代償


 目が覚めた時、初めに見えたのは、天井の木目だった。視界がぼやけてはっきりと見えるまでには時間を要したが、目を閉じる前と場所が変わっていることに気づく。薄暗くカビ臭いところから一変して、清潔感のある部屋の印象を覚える。
 ジェシカは体を起こさぬまま、まずは視線で見える範囲を確認する。皮膚感覚がないのは、こういう時に困る。ベッドの感触や、部屋の温度など確認したいことは永遠にわからないままだ。
 得られる情報は少なかった。ジェシカは起き上がることにする。暗い室内でも夜目がきいてきた。まず視界に入ったのは包帯だらけの手。それに力を込めるイメージをして、体を起き上がらせる。
 身体は清潔な衣服に着替えさせられて、いたるところに包帯が巻かれていた。手当を施されたのだろうか。ジェシカはしばらく考えても答えが出ず、顔を上げた。
 室内はがらんとしていた。ベッドと最小限の家具しか置いておらず、客間のような雰囲気の部屋だった。目を細めて部屋の奥を見つめてみると、扉付近に一人、ベッド脇に一人、誰かが座り込んでいる。
――だれ……。
 ジェシカは息を飲んでじっと見つめた。おそらくは、この場所に運んで手当をしてくれた人。しかし、素性が読めない。
――もし、あの男たちの仲間だったら?
 ジェシカはぶるりと身体が震えあがる。皮膚感覚がなくたって、暴行を受けた記憶は消えない。それは永遠と生き続けて、ジェシカを蝕んで苦しめる。
 もし手当した代償として、身体を開けと言われたら? もっと酷い暴行を受けたら? ジェシカの脳は正常どころか、悪い方向にしか物事を捉え考えられなくなっていた。
 扉付近にいる男は、まるで部屋を守るようにその場に居るようだが、よく見れば剣らしきものを抱えて座り込んでいる。もう一人、ベッド脇にいる男は特に特徴がないものの、扉付近の男と同じくらいの身体の大きさだった。
 男二人に対して、こちらは女一人。逃げられる可能性はほぼゼロに近い。
――どうしよう。
 ジェシカは膝を立てて抱え込んだ。身体が震えているのが見て取れる。脳裏では最悪の事態を想定していたり、暴行を受けた記憶がフラッシュバックしたりしていて、ジェシカは恐怖に苛まれた。
――とまれ、止まれ。
 腕に力を入れるイメージをして、必死に縮こまろうとしていても、震えは収まらない。それどころかもっと悪い状況を想定してしまい、さらにジェシカは縮こまった。
 これからどうしよう。どうやってここを抜け出す? 男二人にバレないように逃げ切れるか? それとも、言う通りにして逃げる機会を伺う? また暴行を受けたら? 二年後の『約束の日』は近いのに、仲間に会えなかったら?
 ジェシカは唇を噛み締める。一度感じた不安はさらに不安を呼び、ジェシカの心を蝕んでいく。
――これからどうすれば……。
 ぎゅっと自分を抱きしめる力を込めた矢先、視界の端っこがパッと明るくなった。明かりが灯されたのだ。ジェシカはびくりと身体を震え上がらせる。
「    !     !?」
 目をぎゅっと瞑り腹を括ってから、ゆっくりと瞼を上げた。腕にうずめていた顔をそうっと上げる。目の前に現れた男に、ジェシカは目を見開いた。
――さんじ、くん?
 ジェシカの眼にとまったのは、金髪だった。明かりに照らされてキラキラと輝いている。二年前とは髪の分け目が違い、左眼と目が合った。間違いない、サンジだ。
「    ?    !?」
「        ?」
 サンジの後ろからやってきたのは、剣を抱えていた男だ。左眼にキズがあり片目しか見えなくなっているが、彼はゾロだ。
――わたしは、二人に助けられた?
 ここにゾロとサンジがいるということは、自分は助けられたのだろうか。よりによって、仲間である二人に醜態を晒した。ジェシカは全身から血の気が引いていくようだった。あの惨状を、二人は見てしまったのだろうか。心臓は嫌な音を立てているようで、ズキンズキンと胸が痛む気がした。
「っ……?」
 ジェシカは名前を呼びかけようとした。しかし、口から盛れたのは、はくはくとした空気音だけだった。
――声が、でない?
 ジェシカはもう一度試してみる。
「    、    」
 サンジくん、ゾロくん。二年前のように名前を呼んでみる。しかし、声が出てこない。依然として空気音が抜けていくようだった。
「     ?     !?」
「    ?」
 サンジとゾロが何かを話している。しかし、ジェシカはなぜか音が拾えなかった。二人がまるで口パクで話しているように見える。
――音、聞こえ、ない?
 ジェシカは耳を澄ましてみる。しかし、いつになっても二人の声が聞こえてこない。ジェシカは両手で口を覆った。
 うそだ、嘘だ嘘だ嘘だ。どうしてこんなことになっているの。私の身体は何が起きているの?
 ジェシカは全身嫌な汗をかいていた。身体は震え、焦点は定まらず双眸は揺れている。涙がぽろぽろと零れ頬を濡らす。指先についた涙の冷たさはわからない。
「    !?    !」
「  !   」
 サンジとゾロが話しかけてくるが、ジェシカは返答できなかった。自分の身体の変化に対応しきれない。
 もとより皮膚感覚がないことに加え、ここに来て声が出ない、なにも聞こえない。なにが原因で起きているのか、さっぱりわからなかった。
 ジェシカは震える手を口元から外し、片手を喉元、もう片手を自分の耳に触れる。首を横に振って、サンジとゾロを見上げた。息を呑む二人は一瞬顔を見合せて、ジェシカを見つめる。
 ジェシカに残されている感覚は、視覚、嗅覚、味覚。たったの三つだけ。彼女が意志を伝えること、相手の言葉を受け取る手段は、ごく一部に限られてしまった。

22,07.09



All of Me
望楼