ジェシカが目を開けると、そこは赤に染められていた。血液のように流れていくそれは、よく耳を澄ますと様々な叫び声を上げている。濁流のように絶えず起きる叫びの中で、ジェシカは立っていられるのがやっとだった。
「ここ、どこ……?」
辺りを見回すが、検討すらつかない。血の濁流をよく見ると、一つひとつ顔が浮かび上がってくる。それらはジェシカへ向けて助けを求めるように叫び続ける。
「なに、なんなの、これ」
ジェシカは後ずさった。しかし、前後左右どこを見回しても、ジェシカを取り囲むように血の濁流は存在している。叫び声は次第に数を増していき、浮かび上がった顔はくっきりと輪郭を帯びていった。合唱というにはバラバラすぎる数々の叫び声が、ジェシカの鼓膜を傷つけるように刺激する。
感覚がなくても、自分の体調がいまあまり良くないことにジェシカは気づいた。吐き気を催すような、ぐらりと目眩が起きるような、グラグラと体が揺れてしまう。気にしてはいけないと考えていても、叫び声一つひとつが耳に飛び込んできて、ジェシカを苦しめた。
「―― 」
「……え?」
ジェシカが耳を塞ごうとした瞬間、なにかの音が叫び声の隙間を掻い潜ってきた。叫びではない、もっと澄んでいて落ち着いた音だ。
「なに? 誰かいるの?」
そこら中に人の顔が存在しているなか、問うことではないと自覚していた。しかし、囁き声のようなその声は、次第に近づいているような気がする。
ジェシカは一歩踏み出した。声のする方へ次第に足早になっていく。
「―― 」
耳を澄まして声のする方へ駆けていく。叫び声が続く血の濁流をくぐり抜けて、ジェシカは声を追いかけた。まるで誘導されているような気分だ。
声の先に何があるか、ジェシカはわからない。それでも確かめなければという使命感がジェシカを駆り立てる。上も下もない無限の血の濁流のなか、ひたすらに足を動かした。
「――ジェシカ」
「っ! だれ……!?」
ついに、声がはっきりと聴こえた。名前を呼ばれている。ジェシカは居てもたってもいられず、深く息を吸った。
「あなたは誰っ!? どうして呼ぶの!?」
ジェシカは立ち止まって声を張り上げる。しかし、すぐの返答はない。ジェシカは辺りを見回す。相変わらず景色は血の濁流で、叫び声をあげる顔が永遠と流れている。
「――ジェシカ、僕の可愛いジェシカ」
「えっ……!?」
聞いたことのある呼び名だった。ジェシカのことをこう呼ぶのは、海賊の世界には誰もいない。いるのは、錬金術の世界の者だ。
「おいで。僕の可愛いジェシカ。早く僕を見つけて」
その言葉を聞いた途端、ジェシカの身体はなにかに突き動かされたかのように動き出す。身体はまるで言葉に支配されてしまったようだ。ジェシカの意思に関係なく、声を追いかけて駆けていく。
「あなた、だれ……!?」
――知っているはずなのに。
ジェシカのことを『僕の可愛いジェシカ』だなんて呼ぶのは一人しかいない。しかし、頭の中に靄がかかってるかのように、誰なのかが思い出せない。確かにそう呼ばれていたはずなのに。なぜ今になって思い出せないのだろう。
肩で息をしながら、ジェシカは呼吸を整えることなく進んでいく。
「……やっと、ここまで来てくれましたね」
その声が聞こえた瞬間、目の前の赤い濁流が割れた。まるで海が割れるように一筋の境目から、濁流は道を作るように広がっていく。
「――きみのことを、ずっと待っていました」
濁流の先にいたのは、一人の子どもだった。知っていたはずなのに、なぜ思い出せなかったのか。どうしてここに、彼がいるのか。ジェシカは呼吸を整えながら、ぼうっと彼を見つめる。
ジェシカの視線の先にいたのは、セリム・ブラッドレイ――ホムンクルス、プライドだった。
22,07.07