モラルを下敷きにして
 揺らめくネオンの光が、アルコールで微かに鈍くなった頭を刺激する。久しぶりに会った同僚たちとの飲み会はついつい話し込んでしまい、気分転換にもなるその場の雰囲気は、酒を飲む為の手が止まらなかった。
 結局、二次会、三次会、と何軒も梯子して時刻は電車の始発が近い時刻……先程まで瞳を刺激していたネオンの光も、ぽつり、ぽつりと灯が消えていく。上を見てみれば、暗んでいた空も微かに白み始めていた。今日はこのまま一日寝込むパターンかな――心地よいアルコールにあてられて微かに眠気が襲ってきた頭を軽く振ったその時だ。人と人がギリギリすれ違えそうな、そんな路地裏の方から声が聞こえ、思わず足を止めてしまったのは荒げた男の声が聞こえたからだ。
 迷うことなく、暗がりの強い細道へ足を向ける。黒のフードを被った細身の人物が背が見え、その奥からは更に怒号が……どうやらフードの人物に怒鳴りつけているようだった。

「何してるんですか?」
「誰だあんた!俺はコイツと話してるんだ!部外者はひっこんでろ!」
「……一応、私服ではありますが警察官なので揉め事だったら交番に」
「っ、警察!?」

 俺の言葉に男は、一つ舌打ちをしてフードの人物にくしゃくしゃの万札を何枚か投げつけてその場を荒々しく走り去っていく。ひらり、ひらりと地面に落ちる万札にフードの人物は微動だにしない。パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、こちらを振り向きもしなかった。

「……大丈夫かい?揉めていたようだけど」

 怒鳴りつけられて恐怖しているのだろうか、躊躇われたが放置する訳にもいかず、遠慮気味に肩を叩いてみる。やっと、動きを見せたフードの人物がこちらをゆっくりと振り返る。黒のフードから微かに覗くのは、ライムグリーンと金髪。西洋の方の顔立ちだろうか、幼さが微かに残るその顔はどこか挑発的に目元をやわらげている。

「ありがと、おにーさん」

 形が整った、少しだけ薄い唇から紡がれたのは流暢な日本語。にこりと浮かべられた笑みは、どこか色香を通わせているような気さえする。フードの男は、「あーあ」なんて気の抜けた声を上げて地面に落ちた数枚の万札を、拾い上げていく。

「こんなクシャクシャだと、お金持ってませんって言ってるようなもんじゃない?」
「あの男とはどんな関係なの?」

 摘まんだお札を、ひらひらと左右に振りながら興味なさげに話しかけてきたフードの男に問いかける。早朝も近い時間帯、飲み屋街、だれも寄り付かなそうな路地裏、お金を突き付けられて居たのだから『なに』をしていただなんて、分かり切っているのに。

「お金はいらないって言ったのに、なぜか怖気づいてお金払うとか言ってきた馬鹿な人」
「は?」
「今日の僕は気持ちよくなればそれで良かったんだけど、身売りとか思ったんじゃない?」

 路地裏に置かれていたゴミ箱の蓋を開けて、フードの男は躊躇いもしないでお札を捨てようとしたので慌ててその腕を抑え込む……咄嗟の行動で強く握り込んだ手首は男の物にしては細く、軋みをあげたような気がした。

「何してっ」
「何って、僕は身売りしないって言ったのに無理やりお金突き付けられたんだよ?いらないもん、捨てるでしょ」

 他人事のように言った男は、俺の焦りに疑問を浮かべた表情をする。

「それなら、交番に届けてくれないかい?」
「交番?あー、おにーさん警察官だもんね。分かった、いいよ」

 ゴミ箱の蓋を戻して、男はくしゃくしゃの万札を俺に差し出してきた。「え、」と思わず声を上げた俺に「はい、届けた」なんて、これまたあっさりとしたやり取りだ。

「今更だけど、俺が警察官のフリしてるかもしれないよ?」
「そんなこと思わないよ。こんな面倒事に首突っ込むのは、馬鹿かお節介の塊しかいないから。僕は知ってるから、大丈夫」

 握らされた万札と笑う男を交互に見る。戸惑っている俺に、男は握らせた万札を奪って俺のパンツのポケットへとそれをねじ込んだ。

「そんなことより、おにーさんは飲み会?それとも、女の人といたの?あ、両方もありえるか」

 くすくす、と忍び笑いを口の中で転がす男の顔に色気が含まれているのはきっと気のせいではない。幼さが残る顔つき、あどけなさが際立つ微笑、しかし細められる瞳の奥は『大人』を知っている。
 一歩、詰め寄られ見つめる黄緑色が濃くなる。

「ね、おにーさん今日お休みなら僕とイイことしない?」

 だぼついた服の袖から覗く細い指が、服越しの腹筋線をゆっくりなぞられていく。なぞっては、つつかれ、また、なぞられる。恋人にするような優しげな指使いに、ぞわりと背筋に『ナニ』かが這って行くのを感じた。

「お金もいらないし、溜まってるんじゃない?僕もおにーさんで気持ち良くなりたいし、女の人とヤるのってだるくない?僕だったら準備も済ませるし、おにーさんが挿れてくれるだけでいーよ」
「……っ、」
「ふふ、もしかしてお腹こうされるの初めて?可愛い、ね、もっと見せて?」

 シャツの裾を捲ろうとしてきたのか、伸ばされた手を慌てて制止する。抑え込まれた手を、男はきょとりと見つめ、そして今度は俺の顔を覗き込んできた。

「男だから、いや?」
「そうじゃなくてっ」
「あ、男でも大丈夫なの?」
「そうじゃなくて!君の口ぶりからだと、いつもこんなことやってるのかい?」
「……なんだ、そんなことか」

 男の愉しげな表情は一変、呆れたようにため息を小さくついて掴んでいた手を振りほどいてきた。じとりと、微かに睨みつけられることに、何故こっちが妙な居心地の悪さを感じなければならないのだろう。

「ひと肌恋しくなるし、特定の相手なんて作れないし、合理的だと思うけど」
「だからって、危ないじゃないか」
「心配してくれてるの?おにーさん、やさしーね」

 笑みを零す男……ころころ、ふらり、ふらり、と次々と表情を変えるその姿は猫みたいだ。その綺麗な笑みを黙ってみていれば、唐突に口を塞がれ、男の顔が近くなる。
 一歩、後ずさりそうになった俺に「動かないで」と、呟かれた言葉に思わず従ってしまった。長い睫毛が揺れ、男の唇が手のひら越しの俺の唇を捕らえる。薄暗い路地裏には不釣り合いな可愛らしいリップ音を立てて、男の手と顏はすんなりと離れた。

「またね、おにーさん」

 煌めく瞳を細めて男は、俺の横をあっさりと通り過ぎる。あまりにも目まぐるしく起きた出来事に、アルコールが響く脳内が追い付いていかない。ハッと思考を取り戻し、慌てて振り向いた頃には男の後ろ姿は随分と離れていた。
 朝焼けによって光が射し込む街の中を歩き進むその後ろ姿は、不穏当でもあるが、どこか安心感も感じる。それと同時に、片手にある違和感。手をゆっくりと開けば、そこには見覚えのない十字架のロングピアス――もしかして、さっきの男の物だろうか。でもなぜ、こんなものが?
 手のひらに収まるそれは、かちりと金属音を立て、裏路地に射し込む光によって微かに輝きを放った。









 ――不可思議な男と邂逅を果たしてから数日。

 勤務地である交番のデスクの引き出しには、男の物であろうロングピアスをしっかりと保管している。男と出会った飲み屋街と此処は、距離があるので再び会えるかも分からない。でも、男は『またね』と言ってわざわざピアスまで置いて、俺の前から消えた。
 男は、俺と会える確証を持っているからこれを託していったのではないだろうか。

 ――……考えすぎかな。


「すみません、落し物を探しているんですけど」

 交番の外から聞こえてきた声に返事を返して、落し物リストをデスクから引っ張り出す――物思いばかりに耽ってはいけない、今は何よりも勤務中だ。
 最近の落し物が届けられた記帳欄に目を通しながら、交番の外へと足を向ける。

「お待たせしました、えーと、どんな――」
「十字架のロングピアスなんです……此処にある筈なんですが」

 ネイビーブルーのネクタイをしっかりと絞め、ブレザーの胸部にはこの近所では有名な名門校のエンブレム。脳裏に焼き付かれた、ライムグリーン。

「また会ったね、おにーさん」

 黒で覆っていた金を陽の中で風に遊ばせて、がらりと風貌を変えた男はゆったりと口端を上げて楽しげに微笑んだ。




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