ゾロは得体の知れないジェシカ・ヒューズという女が謎だった。謎、不思議、空気や水、炎に煙。手に掴めないが、確かにそこに実態がある。なんとも気持ちの悪いという表現が、ジェシカを表す一言にピッタリだとゾロは考えていた。
そんなジェシカの輪郭がハッキリと目に見えて、手を伸ばせば掴める存在となったのは、彼女の発言だった。
「ゾロくんは、絶対に私のことを好きにならない。興味も持たない。それに、もし私がこの船の人たちを裏切ったとき……躊躇せず、私を殺してくれる」
麦わらの一味は騒がしいヤツらばかりだが、ジェシカは驚くほど静かだった。一部の男が好みそうな、後ろに控えるタイプ。一歩下がってヘコヘコ頭を下げ、亭主関白のように相手を尊重し否定を一切しない。
「だから、信用も信頼もおいているよ。この船の誰よりも」
その予想は外れていたらしい。ジェシカは、訊ねれば意思表示をするし、信念すら持ち合わせている。そして、世界の中の一人という立場を随分意識しているのか、その歯車が上手く回るよう、役割のように人生を歩んでいる。
静かながら、必ずそこにある存在。
風のない夜の海。彼女の気配は、それに似ている。
* * *
ジェシカを一目置くようになったかきっかけは、衝撃的な告白である。その後、ゾロはこれまでと違った意味で彼女を気にすることが増えていった。ゾロが彼女を気にするたびに、脳内ピンクなエロ料理人、そしてなぜか航海士までが、目尻を釣り上げていた。しかし、ゾロは二人と同じ勢いで返答しつつも、素知らぬ顔を貫いた。ゾロは自分の道を進むのだ。
ジェシカは体質を抜きにしても、戦闘センスが秀でていた。痛覚がないというジェシカは、思い切りがとてもいい。一撃で仕留めようとする気が強いし、言い方を変えれば、まるでルフィのような勢いで闘おうとする。怪我をしても気にせず猛進する姿に、内心ゾロが肝を冷やすこともしばしばだ。
そしてなにより、ゾロを驚かせたのは、ジェシカの戦闘スタイルである。その細い体のどこに体術や戦闘センスが隠されているんだと、ゾロは舌を巻いた。よく観察してみると、彼女は相手の攻撃を利用して、打撃を加えていた。言うならば、まさに一撃必殺。だがそれは、命を賭ける攻撃でもなければ、相手のそれを奪うようなもしていない。
一撃必殺はまだしも、剣技はゾロの興味をそそった。一度手合わせを申し出たが、断られた。『闘いは好きではない』といった理由で、ゾロは無理強いをする趣味はないため引き下がった。だが、その時のジェシカの表情が脳裏にこびりついて、戦闘が起きるたびにゾロを苛立たせる。
好きではないが、強くなるしかなかった。闘うジェシカの細い背中は、まるでそう言っているようで、ゾロは悟った途端、苦虫を噛み潰したような気分だった。
「……お前、その剣だれに教わった?」
ジェシカは普段、素手で闘うが、相手から剣を奪うと、あっという間に敵を蹴散らす。型はなさそうだが我流ではなく、教えられた形跡が伺える太刀捌きだった。それに加えて、誰かの戦闘スタイルを真似たような、ジェシカの身体には少々無理のある動かし方。そして何より、二刀流だ。
「師匠とは言い難い人に」
穏やかな風がジェシカの髪を揺らしていく。髪も肌も真っ白なジェシカは、頬に髪がかかると、正直じっくり見なければ肌なのか毛髪なのかわからないことがあった。
「へえ。周りにあるモン何だって使うのも、そいつにか?」
ゾロは続けて質問をする。
ジェシカは、周囲にあるものは何だって武器として扱う癖があった。自分の身体はもちろん、椅子などの家具や、樽や木箱など置いてあるもの、果てはフォークやナイフなどの食器類まで。
「違うよ」
ジェシカの言い方に、ゾロは眉をひそめた。
それでも共通するのは、確実に一撃で終わらせようとするところ。狙いはいつも急所だが、相手に怪我をさせたくないのか、気絶させて終わらせる。
「別の人。……なんでも武器に使うのは、父親の影響かな」
静かな夜の海。朔の日のようだ。生き物すべてが眠りについて、まるで息をしていないほどの静寂に包まれて、真っ暗闇のなかで独りきり。
「……持っているナイフは飾りか?」
ゾロは空気を変えたくなって、話題を変えた。するとジェシカはゆっくりと目を見開いた。朔の日の夜から、月が立ち込めた雲から顔を出した夜に変わる。
彼女自身が所持している武器は、その一つだけだ。ほかの仲間は知らないだろうが、ゾロはそれを知っていた。
「飾り……なのかな。どうなんだろう。それは見る人によって変わるんじゃないかな。でも――」
ジェシカは前置きをして言葉を一旦切る。ゾロはじっと見つめて続きを待った。ジェシカは服の上から上着の胸ポケットに入れられているであろう、それに触れる。
「少なくとも私にとってこれは――戒めだよ」
彼女が持つ武器は、使い古された暗器のようなナイフ。しかし、それを戦闘では使う様子は、頑なに見られていない。
*
美味い食材と酒が手に入ったとかで、何もない夜だったが、夕食は宴に変わっていた。ゾロも自分で手に入れた酒な舌鼓を打つ。
「――なあ、痛覚がねえっつうのは、いったいどんなモンなんだ」
酒の旨さについ、舌が滑った。斜向かいに座るジェシカに、ゾロは片手にジョッキ、もう片手はルフィの追撃から肉を守りながら訊ねてた。
――あ……やべぇ。
自覚した時にはもう遅く、周囲からのツッコミがゾロに突き刺さる。
「おいゾロォ! なにぶっ込んだこと聞いてんだ!」
「あんた! デリカシーなさすぎでしょ!」
「そうだぞゾロ! 聞いていいことと悪いことがあるんだぞ!」
「このクソマリモ! ジェシカちゃんに話しかけんじゃねェ!」
ウソップから始まり、ナミ、チョッパーと続き、最後のサンジは明らかに今の話題とは関係の無い言葉だ。言葉にしない面々も、食事の手を止めたり目を丸くさせたりして耳を澄ませている。話題の渦中にいるジェシカでさえ、手を止めていた。
「ア? 訊いちゃ悪いのかよ」
「ゾロさん、あなたって人は……」
「アウ! スーパー正直だな!」
ブルックとフランキーの言葉を右から左へ受け流しつつ、ゾロは虎視眈々と獲物を狙うように、ジェシカを見つめていた。
ガチャリとスプーンが皿の縁に置かれる音が響く。必要以上に鳴ってしまったであろう音量は、力加減の難しさを物語っていた。たった一瞬の音であるのに、室内には緊張が走る。しかし、ジェシカはケロッとした顔で口を開く。
「気になるの? んー……ゾロくん語でわかりやすく言うと……」
「おい! ゾロくん語ってなんだよ!」
「えっ、難しい言葉抜きって意味だよ」
「バカにしてんのか!」
「だって回りくどい言い回し、嫌いでしょう?」
「まァ、そうだが……」
確かにその通りだ。難しい言葉で説明されても、結論が有耶無耶になる。単刀直入に聞き、単純明快に答える。それが手っ取り早く、わかりやすい。
コソコソと「言いくるめられてるぞ」「やっぱりジェシカはゾロの扱いが上手いな」という会話が聞こえる。ゾロは聞かなかった振りをしてやることに決めた。一々突っ込んでいては、話が前に進まない。
「一言で言うと、『無』だよ」
「む?」
「ないって意味」
「いやそれくらいわかるわ!」
「ゾロくん、『むむっ?』 て顔してたよ、今。『無』だけに」
「してねェわ!」
「ヨホホホホ! ジェシカさんお上手!」
「ジェシカってギャグ言うのか!」
「確かにそんな顔していたわね」
「ギャグを言うジェシカちゃんもチャーミングだぁ〜!」
ブルックの高笑いに、ルフィにロビン、サンジの騒がしい声が乗る。ゾロの眉間には、さらにシワが増えそうになる。
「そして難しく言うと……」
ジェシカはサンジの淹れた紅茶をひとくち飲んだ。灯りに照らされた、紅茶に濡れた唇が、扇情的にゾロの瞳に映る。
「知覚すること……情報入力および認知、そして処理のための機能が欠落してるから、残っている感覚でそれを補うしかない。だから、より多くの集中力と神経を使う。特に視覚と聴覚は常にフル活用してるかな」
ジェシカはその後、例え話を交え補足をした。コップに入っている紅茶の温度を飲む前に判断するには、どのような方法があるか。クルーたちは一部を除き、食事の手を止めて思考を巡らせる。
飲んでみればわかる。コップを触ってみる。コップの表面が結露していたら冷えた紅茶、湯気が立っていたらあたたかい。各々が意見をだしていくのを、ジェシカは楽しそうに聞いていた。ゾロはその様子を横目に酒を煽る。
「でも結局、どれだけ残った感覚で悟ろうとしても、『本物』には適わないし、一生わからないよ」
ぽつりと呟くジェシカに、一味はシュンとしかける。
「でも! ジェシカに偽物はいねえだろ!? お前はお前の本物だ!」
「そうだ! ジェシカは本物だぞー!」
「えっ? ジェシカさんのドッペルゲンガーでもいらっしゃるんですか?」
「あんた達! 私が毎朝コーディネートしてるジェシカの可愛さが偽物なわけないでしょ! ま、私の次に、ですけど!」
「ふふ、みんなの言う通りね」
「ナミすわんとロビンちゅわんの言う通りさァー! ジェシカちゃん、君は世界一かわいいプリンセスだ……さ、紅茶のおかわりをどうぞ」
「アウ! スーパー仲間思いだな! そして俺もお前が偽物なんて思わねえ!」
「ジェシカが本物なの、おれが一番知ってるからな! なんたっておれは医者だ!」
順番に、ルフィから始まり、ウソップにブルック、ナミとロビン、サンジ、フランキー、最後にチョッパーが思い思いに発言する。
「そんな卑屈になることねぇだろ。自分のことでさえわかんねぇことがあるんだ。他人なんかもっとだろ」
「おれは一生その藻みたいな頭理解できねぇな」
「俺もお前のグル眉加減を理解するのは一生無理だ」
「んだと!? このクソマリモッ!」
「マリモじゃねぇよ! こんのエロコックがっ!」
ずるずると脱線していく話題を誰も修正しなかった。勢いと流れに身を任せる。時にはそれも悪くない。喧騒は煩わしいが、ゾロはこの船独特の、このような部分を気に入っていた。
サンジの言葉に一言多めに返答をしつつ、ジェシカを盗み見る。口角を緩くあげて、彼女はサンジの淹れた紅茶を味わっていた。一見、楽しそうに仲間を眺めているが、瞳の奥にはゾッとするほど冷たい何かが収まっているようで、ゾロは腰に手を伸ばしかけた。空を掴んだ右手に、そこでようやくゾロは、いま帯刀していないことに気づく。
殺気よりもおぞましいどろどろとした何かを、ジェシカは抱えているように見えた。
宴もたけなわだが、次々と泥酔していく一味に、いつの間にかそれは幕を閉じていた。あれほど酒や食い物を胃に流したのに、なぜか腹に収まりが悪い。サンジに小言を投げつけられながらも手に入れた酒とつまみを持ち、ゾロは甲板に出た。
今夜は三日月だった。月見酒も悪くないと、ゾロは人工芝に腰を下ろし、壁に背を預けて早速晩酌を始める。
静かな夜。風は上空にしか吹いていないようで、雲は流されているが、芝は揺らいでいなかった。星の瞬きすら聞こえてきそうだ。この静寂を知っている気がした。
――まるで、あの女のような。
「……クソッ」
ゾロは瓶のまま一気に酒を喉に流していく。喉の奥がカッと熱くなり、ぽっかりと穴が空いていた胃に収まりの良い酒が隙間を埋める。血潮が喜びの声を上げて、身体中を駆け巡り、より一層身体は軽く感じ、思考は単調なものになっていく。ゾロはこの感覚を好んでいた。
「ワケわかんねぇな」
今夜ゾロの脳裏には、ジェシカの存在がべっとりとこびりついている。きっかけの一つは、夕餉時の彼女の様子に間違いない。
ジェシカの持つ初めて見た形の暗器が思考を掠めた。鋭利な先端と、水面のように透き通って周囲の景色を映し出す表面は、丁寧に手入れされている証。
しかし、こびりついた紅色を、ゾロは忘れられない。柄の部分についていたそれは、一瞬しか見えなかった。紅色はもうほとんど黒々くなっており、どれほど手を加えても消えることは無いだろう。
隠すつもりがないのか、そもそも気にしていないのかは、ゾロはわからなかった。
「……『戒め』か」
なんとなく想像はできる。だが、想像していいものなのか、否か。ゾロは普段のように判断がつかない。
ゾロは竹を割ったような性格だ。ゾロの周囲の人間はよく口を揃えて話す。故郷にいた時は、竹の植林は珍しくなかったため、耳にタコができるほど言われたものだ。
ゾロはさらに酒を煽る。ごくりと飲み込むと、鼻についた匂い。それは酒ではなく、チョッパーが扱う薬草と、ナミの蜜柑が混ざりあったような、爽やかな香りがふわりとゾロの肌を撫でた。
「――呼んだ?」
「うぉおっ!? ――ぐっ!? っ痛ェ……!」
ジェシカは音も立てずに扉を開けて、ぬるっと現れたゾロの前に現れた。
「大丈夫?」
「ッ、テメェ……! 気配消すんじゃねえよ!」
「消していたつもりは無いんだけど。ごめんね」
鼻からお酒出ないといいね。そう続けるのほほんとしたジェシカは、寝巻き姿だった。どうやら入浴後らしい。
「……湯冷めすんぞ」
「大丈夫、髪は乾いているよ」
「いったいどんな技使ってやがる」
ジェシカの謎の一つ。それは、長髪であるのに、入浴後はすでに髪が乾いていること。入浴後のジェシカに遭遇する誰もが謎を解きたがり、予想立てて答えを伝えるものの、いつも決まった返答のみ知らされる。
「科学の力だよ」
そうやって、秘密話をしているように、楽しそうに笑う。この時ばかりは、相手に歩調を合わせがちである彼女の、本来の笑みを目の当たりにする。さっさとその秘密を吐いてほしいところだったが、この笑顔を前にすると、ゾロはどうにも調子が狂ってしまった。
ゾロの隣からまたふわりと香った匂い。ジェシカが隣に座ったのだ。一人分開けて座る彼女は、他者との距離感を弁えすぎている。
「これ、そんなに気になる?」
「……寝る時も持ってんのか」
ジェシカがどこからか取り出したのは、ゾロが考えていたものだった。暗器は薄暗い船の上でもギラりと輝き、生と死の狭間を彷彿とさせる。
「戒めだもの」
ジェシカはそうっと刃に触れる。感覚がないことを忘れそうになるほど、その手つきは洗練されていて、決して指先が刃に食い込まないように動かされていた。愛おしげに撫でる指先に、遠い昔、自分を置いていった存在が思い出される。
「てめぇの言う『本物』とやらは……」
「うん?」
ちらりと横目でジェシカを見ると、バチりと目が合った。夜なのにジェシカの白さは、チラチラと瞼の裏で光るような眩しさをしている。月でもない、ましてや星とも違うその白さの輝きは、いったい何に例えたらしっくりくるのだろうか。
『それ』はジェシカだ。そう例えられたら楽だというのに。実態が掴めないような感覚は、彼女と一緒に過ごしてだいぶ経った今であっても、よくわからない。
――何が、ジェシカの『本物』なんだ?
ゾロの唇は言葉の続きを、紡ぐことができなかった。
「何が私の『本物』なのかって?」
「ッ!」
「ふふ、顔に書いてあるよ」
「そういうとこ、胸糞悪ぃぞ」
ゾロの抵抗に、ジェシカは静かに口角をゆるくあげる。夕餉時に、仲間たちを眺めていた表情に似たそれは、なんとも背中が痒くなる。
「私にもわからない。どれだけ自分以外の人が『痛い』とか、『苦しい』とか話しても……失くしたものはもう手に入らないし。だから、『本物』は一生わからない」
ジェシカは膝を立てて、抱き締めるように腕を回し、身を丸めた。まるで赤ん坊みたいだ。小さく柔らかい存在。力を少しでも入れれば、壊れてしまう尊きもの。生命そのものの形。
「みんなは優しいから、やさしいことを話してくれたけど。『本物』か『偽物』だなんてことは、何かと比較しなければ、証明すらできない」
――訳がわかんねえ。
これはあれか。酒が回ってきたせいなのか。それともジェシカが、訳の分からないことを話しているからなのか。
そもそも、なぜ『本物』だなんて話になったんだ。目に見えるもの、聞こえるものだけがすべて。触れられるものこそがゾロにとっての『本物』だ。
――テメェの『それ』と比較する方がおかしな話だ。
「……でも、そうだね。一つ私を『本物』たらしめるものがあるのだとすれば――」
ああ、やめろ。もう、こちとら答えを見いだしたのだ。これ以上解読不能なことを言ってくれるな。
ゾロは思い切り顔を顰める。ジェシカとはもう目が合わなかった。彼女は夜空を見上げていて、その横顔を認めた瞬間、ゾロはすぐに顰めっ面をやめて奥歯を噛み締める。
あの、おぞましい感覚。片方しか見えない瞳の奥には、ゾッとするほど冷たい何かが収まっている。殺気よりもおぞましい、どろどろとした何か。
ゾロは、自分の呼吸が浅くなっていることに、遅れて気づく。なにか良からぬ事を伝えられそうだ。ゾロの予感はすぐに的中した。
「『太陽に一番近い者』、かな」
わけがわからねえ。普段の調子で、仲間をそうやって一蹴できればどれほど楽だっただろう。
ゾロは何も返せずに、酒を煽って誤魔化した。
酒の味は、わからなかった。
22,03.19