ヒューズ・ジェシカと呼ばれていた女は、血の海に降り立って嫌そうな顔をしていた。格好はマリンフォードで別れる前と同じ、黒一色の服とコート、背中にはウロボロスの刺青、そして白い手袋だった。
「おい、お前……」
「ああ、よかった! 降り立ってあまり動かないでいてくれて!」
ジェシカは嬉しそうに、じゃぶじゃぶと血の海をかき分けてやって来る。その光景はあまりにもちぐはぐすぎて、エースの心境は複雑になった。
斬られる前に「あなたを救う」と言われたが、未だにその謎は解き明かされてはいない。唯一わかっている、ルフィの仲間ということだけが信頼要素になっていた。
「背中、痛くないですか?」
「めちゃくちゃ痛ェよ……!」
「ですよね! 治すので、背中向けたままにしてもらってもいいですか?」
「治すって……」
応急処置できるものなんて、持っているように見えない。マルコみたいに『悪魔の実』の能力で治すのだろうか。いいや、能力者にも見えない。
「背中、触れますよ」
「……ああ」
エースは言われた通り、背中を向けたままにする。背中にジェシカの指先が触れた。ピクリとエースの背中が震える。ジェシカはどうやら、患部付近に触れているようだった。そして、指先を円を描くように動かしている。
「おい」
「動かないで」
あまりにも真剣な声に、エースはぴたりと固まってしまった。痛みの激しさを唇を噛み締めて我慢しながら、エースはジェシカのしているなにかが早く終わるようにと願う。
「はい、そのまま動かないでくださいね」
ジェシカの指先が背中から離れていく。エースがほっと胸を撫で下ろしたのは、つかの間の事だった。パンッと高らかに両手が合わさる音がする。突如エースの背中は電光が走るかのようなバチバチッとした火傷しそうな音が響き始めた。
「ウッ、アァ!」
ビリビリとした感覚がエースの背中を襲う。まるで皮膚が焼けているような、引き伸ばされているような感覚。痛みで閉じた瞼をかすかに開けた。血の海が青白い光に包まれて、まるで本当の海にいるかのように目に映る。
「……はい、治療終わりました。傷口は閉じましたけど、完治したわけではないので、激しい運動は控えてください」
「あ、ああ……」
エースは呆気に取られた。我慢できないほどの痛みだったのに、今ではすっかり何も感じないのだ。
「お前……能力者か?」
「『悪魔の実』の? いえ、違います」
「じゃあ今のは……」
「今のは錬金術。科学の力です」
「科学ゥ?」
エースは頭の上に、はてなマークを浮かべる。錬金術だなんて言葉を初めて聞いた。エースは海を渡ってきた経験がある。様々な島にも行ったし、能力者にも数多く出会ってきた。しかし、錬金術だなんて言葉を発した者は、これまで出会ったことがない。
「……まあ、それは追追話しましょう。まずは外の状況と、これから向かう場所について話します」
「っ!」
ジェシカはエースの隣に人一人分開けて、大木に腰かける。
ジェシカが話したのは、エースが黒い化け物に“喰われた”後の話。ちなみに黒い化け物はグラトニーといい、エースの考え通りここは化け物の中にあたるらしい。
エースの“死後”、遺体はジェシカの用意した『焼死体』にすり替えられた。ルフィをはじめ、エース奪還にむけて動いていた面々は悲しみを隠しきれず、一方海軍はその隙に海賊を大量に捕縛しようと企てていた。ジェシカが見た光景はそこまでだった。
グラトニーにジェシカも“喰われた”理由については、一つ目にエースの治療のため。エースを直したのは『医療錬金術』といって、医療に特化した力だという。
そしてもう一つの理由が、仲間割れを装って、マリンフォードを脱出するため。ジェシカは『ウロボロスの刺青集団』と呼ばれる者たちのリーダー的な立場に君臨していた。集団で動く彼らが仲間割れを装うことで、周囲に動揺を与え、その隙に船を奪取して逃げる想定らしい。計画によれば、向かう先は彼らが出会った島で、マリンフォードからは少し距離があるという。
「――なので、島に到着して、安全が確認されるまでは、ここで待機です」
「待機って……ここから出られるもんなのか?」
上を向いても真っ暗闇しか存在せず、自分たちがやってきた入口が見当たらない。そんな場所から抜け出せるのかどうか。エースは疑問だった。
「出られますよ。ちょっと特殊な方法ですけど」
ジェシカは羽根のような軽さで言い切った。本当かどうかエースにはわからない。しかし、ここまで来たら信用するしかない。エースは無理やりにも、彼女のいうことを受け止めようとする。
「――なぜ、俺を救けた?」
しかし、そのためには、まず確認しなければならないことがある。エースは膝の上で両手を組み、隣のジェシカをじっと見つめた。
22,06.22