蜜柑の花言葉


 オレンジのように爽快な太陽の下は、青空が広がっている。白い雲はふわふわと漂っていて、チョッパーが大好きな綿あめに似た可愛らしさがある。
 晴れた日には、干したばかりのシーツに包まれているような、幸福に満たされた感覚を身体いっぱいに感じる。日向で大きく腕を大空に向かって伸びをすると、新鮮な空気が身体の隅々に渡っていく。小さな悩み事が吹っ切れる清々しさがあった。
 穏やかな風が髪を撫でていくと、今日の航海は上手くいきそうだという気持ちになる。しかし、風は穏やかな面だけではなく、時に荒々しくもなり、やっかいな天気に空を変えていく。
 雲は白色だけではないように、灰色の雨雲が立ちこめてくることだって多い。すると、ずっしりと重い何かが頭の中を支配してくる。グリグリと脳を刺激する鈍痛がある時は、気圧が低下している証拠なのだと教えてくれた人がいた。頭痛に悩まされていると、いつの間にか、必ず雨の匂いがするのだ。人によってはわからないというその匂いは、しばらくすると、空から沢山の水滴を降らせる。
 雨が嫌いという人も多いけれど、自分は嫌いになどなれなかった。雨の語源は、そもそも天から降る『天水(あまつみず)』が次第に変化して『あめ』になった諸説があると、ロビンが教えてくれた。雨は天から賜る恵みであると同時に、とめどなく振り続ければやがて厄災を招くものでもある。それでも、ナミは雨を嫌いになれなかった。
 雨の強さや、雨粒が打ちつける場所によって、雨音は変わっていく。目を瞑れば、雨粒によるオーケストラの演奏会が開幕だ。ときどき雷鳴が響くときは、ティンパニーのクレッシェンドからのシンバルが高らかに奏でられる。クラリネットとオーボエ、ファゴットとチェロといった木管楽器が、全ての指を忙しなく動かして、雨足の強い雨粒一つひとつを表現する。
 強風に煽られるのは、ホルンやトロンボーンの管楽器に、パーカッションである、スレイベルとウィンドウチャイムだろうか。強風は轟音に聞こえるが、それはなにか建物など大きなものに風が当たるからだ。風自体は非常に甲高い音を鳴らす。
 雨と風のパーカションがそれぞれの役割を果たしている天候の中、突然それらが姿を消すことがある。凍てつく寒さと心が暖かくなるような白色が降ってきたら、フルートとグロッケンが雪の知らせをする。そして再び太陽が雲の隙間から覗いてくると、全楽器がFのコードで歓喜の音楽を奏でるのだ。
 天候オーケストラの指揮者は、大気と呼ばれるもの。この大気は地表を覆う気体である。大気が様々な方向に動くことにより、空気が温められたり冷たくなったりして、結果天候が変わるのだ。まさに指揮者そのものである。
 その天候すらを知識と経験で予測し、自在に船を操る仕事人。この船の指揮者は、航海士であるナミだ。
 肌で感じる天候の変化は、まさに音楽だった。能力者で音楽家なブルックは、ピアノやヴァイオリンを演奏する。天候の変化は、ブルックの音楽を聞くたびに、似ていると感じることが多い。
 しかし一つ違うのは、音楽には喜怒哀楽があり、天候や気候といったものにはそれがないこと。気候が変わることを、比喩して表情の変化のように表すことはある。しかし実際は異なるのだ。喜怒哀楽だと表現されるのは、きっと演奏でいう、フォルテやピアノといった強弱表現があるからだろう。加えて、演奏速度を表現するものも含めれば、演奏は多彩なものになる。
 一方、天候は至ってシンプルだ。大空の元に出て、肌で感じ、風を読む。喜怒哀楽にすら到達しないのだ。ナミはそれを熟知しているし、天候や気候の変化を読むことは、呼吸をすることと同等の価値がある。ナミにとって、航海士という仕事は、生活と切っても切り離せないもので、人生の一部だった。
 それが『当たり前』であり、ナミの『常識』だ。それら時として、人によっては“そうではない”場合がある。それを、ナミは充分に理解できているはずだった。ジェシカ・ヒューズと出逢うまでは。
「――痛みを、感じない……?」
 背筋がヒヤリとした。初めて知った事実に、背中から凍ってしまったようだった。心臓にすら到達しそうな氷は、ナミの思考回路すら凍らせてしまう。
「痛みだけじゃない。皮膚感覚がないの。痛み、温度、重さ、硬さ……そういうものを全部感じない。感じないことを想像して、伝えることは出来ない。それは真実ではないから」
 どんなに酷い怪我をしても治療を後回しして、他者を優先する。痛いはずなのに、痛いと決して言わない。それに気づかない仲間はいなかった。しかし、誰も踏み込めなかった。彼女があまりにもそれが『普通』であるかのように過ごしていたからだ。そして、とうとうルフィが動いた。
 けれどナミは、ルフィの必死な声よりも、ジェシカの静かに告白をする声の方が、胸が詰まって涙が出そうになった。
 絵画や絵本から出てきたような女の子。それがナミにとってのジェシカの第一印象だった。彼女の周囲だけ雰囲気が、まるで世界に馴染んでいないように、まったく違っていた。
――音も風も、なにもない国から、やってきたみたい。
 皮膚感覚がないということは、気候の変化がわからないということ。合点がいった。彼女が自分の服装に無頓着なこと、妙なところでおっちょこちょいで不器用なところ。それはすべて、人間誰しも持ち合わせている、皮膚感覚が消失しているからなのだ。
「だから、痛いって言えないの。ごめんね」
――どうして、ジェシカが謝るの。
 冷たさもあたたかさもない世界は、いったいどんなものなのだろう。

   *  * *

 ナミが初めてジェシカと出会ったのは、サウザンド・サニー号だった。彼女はサンジに横抱きにされてやってきた。彼女の右手は、サンジの破られた服の一部分が、ぐるぐる巻きにされていた。所々赤く滲んでおり、挨拶やサンジからの報告も早々に、チョッパーの医療室へと消えていった。
 風のように去っていく二人、そして続く荷物を抱えたルフィに、ナミは何が起きたのか尋ねるためにその背中を追った。
「ここに座らせて、傷を見せてくれ!」
 チョッパーの緊迫した声が医療室から漏れる。到着すると、すでに彼女の治療は始まっていた。サンジとルフィは肩で息をしながら、じっとその様子を見つめている。
 ルフィの足元には、ドサッとその場に落としたであろう、見慣れない鞄が置かれていた。どうやら彼女の荷物らしい。衝撃で中身が少し飛び出しており、チラリと航海術の本が見えた時、ナミはドキリとした。
 せっかくの航海術の本を、しかも女の子の荷物を床に置くだなんて。ナミはルフィをギロリと一瞥して荷物を持ち上げる。鞄は見た目より重く、他にも天候や歴史について、様々なジャンルの本が数冊入っていた。
「ジェシカ……さんは、航海術に興味あるの?」
 呼び捨てにしていいのかわからず、ナミは敬称をつけた。ベッドに座らされたジェシカが、きょとんとした顔で見上げてくる。くりくりとした赤い瞳がつやつやとした林檎のようで、ナミは人知れずゴクリと生唾を飲んだ。
――なにこれ。なんで私、ドキドキしちゃってるの。
 林檎は知恵の象徴だと耳にしたことがある。ジェシカに見つめられられると、何もかも見透かされそう。パールのような肌が眩しかった。
「ジェシカでいいよ、ナミちゃん」
「えっ、名前……」
「ルフィくんが教えてくれたの。うちの船には頼れる航海士がいるって。ね」
 ルフィに目をやるジェシカの視線はやわらかくて、あたたかい陽射しのようだった。その眼差しがすうっと動かされて、自分に注がれる。ナミの心臓は飛び上がった。
「あなたがナミちゃんであってる?」
「え、ええ! そうよ! 私がナミ、航海士の、ナミ」
 遅れて確認してきたジェシカに、ナミは大きく頷いた。胸がきつく締めつけられる感覚に、ナミは二度も名乗ってしまう。
「どうしたナミ。お前、ジェシカにキンチョーしてんのか?」
「ッ……!」
 ルフィの目敏い発言に、ナミはカッと顔が熱くなる。
――なによ、もう! 言わなくてもいいじゃない!
 自覚しないように、ナミが努めようとした途端に、ルフィから言い当てられてしまった。ナミはさらに頭へと血が上っていく。
 すぐにでもナミはルフィを怒鳴りつけたくなった。しかしどうして、ジェシカの前でそれはしたくない気持ちが勝る。
 下唇を噛んで必死にナミは耐えた。だが、心から漏れだした怨念は、般若のような表情に現れてしまう。
「こえぇえええ!」
「怒ってるナミすわんも素敵だァー!」
「おい! 医療室では静かにしろ!」
 チョッパーの声に、ナミはハッとなって口を噤む。そうだ、彼女は怪我人。まずは身体の心配をしなければいけないのに。ナミは自分の失態に、穴があったら入りたくなった。
「初めまして、ジェシカ・ヒューズです。よろしく、ナミちゃん」
「おい! まだ手当て中なんだから、動くんじゃねぇ!」
 右手を処置されながら、ジェシカは左手を差し出す。チョッパーに指摘されても、ジェシカは左手をそのままナミに向けていた。
 ナミは息を呑んだ。窓際から差し込む陽射しが、室内を柔らかく包み込む。チョッパーが扱う薬草の苦い香りから、陽向のあたたかさに包まれて、知らない植物の甘い香りに変わっていく。それらは混ざりあって、ナミの肺の中を淡い橙色に染め上げた。
 大好きな蜜柑の花にも似ている、甘く爽やかな香り。ベルメールとノジコの笑い声に、ココヤシ村の青い空。爽やかな風が肌を撫でていき、立派に育った蜜柑の木が、風に揺られて歌唱のように葉を揺らしている。
 陽射しがキラキラと虹色に光、ジェシカの白い肌を染めていく。まるでステンドグラスのようだと、ナミはほうっと息を吐いた。
 ルフィに話しかけられるまで、ナミは一言も話すことができなかった。そしてまた、ルフィの声でナミは我に返る。同時に、自分がジェシカに見惚れていたことに気づいた。
 今度こそナミは目くじらを立てて、ルフィに怒鳴る。それは照れ隠しであることに、ジェシカは気づいただろうか。目を丸くしたあと、ジェシカはくすくす笑った。ジェシカの姿に、ナミはドキドキする胸を抑えつつ、くすぐったい感触にはにかんだ。

   *   

――仲良くなれるかしら。
 ジェシカと出逢って数日は、彼女と話すたびにソワソワして、よくわからないドキドキに襲われた。おかしい、普段女の子と話す時は、とても楽しくてワクワクするというのに。ジェシカ相手だけ、なんだか幻や夢の人と話しているみたい。
 不思議という言葉がよく似合うジェシカの、そういうところは、いくつかある。
 まず、ヒューズが名前でなく、苗字であるところ。姓と名前が反対だとルフィやウソップから突っ込まれていても、ジェシカは頑なに名乗り方を変えなかった。なにか思い入れがあるのだろうか。だが、姓と名を逆に名乗っている地域は、ロビンいわく聞いたことがないらしい。逆に名乗る特別な理由もナミには思いつかなかった。見た目に反して頑固なのかしらと、ナミはぼうっと眺めていた。
 また、年齢は二十五歳だとジェシカ本人は話していたが、ナミは彼女に対して『女の子』という言葉がしっくりくると感じていた。自分よりも年上なジェシカを世話したくなるのは、彼女特有の体質と、それに伴って、自分のことへの無頓着さがあるからだと考えている。
 ナミの趣味は、ジェシカと出会ったことで、ひとつ増えていた。それは、ジェシカの世話を焼くこと。天候に合った彼女に似合う服を選び、髪型も合わせてやる。肌の露出が難しいジェシカの服装選びは、簡単ではない。
 最初のうちは困難を極め、ジェシカを太陽の元に出すことができないことがあった。しかしジェシカは一つも嫌そうな顔をせず、「今日は部屋の中にいたい気分だから」などと言って、ナミに自責の念を感じさせないようにする。そうやって、ジェシカいつも他者に重荷をおわせないようにするのだ。
 ナミはそのたびに、ルフィのように「本当のことを言え」と言いたくなった。きっと、相手がジェシカでなければ伝えているのだ。
 なぜジェシカ相手には言えないのか。ナミはジェシカを目の前にすると、口を噤んでしまう。本音が言えなくなる。
 昔から生活のために生業としていた盗み業を、ジェシカにだけは知られたくないという気持ちすら、ナミには芽生えていた。過去の自分が恥ずかしいのではない。自信がないのではなく、むしろ逆。自信はある。だって、そうしなければ生きてこれなかったし、そのお陰で金銭の大切さや、審美眼が培われたとすら考えている。
 泥棒猫だと怒鳴られ、騙されたと嘆く人々とたくさんすれ違ってきた。強くなければ生きられないのは、世の常である。怒鳴るくらいなら、嘆くくらいならば、賢く生き抜くしかない。しかし、それを邪魔するのが、情というものだ。
 爽やかな風が開けた窓から、蜜柑の花の香りを運んでくる。
「――ナミちゃんは器用だね」
 ジェシカの楽しそうな声に、ナミは指先が震えた。万年筆の先端から墨がぽたりと零れそうになる。いま墨を垂らしてしまえば、せっかく描きあげた海図が台無しになってしまう。
 ジェシカがやってきたのは、およそ三十分前のこと。三十分もの間、ナミは緊張感に包まれていた。特に右手は金縛りのように固まってしまいそうで、頑なに動きそうない万年筆を何度折りそうになったか。それでもナミが海図を描き続けることが出来たのは、単にジェシカに見てもらいたい一心だった。
「こんなに細かい作業を、丁寧に繊細にできるだなんて。とっても素敵」
 両手で頬杖をつきながら、ジェシカはしっとりと微笑んだ。それを近距離で見てしまったナミの心臓は、一瞬の金縛りのあとに、太鼓が鳴るほど脈打ち始める。
「そっ……そんなこと! ないわよ!?」
 無性にソワソワして仕方がない。ジェシカから見えない机の下に隠れたつま先は、十本の指かもぞもぞ動いた。
 喉は乾いていないのに、何回もサンジが入れてくれた紅茶を口に運ぶ。カップとソーサーがガチャガチャと音を立ててしまい、そのたびにナミの心臓は口からとび出そうになるが、ジェシカは全く気にしてすらいなかった。
――まあジェシカの方が、たまに酷い音を鳴らすもんね。
 口が裂けても言えないので、ナミは心の中で呟く。こう言った毒を吐いてしまうような、相手の受け取り方を考えず、思ったままを伝えてしまうのは、自分の長所だと思っていた。けれど、ジェシカと寝食を共にしてからは、それは短所なのではないかとナミはふと考えることがある。
 言葉は時として、どんな刃物よりも鋭いものになる。それを痛感したのは、ジェシカの振る舞い方を目の当たりにしてからだ。
 ナミにとってジェシカは不思議な存在であり、憧れであり、絶対に自分にはなれないと自覚している人だ。まるで正反対の自分とジェシカ。互いに凸凹なところを補い合えば、一つになれば完全な女の子になれるのかな。そんな馬鹿げたことを考えて自嘲することがある。
「ふふっ。ナミちゃん、かわいい」
 ナミの頬はたちまち熱を帯びる。どうしてジェシカの言葉はいつも、強風を受けるような衝撃をもたらすのだろう。
 無駄に髪の毛を耳にかけたり、毛先に触れたり。鎖骨を撫でて、ピアスの冷たさに触れると、そこでナミはようやく我に返る。
「かっ、可愛くなんてないわ!」
「そう? かわいいよ。自信もっていいのに」
 ジェシカは、彼女がサンジに言われているようなことを伝えてくる。ジェシカの方が可愛くて、自信を持てばいいのに。ナミはそう返事をしたかったが、あまりにもジェシカが優しく笑うものだから、できなかった。
「ね、ナミちゃんは、髪伸ばさないの?」
「え? 髪?」
 ジェシカが首を傾げている。雲のように白い髪が揺れた。今日は、編み込みをした二つの三つ編みを、頭の形に沿うようにくるんと何周か巡らせて、ピンで留めてあげた。ここ数日間のジェシカの髪型で、ナミの最高傑作だった。
 服装は、髪型に合わせてレースがあしらわれたワンピースに、紫外線対策のためのカーディガンを用意した。我ながら完璧なジェシカのコーディネートに、それはもう鼻息が荒くなった。ジェシカには内緒だが。
「そうねぇ……。この船に乗るまでは変則的な時間で過ごすこともあったし、髪をまとめる時間も惜しい時があったの。……そういえば、伸ばすことなんて考えたことなかったかも」
 過去を振り返りながら、それが曖昧になるようにナミは言葉を選ぶ。次第に声はぽそぽそと小さくなっていった。
――やっぱり、難しいわね。私には性にあわないわ。
 あまりジェシカには過去のことを話したくなくて、彼女のように話してみたけれど、慣れなさにむず痒くて仕方がない。痒いところに手が届かないような、霞みがかっているような、輪郭がしっかりしていない感じ。
「そっか。色んなこと、頑張ってきたんだね」
 ジェシカの手がそっと頭に乗せられる。そのままゆったりと動いていく彼女のぬるい体温に、ナミは無性に泣きたくなった。
――どうして伝わるの。
 曖昧にしか話していないのに、ジェシカはナミの苦労を見透かしたように汲み取り、ナミが欲しい言葉を与えてくれる。頭を撫でられるなんて、もう何年もされたことないのに。
 懐かしいベルメールの、幸せだったときの感触。苦しくてルフィに助けを求めた時、麦わら帽子が頭に被せられた、救われた感覚。
――似ているのに、どうしてジェシカにされると、こんなに胸が苦しくなるの。
 ナミは視線を落とし、唇にぎゅっと力を入れた。視界をゆらゆらさせているものを零したら、頑張って描いた海図が滲んでしまう。せっかく、ジェシカが褒めてくれたのに。
 ナミは音を鳴らせたくなかったが、鼻を啜って涙を呑んだ。少し時間がかかったものの、ジェシカは静かに頭を撫で続けてくれた。
 もう、大丈夫。顔を上げると、ジェシカはナミが俯く前と同じ表情を浮かべていた。窓から差し込む光に照らされて、ジェシカは今日もキラキラと輝いている。
「……似合うかな、私」
「ん? 髪伸ばしたら、ってこと?」
「……うん」
 ジェシカの手のひらに擦り寄るように、頭を動かす。もっとジェシカの近くにいきたい一心での行動だった。
 ジェシカは目を丸くしたものの、一瞬腰を上げて椅子に座り直す。近くなった距離に、ナミの胸は高鳴った。
「似合うよ、絶対。だって、ナミちゃんの髪はこんなに綺麗で――」
 ジェシカに顔を覗き込まれる。小さな子に言い聞かせるように、ジェシカはゆっくりと言葉を紡いだ。子守唄のように優しい言葉とまなざし。彼女の赤い双眸。
 頭の上にあったジェシカの手には、もう包帯が巻かれていない。傷痕が残ってしまっていたが、すっかり良くなっていた。その右手は、するっとナミの髪を撫でつけて、毛先に触れる。ジェシカの指先にくるくると巻つけられている感触に、ナミは沸騰しそうなほど身体の芯から熱くなった。
「ナミちゃんは、とっても素敵な女の子だから」
 海のどこかで、天から降り注ぐ光のような、花が咲いたような、天候が奏でる音楽が聞こえた。
――音も風も、なにもない国から、やってきたあなた。
 それなら、私が音を奏でるし、風も吹かせてみせる。ジェシカが知らないのなら、私が教えてあげるの。 
――冷たさもあたたかさも、私は知っている。
 ナミは航海士だ。幽霊や虫は怖くても、専門分野である、天候や気候のことは、誰にも負ける気がしない。
 天候はまさに音楽であり、海に覆われたこの世界のすべて。
――それは、私のいま目の前に存在している。
 航海士ナミに、越えられない海はないのだ。

22,03.11



All of Me
望楼