5

 眠った時間は遅かったのに目覚める時間が変わりないのはなぜだろう。休日の朝は寝坊するものだと思っているけれど、あまり寝坊したことがない。昨日よりも肉体的な疲れはないけれど、仕事に遅刻する夢を見たからなのか疲労感は引き継いだままだ。休日に限ってなんでそんな嫌で現実的な夢を見るんだろうか。
 布団のなかで横になったまま、スマホロトムすらみないでぼうっとしていた。雨戸を締め切って暗い部屋は、外からの光や音をほとんど拾わない。
 雨戸を締め切ったのは少しまえのことだ。アパートの外壁塗装の工事があって、そのタイミングで──清掃や塗装のために降ろされたシャッターは、そのとき光や音に過敏になっていた自分にとってちょうどいい防壁になってくれた。光は遮断してくれるけれど、音は完全には防ぐことはできない。それでも閉じないよりかなりましだった。
 時折、膜を張ったような車の走行音や鳥ポケモンのさえずりが聞こえてくる。出勤日であればもう食事も化粧も済ませた時間を過ぎているらしい。ようやくベッドから出ようと動いたのは、11時を過ぎたころだった。
 昨日は帰ってから化粧も落とさずに眠ってしまって、肌や髪が油っぽくべたべたしていた。このままあれこれ行動する気にはなれないし、行こうと思っていた買い出しもいけなくなる。シャワーを浴びたら少しは気分も晴れるだろうし、そうしたら久々に部屋の掃除でもしようと思った。洗濯物も溜まっていて、いい加減に洗わなければ来週の出勤時に着る服がなくなる。
 あれこれ考えながらクローゼットから適当に下着やタオルを取り出して、浴室に向かう。廊下から真っ直ぐ繋がっている玄関には昨日のダンボールがあって、それの開封は家事を済ませたあとにしようと浴室に繋がる扉を開けた。


 久々に雨戸を開けた部屋のなかには陽光が降り注いでいる。この部屋は昼から午後になるとよく日が入ることを、今更になって思い出した。
 掃除は嫌いだけどそれはやるまでの話で、手をつけてしまうと案外進む。部屋に散らかっている本や細々した封筒を片づけたり、掃除機を掛けたり、洗濯物や布団を干したりしていると、昨晩の憂鬱さもかなり薄れてくれたようだった。ひとりで生活を維持する力はあることを確かめられたような気がして安心する。それとひとりで生きていけるかは別の問題だったとしても。
 あらかたの家事を済ませたけれど、私にはあとひとつだけ課題が残っていた。仕送りの開封だ。
 玄関に向かうと、やはりそれは変わらずにそこにあった。いっぱい色んなものが詰まったダンボールは岩ポケモンのような重圧感をたたえて、開封されるのを待つように沈黙している。
 ハサミをすぐに見つけられなかったから、変わりにボールペンの先端を使う。貼られたテープは綴じ目に沿っているけれど、閉じ切らなかった蓋部分には窪んだところがある。くぼみに穴を開けるようにペンを突き刺し、縦に割るようにスライドさせた。先が細すぎるペンでやるとペン先が痛むけれど、カッターナイフを使わなくても開けられるから便利だ。
 テープが切られると、内側からの圧力に耐えかねたように蓋は勝手に口を開く。思っているよりも中身の密度がすごくって、おぉと短く声が出た。いつもより入っているものの量が多いような気がする。
 ぎゅうぎゅうに詰め込まれた荷物の一番うえには、一枚の紙が貼り付けられているお菓子の袋があった。セルクルタウンでお土産に売られているラスクだ。実家のテーブルのうえに、常備されているものだった。
 貼り付けられた紙を剥がす。ぺり、と軽い音がして簡単に取れてしまったそれには、母からの短いメッセージとポケモンたちの手形や足跡があった。きっと、母が気を遣って入れてくれたものだ。
 足跡は見覚えのあるもので、みんな私が実家に置いてきたポケモンたちのものだった。でも私は彼らに会う気持ちにはなれない。会ってどんな顔をすればいいのかわからなくて、寂しい気持ちもあって、これを見るといつも懐かしくなる。
 けれど同時に、奇妙な空白があることに気付く。いままで届いていた荷物とこれと同じような紙には、必ず入っていたものが存在しない。
 ゼンの手形がない。真ん中の指だけが長くて紙のうえに一本の線を架けたような、あの特徴的な形が。
 それを見た瞬間に、ついにこの日が来たんだと思った。ゼンが自分に愛想を尽かすときをずっと願っていた。いざくるとそれはあっけなく、遠く、わたがしを水に入れたようにあっという間に終わるものなんだと知った。
 ゼンはみんなと同じように、ずっと私にやさしかった。そのやさしさを私以外に向けてくれる気になってくれたんだと思って、胸を締め付けられるような安堵感に身体の力が抜けかける。
 捨てようにも捨てられない紙は半分に畳んで、ほとんど使うことがない書類がしまわれているファイルに入れる。3年間の間で届いた仕送りと手紙はぜんぶここに入っていて、怖くて一度も読み返したことがない。
 自分の頬を両手で包んでみると、頬の熱がてのひらで冷やされていくような感じがした。それで少し気分が落ち着いて、気を取り直して荷物を整理する。カットフルーツや魚類、野菜の色んな缶詰が入っている。あとは袋菓子や、賞味期限が長いインスタント食品だ。ドライフルーツやナッツの袋詰めなんかも緩衝材の代わりと言わんばかりにたくさん入っている。正直、自炊を億劫に感じるいまのタイミングでこの仕送りはかなりありがたい。
 これは戸棚にしまっておいて、これは今日とか明日で食べてしまうから出しておこうと仕分けながら片手間にメールを打つ。しばらくはパンとヨーグルトを買っておけばどうにか繋いでいけそうだ。
『ありがとう。荷物届いたよ』
 送信してから間もなく、メッセージに既読がついた。時間的にポケモンたちとおやつでも食べていたのかもしれない。ゼンもそこにいるんだろうかと思って、けれどもう私はゼンと無関係の人間なのだと自分に言い聞かせる。
 母からは定型的な、けれどそれ以外に浮かばないような当たり障りのない返事が届いた。スタンプを押して適当に会話を切り上げようとしたけれど、ゼンのことを聞くか躊躇う。
 ゼンが私に愛想を尽くしてくれたなら、自分のために生きるようになってくれたなら、それでいいのだ。けれどそうやって私の都合の良いほうに物事が転がってくれるとも限らない。ゼンのことになればなおさらそう思う。
 ゼンは元気かと打ちかけて、メッセージを消す。この間の母からのメッセージで、ゼンの存在はちゃんと確かめられていた。寂しがっているという言葉は見ないふりをして、何事もないことを祈りながら母との会話を切り上げた。
 大丈夫だ、と自分に言い聞かせようとする。ゼンはやさしくて、強かな子だった。元は野生のポケモンだ、だからというわけではないけれど、私と違って生きていく力が備わっていると信じようとする。
 そんなふうに考えながら、思考を打ち消すように箱のなかのものを取り出しては戸棚や、目につく場所へ収納と整理を進める。箱のなかはぎゅうぎゅうに詰っていたものが少なくなったから、軽いものが倒れては秩序のない地層ができていた。
 それに埋もれていて、気付くのが遅れた。箱のほうを見ずに手を突っ込んで、まず冷えた硬い感触から缶詰だと思う。けれど缶詰にしては形が丸く、手に馴染む輪郭をしていて──。
 持ち上げると、それは缶詰と違ってとても軽い。けれどちゃんと重みがある。ひとつの命がそこに入っているという、所有者に責任を与える重さが。私が目を背けて、二度と持つことはないだろうと思っていた形が。
 モンスターボールだ。表面に細かい傷があって、何度か落としたりしてしまったから赤い塗装が剥げていたり、褪せているところもある。それでもこのなかになにが、誰が入っているのかがわかってしまう。
 ──このなかには、ゼンが入っている。


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悲喜として茫洋