまで隠れてしまった。
 サンジは軽く頭を振って、最悪の事態の光景を忘れさろうとした。想像の塊であるのに、それは一度考えてしまえば脳裏にこびりついて離れない。
 これは今後のためだ。彼女を守るため。そう言い聞かせてはいるものの、真実を確かめるような行為に引け目を感じてしまう。
 ジェシカはサングラスの鼻あてがズレて、赤い双眸がよく見えた。「大丈夫だよ」と見上げてくるジェシカの破壊力は無限大である。こんな時であっても、それだけで身体中の血液が沸騰して、出血しそうな衝動に駆られるが、今はそれをしているときでは無い。
「っ、ありがとう」
 快く頷いてくれる優しさに、サンジは再度鼻血がでそうになった。
 レディに荷物を持たせた。一生の不覚であるが、通りの様子に注意を払いながら、サンジは煙草を携帯灰皿に押し付ける。煙草は半分ほどしか吸っていなかった。勿体ないけれど、どうしても確かめておきたい。
「っと……すまねぇ」
 胸ポケットから煙草とライターを出す振りをして、少し体のバランスを崩す。石造りの壁に片手をつけて踏ん張るが、ジェシカの抱えた紙袋がサンジのシャツに当たり、ガサリと音を立てて潰れる。
 急に縮まった距離にジェシカの瞳は大きく見開かれた。吸い込まれそうなほど見つめられる。ジェシカからは、食べたこともないドルチェのような甘い香りがした。サンジは息を呑む。
 背中で感じる気配が過ぎ去っても数秒、サンジはジェシカから目が離せないでいた。吸い寄せられるように、サンジは顔を近づけてしまう。サンジのすらっとした上半身が丸まっていく。それと比例するように、二人の距離は縮まっていった。
 ジェシカの瞳は赤いのに、なぜだか瞳の奥には大海原が広がっているような気がした。
――ああ、夕焼けに染まった海はこんなだっけ。それとも朝焼けか?
 このまま近寄れば、この海の中に飛び込んでいけるのではないか。サンジはすっかりジェシカに魅了されて、先の魂胆を一瞬忘れてしまっていた。
「……サンジくん?」
「――ッ! 悪い! ジェシカちゃん、怪我ないか!?」
――あまりにも綺麗な瞳だったから、見惚れてしまった。
 普段であれば、歌を口ずさむようにそれを伝えられる。しかし、なぜかサンジは言葉が続かなかった。言葉が喉に引っかかって、唇に乗らない。本当は君の魅力の一つであるから伝えたいのに、なにかが抑えつけてくる。それは、海に潜っていきたいのに、水圧に負けてなかなか進めない時に似ていた。
 サンジは結局言葉にできないまま、勢いある風が通り過ぎたかのように、ジェシカから距離をとる。彼女の両肩を掴み、やや強引に引き剥がしてしまった。
 ジェシカに声を掛けられなければ、自分はあのまま――。そこまで考えて、サンジは自分を蹴り飛ばしたくなった。
「大丈夫だよ。サンジくんは? よろけたみたいだけど、怪我してない?」
「ああ、どこも。ジェシカちゃんは? いきなり体重かけたりして悪い。肩も少し強く掴んじまった」
「気にしないで、大丈夫だから」
 ジェシカはすれ違った大きな男に気づくことはなかっただろう。身長差と密着度から、大通りを見ることは難しい。
――こりゃあ、なるべく近づけないようにした方がいいかもな。
 多かれ少なかれ、ジェシカが肉付きのよすぎる男に苦手意識を持っていることは確かだろう。サンジが考える最悪の事態――彼女の過去トラウマを植え付けたこと――に関わっていなければいい。しかし、もしもサンジの思惑通りであるのならば、これから先かなり酷な日々になるのではないか。
 言葉を交わしていなくても、大柄な男とすれ違っただけで身体が強ばってしまうのは、明らかに配慮が必要だ。
「タバコ、新しいの吸う?」
「あ、ああ……そうさせてもらってもいいかな」
 サンジは話しかけられて我に返る。新たなタバコとライターを取りだし、フィルターを咥えて火を灯す。
『いいの。慣れてるから。いちいち気にしていたら、埒が明かないよ』
 耳の奥に残る、ジェシカの言葉。サンジは空を見上げて煙を吐き出した。
――なにが慣れているんだ、ジェシカちゃん。
 慣れるなんて無理な話だ。身体に症状がでるほど、心に染みついている恐怖だなんて、『埒が明かない』で済まされてはならない。
『ありがとう、サンジくん』
 初めて自分の料理を食べた時の彼女は、きっと死ぬまで鮮明に覚えているだろう。あの美しく儚げで、やさしいものでできていそうな彼女の笑顔は、一生忘れられない。
 そんなジェシカが傷つくのは、青空をそのまま映し出したような、硝子の輝きを放つ海面が、濁っていくみたいだ。次第に海を汚染して、生態系に影響をもたらす。
 ありのままの美しさ。手を加えられていない、ごく自然のものの尊さ。そういったものが、誰かの手で穢されてしまうのは、絶対に許せない。
――ああ、そうか。
 サンジは静かに目を見開いた。すとんと心に落ちてきたもの。それには明確な名前がつけられていて、どういうものなのかも自分は知っていた。身体がずしりと重いのに、足元はふわふわとしていて、胸は締めつけられている感覚も知っている。
 オールブルーに憧れている気持ちにも似ているけれど、自分には『それ』がなければいけないという確信と、手に入れなければという焦燥感。
 胸が高鳴って、はやく『それ』を見つけて、この腕に閉じ込めたい。
「サンジくん?」
 サンジは目の前のジェシカが不思議そうに見上げてくることも、煙草をくゆらせていることも忘れて、ただ呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
――『それ』は、彼女だ。
 サンジは、海の正体を知ったのだ。






おまけ1 その後

「悪いね、ジェシカちゃん。突然荷物持ってもらっちゃって」
 受け取ろうと手を伸ばすと、ジェシカは身を捩った。
「これ、私がこのまま持っていてもいい?」
「えっ……いや、レディに荷物を持たせるだなんて――」
「荷物持った方が、サンジくんと買い物したって気分になれて嬉しいんだけど、だめかな?」
「っー! 」
 なんだこのレディは。可愛すぎる。本当に人間なのか?やっぱり天使か女神か妖精か聖母の部類なんじゃないか?
 サンジは結局のところ、ジェシカの発言に負けて荷物を持ってもらうことにした。
 しかし、サンジは気づいていなかった。サンジが引け目に思うことに関して、ジェシカは必ず「だめかな?」と要望をしていることを。
 けれど、同時にジェシカも気づいていない。身長差があるために、自然と見上げただけで上目遣いになっていること。そしてそれは、サンジの息の根を止めるほどの効力があるということを。



おまけ2 その後、船にて

 船に戻って夕食後、裏路地でのやり取りを目撃したらしいロビンから、サンジは楽しそうな笑みを向けられた。
「コックさん、紳士に見えて意外と手が早いのね」
「へ……? なんのことだい? ロビンちゃん」
「あら、白を切るのかしら? 今日、お昼過ぎ、裏路地……と言えばわかるかしら」
「……っ! ちょっ、待った! ロビンちゃん! 誤解だ!」
「女性にはみんな目がないのかと思っていたけど、まさかコックさんが一人を選ぶだなんて」
「ロビンちゅわあん!? それって嫉妬か〜い!? いや本当に誤解なんだって!」
「大丈夫よ。誰にも言わないわ」
「待ってくれロビンちゅわ〜ん!」

22,03.05



All of Me
望楼