過去と現在


 ルフィは地上に降り立った。帽子が飛ばされないよう、一度深く被り直す。その間も、ルフィの双眸はジェシカを真っ直ぐ射抜いていた。
 ジェシカのサングラス越しに目が合う。ルフィの心は波のように揺らいだ。

   * * *

 ルフィはジェシカのことが仲間として大好きだった。出逢ったときから『良い奴』だと思っていたし、その勘通りにジェシカは『良い奴』だった。ルフィに化学とは何たるかを教えてくれたし、敵に攻撃されそうになったルフィを助けてくれた。
 ふとした時、気づいた時に助けてくれるし、話もしてくれる。何か物足りないことがあったとき、ジェシカが近くにいると落ち着くことが出来る。ジェシカが見ていてくれると、なんだって出来そうな気持ちになる。ルフィにとって、ジェシカはなくてはならない存在である。
 しかし、同時にジェシカに対しては、不安も募っていた。いつか海に落ちてしまうんじゃないかとか、太陽の光に溶けて消えてしまうんじゃないかと、有り得ないことを感じ取ったことがある。なぜそう感じたか、ルフィは未だに分からず終いだったが、ジェシカには誰かが近くにいないと、いつの間にか、いなくなってしまいそうな危うさを孕んでいた。
 ジェシカが近くにいれば安心するし、姿が見えなければ不安でソワソワしてしまう。そのチグハグな感覚を含めて、ルフィなりにジェシカという人間を理解していた――はずだった。
 ルフィを狂わせたのは、二年前のマリンフォード頂上決戦にて、義兄であるエースが処刑された件だ。今まで考えていた、感じ取っていたジェシカの印象が一変した。ジェシカが何者なのかわからなくなったのだ。
 マリンフォードでジェシカの存在に気づいた時、彼女が生きていたことに、ルフィは先ず安堵した。ジェシカはシャボンディ諸島で最初に消えてしまった仲間だ。数日の時を経て生存が確認されたことに、ルフィは救われた思いだった。しかし、安堵は一変し、ジェシカはエースに刃を向けた。
 おれたちは仲間だろう。なんで海軍みたいな事をしているんだ。エースを救けにきたんだ、一緒に闘おう。ルフィは迫り来る攻撃を受けつつ交しつつ、ジェシカに語りかけた。
 しかしジェシカからの返答はなく、ジェシカは二本の剣でエースの背中を斬り、丸焦げになるまでに燃やした。
 ルフィは目の前のエースのことしか頭に入ってこなかった。ジェシカがエースを処刑したのは二の次で、エースが死んでしまった事実に捕らわれた。それはトラファルガー・ローに治療を施してもらって目を覚ましたあとも同じだった。
 ジンベエに止められながらも、衝動を抑えきれなかったルフィは、自らの身体を傷つけ続けた。エースが死んでしまったことを受け入れられなかった。悪夢のようにエースが死んでしまった時の光景が蘇る。樹木を倒し、岩を砕き、周囲の自然に当たり散らした。夢だと思いたかった。しかし現実で起きたことも、その過程でルフィは受け止めようとしていた。エースは死んでしまったのだ。
 おれがもっと強ければ、エースは死ななかった。ジェシカの攻撃から守ってあげられれば、瞬時に身体が動きエースを救けることが出来れば、エースは死ななかった。すべて自分の弱い結果だった。ルフィは後悔と自責の念に苛まれる。
 そこから救い出してくれたのはジンベエだった。
「無いものは無い! お前にまだ残っておるものは何じゃ!」
 ジンベエの問いにルフィは我に返って指折り数える。仲間一人ひとりの顔を思い出しながら指を折り、涙がぼたぼた零れていった。折った指は九本。浮かんだ仲間の顔も九人。ルフィにとって、何が起きたとしても、仲間の中にジェシカは含まれていたのだ。
 ジェシカは仲間だ。何があろうと仲間なんだ。でも、本当に仲間なのか? 一抹の不安がルフィを襲い始める。
 エースがルフィの義兄であることを、ジェシカは知っていた。サニー号で話したことがあるからだ。ジェシカにも義兄がいて、いつか四人で食事をしようと約束しあったからだ。
 ルフィは混乱する頭で考えた。ルフィの義兄だと知っていて、ジェシカはあの場で執行人として現れた。それは、ルフィからすれば裏切りとも言える行為なのではないか。だって、仲間だったらそんなことするはずが無いだろうから。
「……なァ、ジンベエ。『名誉大罪人』ってのは、一体なんだ?」
 マリンフォードで仕切りにジェシカが呼ばれていた言葉。ルフィはその言葉を初めて聞いた。ジンベエは腕を組みながら答える。
「『名誉大罪人』とは、『王下七武海』の制度ができる随分前の古い制度じゃ。自分の罪を帳消しにしてもらう代わりに、海軍の命令に絶対に従わなければならん。言わば海賊の裏切り者じゃ。古い書記にしか載っていないような制度だったが、まだ残っていたとは思わなんだ。話によると、海賊自らが志願し、海軍将校の推薦がなければ、それは実現しないらしい」
 ジンベエすら実際に見るのは初めてだったという『名誉大罪人』。ジェシカはいったい何処でそれを知ったのか。誰が推薦したのか。ルフィは何も分からないままだった。

 女ヶ島から北西に進んだ先に『ルスカイナ』と呼ばれる無人島がある。ルフィが二年間の修行をした地だった。一年半、そこでレイリーから覇気について教わり、残りの半年を一人で修行に明け暮れた。
「なぁ、ルフィ。なぜジェシカはマリンフォードで『名誉大罪人』をしていた?」
 ルフィが覇気を身につけ始めてしばらくした頃、夕食時にレイリーは、唐突にルフィに投げかける。ルフィはぽかんとした後に、ゆるゆると視線を下げた。
「なにもわかんねぇんだ……。ジェシカがなんであそこに居たのかも……エースの、処刑をしたのも」
 修行に明け暮れて考えないようにしていたことが、一気にルフィの心の中を駆け巡る。エースの死を受け入れることができても、ジェシカの行動の理由が不明であったため、ルフィの心には未だぽっかりと穴が空いているようだった。
「ふむ。そうか」
 レイリーは頷くとまた食事を再開する。しばらくして完食したレイリーは、未だ食事に手付かずなルフィに目を向けた。
「ルフィ。処刑の作法というのを知っているか?」
「処刑の、サホー?」
「ああ。処刑というのは言わば見せしめだ。ロジャーの時はローグタウンの死刑台で、エースの時はマリンフォードで。見せしめとして全世界に処刑されたことを共有することで、世界は処刑人の死を知る。そのためには、処刑の仕方にも工夫がされる」
「工夫?」
「全世界に処刑されたことを共有する、と話しただろう。そのためには、単純明快でなければならない。言わば、一目見ただけで処刑されたと知らしめる必要がある。一般的なのは、首を斬り落とし見せしめとして置いておくことだ」
「へえー」
 ルフィは、レイリーの話をルフィなりによく耳を済ませて聞いていた。処刑に作法というものが存在することを、これまで知りもしなかった。
「そんで? そのサホーがどうしたんだ?」
「君にとっては心苦しい話題になるが……ジェシカがエースの処刑を執行しただろう?」
「っ!」
「処刑の仕方は事前に海軍にて確認されるものだ。しかし、どうだ。マリンフォードでの様子を中継で途中まで見ていたが……ジェシカは作法通りにエースを斬ったか?」
「っ……! し、してねぇ! と、思う……」
 ルフィは説明した。エースはまず背中を大きく斬られたこと、そして遺言を遺した後に、丸焦げに焼かれてしまったこと。それらはすべてジェシカが執行していたのだと。ルフィは言葉が詰まりながらもレイリーに教える。
「なるほどな。……ジェシカという娘は、賢いか?」
「ジェシカはめちゃくちゃ頭がいいぞ! みんなが知らねーこと、いっぱい知ってる!」
 レイリーはルフィの返答を聞き、腕を組む。ルフィは食事もままならず、レイリーの言葉に一身に耳を傾けた。
「どういうことだ? ジェシカに、何かあるって言うのか!?」
 ルフィは立ち上がってレイリーを問いただす。
 ジェシカについて言いたいことは沢山ある。聞きたいことも沢山あった。この二年間、心の中で何度もジェシカに話しかけた。ジェシカに届いてないと分かりきっていても、話しかけずにはいられなかったのだ。
 なァ、ジェシカ。なんでエースを殺した? どうしてマリンフォードに居た? おれのこと、忘れたわけじゃねぇよな。だって、お前はおれに「許さないで」と言ったんだ。どうしてなんだ?
「あの大規模な処刑ならば、作法を確認するはずだ。そうしたとしても、ジェシカはその作法通りのことをしなかった。それは、エースの首を晒したくなかったともとれる。……これはあくまで予想なんだが――」
 レイリーは大事なことを言う時、必ず一呼吸おく。ルフィはそれを修行を通して知っていた。ルフィは固唾を呑んで続く言葉を待ち構える。
「――ジェシカには、なにか別の目的があったんじゃないか?」
「別の、目的……?」
「わざわざ『名誉大罪人』にまでなって、エースの処刑を執行するとは……私怨以外には考えられん。エースとジェシカは、会ったことがあるのか?」
「ねェ! でも、エースがおれの兄ちゃんってことは知ってる。話したからな」
「ふむ……」
 レイリーはそれっきり黙ってしまった。ルフィは静かにその場に座り、手をつけなかった食事にありつく。考えても分からないことを、どうやって処理すればいいのか、ルフィはずっと考えあぐねている。
「ルフィ、ジェシカから、何か言われなかったか?」
「何か? うーんと……」
 ルフィはもぐもぐと口を動かしつつも、腕を組んでマリンフォードでのやり取りを思い出す。ジェシカに問いかけた言葉はたくさんあるのに、それに関する返事は何もくれなかった。しかし、数少ないジェシカの言葉を、ルフィは覚えている。
「『ごめん』って謝られた。あと、『許さないで』って……」
「ほう……」
 ルフィはない頭をつかって、話を整理しようとする。作法通りにしなかったというのは、なにか意図があったから。そして、エースの首を見せしめにしたくなかったから。だから丸焦げにした。ルフィはそこまで考えて、一つの疑問が浮かび上がってくる。
「……ん? なら、どうして背中斬ったんだろ」
「うん? どうした、ルフィ」
「ジェシカはエースの背中を斬ったんだ、二本の剣で。でも、そんなことしなくたって、ジェシカならすぐ丸焦げにできそうだった。背中斬る意味があったのかな」
 ルフィは考えていることを言葉にしながら首を傾げる。レイリーをちらりと見ると、顎髭を擦りながらなにやら考え事をしているようだった。
「……なんか、おれ、ジェシカのこと知ってるようで、全然知らないんだな」
 ぽつりとルフィは呟く。言葉にするとさらにその事実が鋭く心を抉ってくるようだった。ルフィは胸の痛みに耐えきれず、胸元を掴む。レイリーの視線を感じながらも、ルフィは言葉を止められなかった。
「ジェシカ、なんでも秘密にするんだよ。言わねぇんだ。温度も重さも……皮膚感覚? がねぇってことも、問い詰めないと答えてくれなかった。男のこと苦手だっていうのも、言わなかったんだ。言わなくていいと考えてんのかと思って、怒ったことある。そしたら、『ごめん』って謝るんだ。別に、謝ってほしいわけじゃないのに」
 謝られると、どうしていいかわからなくなる。まるで悪いことをしてしまった気分になる。こっちはただ心配しているだけなのだ。ジェシカの『ごめん』を聞く度に、ルフィはなんとも言えない気持ちになってしまった。
「……心配かけたくなかったんだろう。優しそうな子だ」
「ああ。めちゃくちゃ優しいんだ。ナミみたいにちょっとのことで怒らないし、大体のことは笑って許してくれる」
 そうだ、ジェシカは優しさの塊みたいなやつだ。初めて会った時からずっとそれは変わらない。だからきっと、マリンフォードで会った時だって優しいジェシカだったはずだ。
「……さっき、ジェシカはマリンフォードで謝ってきたと言っていたな。『許さないで』とも」
「ん? ああ。言ってた」
「なぜそう言ったと思う?」
「なんでって……」
 なんでだ。ごめんと言うのなら、許さないでと伝えるのなら、しなければいい話だ。それをあえて話すということは、どういうことだ。
「自分がルフィを傷つけることを、ジェシカは分かっていたんだろう。それでも、そう行動するしか無かった」
「ッ! エースを処刑するしか無かった、てことか!?」
「ああ。理由はわからずじまいだがな。……ルフィ。時として、人は気持ちとは逆の行動をとることがある」
「気持ちとは……逆?」
「ああ。例えば、好きな相手に意地悪をしたり、闘いたくないと思いながら、闘ったり……とな」
「……レイリーは、ジェシカがしたくないのに、エースの執行人をしたって言いてぇのか?」
「まあ、憶測だが、そういう考え方もできるということだ」
 ルフィは首を傾げる。傾げすぎて伸びた首は一周回ってしまった。レイリーに笑われて、ルフィは首を元に戻す。
「ジェシカは本当はやりたくなかったのに、そうするしかなかった。そのためには、『名誉大罪人』になる必要があった。ルフィが傷つくことを承知の上だったから、『許さないで』と言った……」
 レイリーは両手を膝の上で組みながら語る。ルフィはじっとレイリーの顔を見つめた。
「ルフィ……真実を確かめなさい。船長として」
 レイリーの強い双眸がルフィを見つめる。ルフィは強く頷いて、いつか必ずと心に誓った。
 
   * * *

 修行の二年間を通して、ルフィは少しだけ事実を客観的に見られるようになっていた。それは自分が経験した心苦しいことも同様である。当時哀しみに襲われて暴れ回ったことがあったが、今ではエースが死んだことも、落ち着いて伝えることが出来る。
 ルフィは真っ直ぐな男だ。聞きたいことは訊ねるし、思ったことは包み隠さず言葉にする。言葉にすることを迷うなんてことはなく、飾らないありのままの心境を伝える。
 しかし、ジェシカを前にした今、ルフィは迷いを覚えた。言葉にしようとした数々の想いが、言葉としてまとまらないのだ。まるでシャボン玉みたいに心の中に浮かんでは、パチンと弾けて消えてしまう。ルフィは初めて人と対面して、動揺してしまった。
 ジェシカはルフィから視線を逸らしてしまっている。それが何となくルフィは嫌だなと感じた。まるで会話することを恐れているようだった。
 心の中に浮かぶシャボン玉のような言葉を、ルフィはかき集めるだけ手繰り寄せて、どの言葉を投げかけようか思案する。
 その間も、ジェシカは視線を惑わせて、指先を弄っていた。白い肌に施された包帯が痛々しくて、彼女の白い肌を助長させる。その様子を見ていると、こっちまでソワソワしてくるようで、ルフィはギュッと拳を握る。
 拳を握ると身体中に何かが駆け巡ってくるようで、ルフィは唇を引きしめた。なんだって出来てしまいそうな、乗り越えられそうな気持ちになってくる。この感じ、修行で成果が出てきた時に似ている。同時に、フツフツとした何かが腹の底から沸いてきて、苛立ちを運んでくる。ジェシカの額や身体に巻かれた包帯やら、頬や手に貼られた湿布を見ると、さらにルフィは頭にきてしまう。大切なジェシカを傷つけたのは、誰だ。
「ジェシカ……その怪我、誰にやられた」
 ルフィが最初にジェシカへと掛けた声は、彼女の体調を心配する言葉だった。

22,07.29



All of Me
望楼