寂しい夜が終わるまで


「あの、触れても?」
「ん? ああ」
 ジェシカの問いに、レイリーは首を縦に振る。何気なく了承した自分に、レイリーは次の瞬間ひどく後悔した。
 ジェシカの細い腕が、レイリーの太い首の両側を通り、絡みついてくる。抱きつかれたと気づいたのは、肌が触れたから。ジェシカの柔らかな身体の、十二分にこれまで堪能しても、もっと求めてしまう豊かな胸が、自分の胸板に押しつぶされている。
 レイリーは一瞬呼吸が止まった。ダメだ、もうすべて終わったのだ。彼女も完全に症状も苦しさからも解放された。
 レイリーはジェシカの華奢な背中に、腕が回せない。ジェシカから見えないことをいいことに、レイリーの指先はピクピクと動いている。
「……こう言ってはなんだが、ジェシカ。私も、男だ」
 レイリーのシャツしか身にまとっていない、ほぼ全裸に近いジェシカ。理性との壮絶な闘いの果てに、欲望が再び育ち始めるのを抑え込んだレイリーの努力が虚しく散りかける。レイリーはギュッと拳に力を込めて、必死に己との再戦に挑む。
「ぎゅって、して」
 レイリーの苦悩の言葉は無視される。首に回った腕に力が込められた。レイリーは、ジェシカの願いに応えることができなかった。
 ジェシカの吐息が近づいてくる。遠い昔の航海で、冬島を出発して、春島が近くなっていくような空気。ジェシカの呼吸はそれだ。生命を感じる呼吸が、レイリーの耳元で響き渡る。
「ありがとう、レイさん。……ありがとう 」
 それからジェシカは語った。幼い頃から性暴力の被害にあっていたこと。最初は性暴力だということを知らなかったと。実の父親から見放されていた頃、それは最後の砦のように、彼女の居場所になっていたこと。そして成長してからも、たびたび被害に遭っていた。抵抗すれば相手の思う壷だからと、必死に耐え忍んでいたと。皮膚感覚が無くなってからは、その行為は『無』の時間だったのだと。
「……こんなに、優しく抱かれたの――生まれて初めてだった」
 レイリーの腕が、ジェシカの背中にとうとう回った。ジェシカが消えてしまうことのないように、強く掻き抱く。こんなに柔らかく、細くて、華奢な背中。滑らかな肌は上質な大理石のようだ。
 レイリーは何も言えなかった。彼女との行為を思い出しただけで、腹の底からどろりと欲情が湧き出てくる。実際、理性が崩れないよう努めて彼女を抱いていたが、あまりの美しさと天にも優る快楽に、欲をさらけ出してしまうことさえあったのだ。
 このまま、ジェシカを手に入れることが叶うのなら――。そんな不埒で最低な考えさえ、白濁にまみれた脳は浮かんでしまい、その先を想像してしまうのだ。この年齢になってもなお、まだ自分には『男』の片鱗が残されているのか。心の中で自嘲してしまう。こんなの、ひとたまりもない。
「ジェシカ……。ジェシカ、きみは……」
 レイリーは何かを伝えたかった。しかし、言葉が続かない。伝えたところで、彼女のためにはならないのだ。あるのは、ただの自己満足。『自分は彼女を癒してやった』という、自分勝手ともいえる達成感。
――彼女を救ってやりたい? 非道も甚だしい。
 レイリーの脳裏に思い出されるのは、麦わらの一味でかる金髪の男だった。サンジを見る彼女の双眸。
「っ……」
 レイリーはジェシカの首筋に顔を埋めた。擽ったいのか、やわらかい身体を捩っている。
 身体の中の空気をすべて吐き出し、ゆっくりと息を吸う。見たこともない美しい花の香りがした。レイリーの脳を魅了する、ジェシカの香りだ。
 レイリーの腹の底から、ふつふつと羨望が溢れ出てくる。彼女の特別、唯一の存在になり得る男。
『ジェシカちゃん!? やめろ! ――動けよおれの身体ッ! 待て、やめろ! ジェシカちゃんッ!!』
 二年前、シャボンディ諸島にて一番最初に消えたのは、ジェシカだった。麦わらの一味全員が彼女へ叫ぶ中、サンジは一等強く自分の身体にむち打って無理に動こうとしていた。
――護れなかった小僧が。
 ギリっと奥歯同士が鳴る。屈辱的な音だ。ありもしない『もしも』の情景が、頭の中でシャボン玉のように浮かび上がっては弾けていく。
「んぅ……レイさん、つぶれちゃうよ」
 ジェシカの照れくさそうな声がする。レイリーの脳髄に直接響く、甘くやわらかな声だ。
――ああ、もうこんなに自分は絆されているのか。
 喉の奥でくつくつと笑いが込上げる。ジェシカがもぞもぞと動いた。からかわれたのだと考えたのだろう。なんて可愛らしい抵抗なのか。
 レイリーは腕の力を抜き、顔を上げた。
「……ん、すまない。きみがこれまで受けてきた非道なことへの憤怒と、これまで生きていてくれた嬉しさがせめぎ合っていてな」
 瞼がまるでシャッターを切るみたいに、ぱちくりと赤い双眸を覗かせる。
 可愛いな。素直にそう感じた。なんて可愛らしい生き物なのだろう。こんなに小さくて幸せを詰め合わせたような彼女が、なぜ世界の穢らわしいものを目の当たりにして、受け止めなければならないのか。
 レイリーは目を細める。ゆっくりと自分の額と、ジェシカのそれをくっつけた。視界で彼女の髪と、自分の白髪が混ざり合う。
 このまま、溶け合ってしまえばいいのに。このまま、彼女の唇に触れて、深くてやわらかくて、誰にも邪魔されない、あたたかいところに行けたらいいのに。
「ジェシカ、今まで生きていてくれて――私と、出逢ってくれて、ありがとう」
 ジェシカの瞼が見開かれる。ぱちりと音が鳴るかのように瞬きする姿は、年齢相応よりも幼く見えて、心の内が穏やかな気分にまみれてくる。
 彼女の睫毛が顔に触れてくすぐったかった。しかし、その感触ですら愛おしい。
 揺れる瞳は、まさに夕暮れに差しかかる燃える太陽だった。波が押し寄せるて、しっとりと濡れた赤は、宝石に様変わりする。再び瞬き。ジェシカの睫毛から、レイリーの肌に生ぬるい水滴が移される。
 ジェシカの額が離れていく。レイリーは動かなかった。
 ジェシカは泪も拭わないまま、顔を少しだけ傾ける。そうっとレイリーの頬に、ジェシカのそれが掠められた。そして、レイリーの左耳に、ジェシカの唇が触れる。
「――おねがい、だれにもいわないで」
 それは、祈りのような言葉だった。
 レイリーは息を呑む。
――なにを。
 レイリーはすぐに理解することができなかった。彼女が誰に、何について話すことを拒んでいるのか。
「レイさん、おねがい――」
 濡れるジェシカの声が、レイリーの心を瑞々しくしていく。
――そうか……すべてか。
 レイリーの脳は、ようやく答えを導き出した。
 この数日が、ジェシカと二人だけの秘め事になる。彼女の親愛なる麦わらの一味でさえ、レイリーが嫉妬を燃やす、金髪の一流コックである男ですら、知らないこと。この世界でただ一人、レイリーだけが知っている。
「……ああ、約束する。約束するよ」
 残りの人生をすべて、きみに捧げることができたらいいのに。
 伝説の海賊団にかつて所属し、海賊王の右腕だった過去を持ち、今や冥王と謳われる男。富や名声にはあまり興味が無い。胸が躍るような好奇心と、空を飛ぶような高揚感に身を委ね、冒険することがすべてであった。
 それなのに。いや、それだから、なのだろうか。
「――誓おう。私の、残りの人生にかけて」
 空気が揺れる。ジェシカが笑った気がした。
 たった一人の、女の子を救う術を、自分は持ち合わせていない。
 たった一人の女の子でさえ、自分は救うことができない。
――もし、『あの男』のように、自分がまだ若ければ。
 レイリーは初めて、老い先短い自分の『生』を、後悔した。

22,03.08



All of Me
望楼