表と裏


『ジェシカもいつか、色んな人と出会って、想いを育んで、大きな世界を見に行くんだろうな』
 実験に成功した大きなシャボン玉を見上げながら、ぽつりと『彼』が呟く。ジェシカはその言葉に何も返せず、ただ『彼』の横顔を見つめることしかできなかった。

   * * *

 航海中に出会った人魚のケイミーや魚人のハチ、ヒトデのパッパグの助言により、麦わらの一味はシャボンディ諸島に到着した。シャボンディ諸島はヤルキマン・マングローブという大樹の集合体であり、地表からは大きなシャボン玉が出現する不思議な島であった。『新世界』を目指す海賊が集う島。その他にも、海賊を狙う海軍や賞金稼ぎ、昔から横行しているという人攫い、さらには世界政府の人間も駐留するという。
 ジェシカは上陸せずに、サニー号からシャボン玉を見上げていた。地面から膨らんだシャボン玉が次第に大きくなり、空に舞い上がっていく様子。かつて幼い頃、大きなシャボン玉を作りたいと『彼』に相談し、実験を重ねた記憶が頭を過る。
――なんでこんな気持ちになるんだろう。
 過去の記憶を思い出しただけで、身体がどこかへ沈んでいくような、とにかく動かしにくい様子だった。ジェシカの様子はまさに『感傷に浸る』という表現がぴったりであったが、当の本人はそのことに気づいていない。
 過去を振り返るのはあまり得意ではなかった。しかし、脳裏にずっと『彼』との思い出が蘇ってきては色褪せることなく再生し続ける。どうしてこんなにも『彼』が恋しいのか。ジェシカは答えが出ずにいた。
「ジェシカちゃんは、上陸しないのかい?」
 サンジがささやかに話しかけてくる。ジェシカは後ろを振り向いてサンジを見上げた。サニー号に残っているのは、サンジ、ウソップ、フランキー、そしてジェシカの四人のみ。その他のクルーはすでに上陸していた。
「……ちょっと、考えたいことがあって」
 気分が悪いとでも言えば、きっと大それた心配をされてしまう。厳密に言えば『気分が悪い』はジェシカにとって正しい表現だったが、心配されたくない気持ちが勝り、真実に嘘を織り交ぜる。考えたいことがあるのは事実である。
「そっか。ゆっくりできる時にそうするのも、悪くないかもな」
 サンジの言葉に、ジェシカはゆるく頷いて肯定する。ただ同然のように肯定し、受け入れてくれるサンジの存在が、今のジェシカには救いだった。過去を思い出し続ける自分と、今サニー号に乗っている自分を繋ぎ合わせてくれる存在。ジェシカはサンジに話しかけられたことで、一旦感傷に浸った状態から、立ち上がることが出来そうだった。
「サンジくんは、上陸しなくていいの?」
 島に上陸すると、食料調達のためにサンジは上陸することが多い。仲間も増え、大食らいもいる麦わらの一味の食料を揃えるのは、簡単なことではない。
「ナミさんに船番を頼まれてな。誰かが帰ってきたら、交代で買い出しに出る予定だよ」
 そういえば、ナミが態とらしくサンジに聞かせるように、船番の存在を探していた。そしてその旨を先ほどウソップに伝えていたっけ。ジェシカはその時の光景を思い出しながら、サンジに話しかける。
「なんだっけ……恋の奴隷?」
「ウッ! ジェシカちゃん、聞いていたのかい!?」
 サンジは驚きつつ、照れくさそうに口元を押さえる。自分の気持ちに正直で居られるサンジが少しだけ可愛く思えてしまい、ジェシカは静かに笑う。
「恋の奴隷ってことは、サンジくん、恋してるの?」
 口からとび出てきた言葉は、素朴な疑問だった。恋をしていなければ、自分のことを『恋の奴隷』だなんて表し方はしないだろう。
 サンジはピタリと動きを止める。じっとジェシカを見つめた。見つめられたジェシカは、変なことを訊いてしまっただろうかと首を傾げる。
「ジェシカちゃん、おれは――」
 サンジの声は普段シャボン玉のようにふわふわとしている。抑揚のつけ方が上品で、穏やかな低い声は心地よく言葉を運んでくる。まるで穏やかな漣のようだ。ジェシカの聴覚はやわらかいサンジの声を受け止める。
 しかし、今回ばかりはふわふわしておらず、キュッと締めつけられるような声だった。まるでしっかりと最後まで聞き届ければならないような、背筋が伸びるような声。緊張感が辺りを支配していて、こちらまで身が引き締まるようだった。
「おれは、ジェシカちゃんに……ジェシカちゃんのことを――」
 言葉を選びながら話をするサンジに、ジェシカは両手を腹の前で組んだ。ジェシカの指にはぎゅっと力が込められる。無意識の行動だった。
――なんだろう、こわい。
 言葉の続きが自分に関係のあることであっても、ないことであっても、続きを聞くことに足がすくみそうになる。
「ごめん! 聞いちゃいけなかったよね。こんなプライベートなこと……!」
「……エッ?」
「不躾に聞いちゃってごめんね。私、無神経なことしちゃった」
 ジェシカは組んだ両手を離し、ひらひらと胸の前で数回振った。その後、握りしめた手をだらんと下げる。サンジの顔を見上げることが出来ない。
 悪いことをしてしまった。ただの好奇心だ。好奇心は猫をも殺すというではないか。こんな失礼なこと、異性に、ましてや仲間の一人にしてはいけない。
「……許して、くれる?」
 プライベートに口を突っ込むという蛮行に、ジェシカは不安げにサンジを見上げた。普段ならば絶対に許しを乞うことなんてしない。許さないと言われれば、それ相応の心構えを持ち、反省をする。しかし、ジェシカは今回ばかりは、サンジに許してほしかった。彼に許されないことは、想像しただけでとても辛そうだった。
「もっ……もちろんだよ〜! ジェシカちゃんには何されたって構わねえ! 全部許しちゃうに決まってるよ〜ん!」
 サンジは両手を広げた。くるくる回りだしそうな元気な様子に、ジェシカはほっと胸を撫で下ろす。
「よかった……ありがとう。失礼なことしちゃったから……」
「アアッ、どこまでも謙虚なんだねジェシカちゅわん……! そんな姿も素敵だー! むしろ……おれはジェシカちゃんには、ぜひ聞いてほしかったんだが……」
 サンジは胸を抑えて苦しそうに呟く。普段通りの様子だったが、後半の言葉が小さくて聞き取れない。ジェシカは首を傾げた。
「え……? なあに?」
「いいや! ジェシカちゅわんはやっぱり可愛いって言っただけだよ〜ん! 今日もジェシカちゅわんは天使ような可愛らしさだ〜!」
 ついにくるくると回るサンジに、ジェシカは気のせいだったのだと悟った。サンジが伝えようとした言葉に、自分の名前が繰り返し出てきたことに、ジェシカは気にしなくなっていた。
 つかの間の平穏は、チョッパーからの電伝虫によって、幕を閉じる。

22,07.13



All of Me
望楼