消失


 無意識のうちに眠っていたらしい。しんと静まる室内にて、サンジは瞼を開けて、そう時間が経っていないことを悟る。眠ってしまったのは十分か、十五分かそのくらいだろう。サンジは音もなくため息をついた。
 ベッドに目を向けると、変わらずそこにはジェシカが寝ていた。サンジはほっと胸を撫で下ろす。自然に手は胸元に伸びていく。煙草を吸おうかと胸ポケットを探るが、煙草の箱に触れた途端、指は引っ込んだ。
――病人の前だ。
 サンジは煙草を吸うことを諦めるも、酷く口が寂しかった。
 まるで心にぽっかりと穴が空いてしまったみたいだ。この穴を埋めるにはどうすればいいのか、サンジは理解していた。ジェシカが目覚めて、また元気な姿をこの目に映すこと。ただそれだけで、この穴は簡単に埋まってくれる。
――はやく目覚めてくれ、ジェシカちゃん。
 無理を強いることではないが、はやく目覚めてほしい。彼女の赤い瞳で自分を見つめてほしい。ジェシカが目を覚まさなければ、サンジの気分は落ち着かなかった。煙草を燻らせることを辞めた指先は、ライターを弄ることで寂しさを紛らわす。
「ん……?」
 サンジは違和感に気づく。先ほどまではなかった存在。真っ暗な室内で、ベッドにぼうっと浮かび上がるなにか。
 ベッドはジェシカが寝ている場所だ。ならばそこにいるのは――。
「っ! ジェシカちゃん……!?」
 サンジはすぐに立ち上がって明かりを付ける。明るくなった室内のなか、ベッドに目を向ける。ジェシカが起き上がって、自分の身体を抱きしめるようにして縮こまっていた。
「ジェシカちゃん!」
 サンジはジェシカに近寄り、ベッドに片脚を乗り上げた。顔を覗き込み名前を呼ぶ。数回目の声掛けでジェシカは顔を上げた。二年ぶりに見るジェシカの美しい瞳は、不安げに揺れている。
「ジェシカちゃん! 目が覚めたんだな……!?」
 どこか痛いところはないか、と訊きそうになる口を噤んだ。そうだ、ジェシカには皮膚感覚がない。痛みなど分からないのだ。しかし、彼女が傷ついたことは確かだ。
「大丈夫かい? どこか変なところはないか!?」
「ジェシカ、目が覚めたのか?」
 ゾロも目覚めて近づいてくる。ジェシカはサンジとゾロの顔を交互にぼうっと眺めていた。まだ起き抜けのような雰囲気だったが、次第に意識がはっきりしてきたのか、顔色が変わっていく。
「っ……?」
 ジェシカは何かを言いかけた。しかし、いつまで経っても声は届いてこない。どうかしたのだろうか。やはり身体の具合が悪いのだろうか。サンジはどう話しかけたらよいのか、分からなくなってしまう。
――いいや、しっかりしなければ。
 彼女は今不安定な状態にある。男サンジ、ここでしっかりしなければ、どこでジェシカを支えるというのだ。
「     、    」
 ジェシカは声を出さずに口をはくはくと動かした。何かがおかしい。瞬時にサンジは眉を顰める。ジェシカの顔色はどんどん真っ青になっていく。
「ジェシカちゃん? 声が……!? 」
「声、出ねぇのか?」
 サンジはゾロと顔を見合わせ、ジェシカを再度見つめた。ジェシカからはいつまでも声が聞こえてこない。なぜ声が出なくなったのか。考えてみても、何も思い当たることは無い。いや、思い当たることならある。彼女は暴行を受けたのだ。そのときに何かが起きて、声が出なくなったと考えるのが妥当だ。
 ジェシカは両手で口を覆い、頬を濡らしていた。
「ジェシカちゃん!? 大丈夫か!」
「おい! なにが……」
 ジェシカは返事をせずに静かに涙を流し続ける。サンジは胸が締めつけられる思いだった。大切な彼女が目を覚ましたというのに、彼女から脅威は消え去ったというのに、どうしてこんなにも彼女は苦しめられなければならない。自分は、なぜ彼女を助けることが出来ないんだ。サンジは自分が不甲斐なくて、ジェシカの涙を拭いてやることすら出来ない。
 ジェシカの口元から、震える手が外される。ガタガタと小さく揺れる手は、片手で喉、もう片手で耳元に触れる。
――まさか……!!
 ジェシカは涙を拭うことなく、そのままサンジとゾロを見上げた。ジェシカの視線を受け止めた二人は、横目で視線を絡み合わせる。同じことを考えていることは、確かである。
 ジェシカから、声と聴覚が消え失せたのだった。

22,07.10



All of Me
望楼