星に祈っても

 窓から覗く乾いた地面は、いつの間にか空によって白のレースが敷かれ始めていた。やや狭い作りの部屋に長椅子が綺麗に陳列されている。その中央にストーブが置いてあり、その上にはやかんが。やかんからは、ゆったりと湯気が細く長く棚引いてた。
 ギルバートは肩に付いた綿雪を軽く払ってから、首元のマフラーを緩めつつ声を掛けてきた女性へ柔らかな笑みを向ける。

「こんにちは」
「カークランドさんこんにちは、今朝から機嫌がいいんですよ」
「ありがとうございます。いつもお世話になっています……中々、顔を出せなくて」
「お忙しいんですから大丈夫ですよ、その為の私たちなんですから」
「そう言っていただけると有難いです……」

 優しげに微笑む女性に、ギルバートは申し訳なさそうに視線を下げた。それにつられる様に女性も視線を下へと向ければある一点でぴたりと止まる……ギルバートはその視線に気がつき、片手に持っている『それ』を女性が見やすいように軽く持ち上げた。

「……あの――」










 ――壁と同じ白色の扉の前で、ギルバートは何度も深呼吸を繰り返す。とっとっ、と早まっていく心音を落ち着かせるために、己の掌で胸を撫でつけた。ぐっと胸を押してしまったからか、圧迫感で喉の奥が詰まり、口から吐く息は細く、そしてヒュッと音を鳴らした。
 
 ――ずっとこうしてる訳にもいかないよね。

 ギルバートは、固唾を飲み込んで扉をゆっくりと開けた……こぢんまりとした小部屋、一台のベッド、小さな棚、簡素過ぎる室内を窓から射し込む陽の光が、優しく照らしてくれている。

「あら、看護師さん。こんちには」

 小綺麗なベッドの上で上半身を起こし、こちらを見つめてきた彼女は、ゆったりと瞳を細めた。柔らかな光を背に、人畜無害そうな微笑みかけてくれる彼女へ、本来ならば人は誰しも安心感を抱く筈だろう。しかし、室内の明るさを手助けしている窓へ填め込まれた鉄格子が現実をギルバートへ叩きつけた。

 ここはギルバートの母親が入院している精神病院だ。『あの日』から可笑しくなってしまった母親は、ギルバートのことを『看護師さん』と呼んで笑う、この女性だ。病院に着いてから言葉を交わした女性が本来の担当看護師なのだが、ギルバートの母親・ミシェルはその判別がついてはいない。
 機嫌が悪いと入室してくる人たちへ手当たり次第に物を投げつけるミシェルの対策として、病院側は私物を徹底的に取り上げた。ギルバートは、そんな病院側の対応になんの不満もない。扉を開けた瞬間に、花瓶が顔の真横を掠っていく体験なんて二度とごめんだった。

「ねぇねぇ、看護師さん聞いてくれる?」
「ええ、もちろん。今日はどんなお話ですか?」

 ナースステーションから借りてきたパイプ椅子を組み立てて、ギルバートは無邪気に声をかけてくるミシェルへ微笑んだ――たしかに今日は機嫌が良い。覗き込んでくる瞳の奥は爛々と光り、普段、青白い肌の色は微かに上気している。
 ギルバートが腰を落ち着かせたのを見計らって、ミシェルは喉の奥で嬉しそうに笑い声を転がし、さらに笑みを深めた……楽しそう、その理由は知っているけれど。

「今日はね!彼の……アランの誕生日なの!」
「ああ、この間お話してくれた恋人さんですよね?」
「ええそうよ!幼馴染で初恋の人でもあるの。あ、これは彼に秘密よ?」

 しぃーっと、人差し指を唇に寄せて笑う彼女は恋する乙女その者だ。「その人は僕の父親でもあるから、知ってるよ」なんて、ギルバートには言えない。ミシェルは現在『もっとも幸せだったころの記憶』を繰り返していると、医師は告げてきた。
 ギルバートの存在を忘れているミシェルへ、息子の存在も、亡くなった夫の存在も何も言わず、今はミシェルの話に合わせて、心の快復を待っている状態だ。だから、ギルバートは今日も実母の前で『看護師』を演じる。

「それはめでたいことですね。プレゼントは決まったんですか?」
「もちろん!とびっきり良い物よ、今年は万年筆をあげるの」

 「そこにあるわよ」と、指さされた棚の上には万年筆なんてどこにも無く、代わりに在ったのは桃色の歯ブラシが一本だけ……きりっと軋みを上げた心臓の痛みに、ギルバートは気づかぬふりをした――この痛みは表に出すべきものではない。

「素敵なプレゼントですね、」

 何とか絞り出せた言葉は、微かに震えを帯びていた。しかし、それはギルバートだけが意識してしまうもので、ミシェルはなにも気づかない。彼女は『彼』の話に夢中だ……更に軋みを上げ、痛む心臓の感触。そんなもの奥へ奥へ埋め込め、笑みを張り付けろ。

「そうでしょ!アランったら、物欲が本当にないの。何が欲しい?って聞いても『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』って言ったのよ!?信じられないわ!」
「……福音書第12章15節ですね。彼は聖職者なんですか?」
「ええ、そうよ。どうせならいつも使ってもらえる物がいいでしょ?そうすれば、私のことをいつでも思い出してくれるもの」

 ふふっ、と漏れた笑い声は弾んでいて明るいこの部屋に合っている。『本来』ならばここで久しぶりに見る母親の楽しげな様子に、ギルバートの心も軽くなる筈なのだが、ギルバートの心はその真逆だ。
 ミシェルが声を上げるたびに医者の『もっとも幸せだったころの記憶』という、単語が脳裏に切り刻まれ、塗りたくられる――その中に僕はいないんだね。

「……ミシェルさん、」
「?、どうしたの看護師さん?」
「実は、ちょっとしたお願いがあるんですが……」
「あら!何かしら?看護師さんと私の仲だもの、遠慮なく言ってちょうだい」

 ギルバートの言葉に、ミシェルはきょとりとした瞳を一変させ、今度はそれをキラキラと瞬かせた。鉱石のように光る瞳はアメジストを彷彿させる。彼女は、子供の様に無垢な感情を一身に纏って、ギルバートの次の言葉を待っていた……ギルバートが『看護師さんと私の仲』という単語で再び軋みを上げているのも知らずに。

「実は……貴方と同じで今日は僕の『大切な人』の誕生日でもあるんです」
「すごい偶然ね!それは看護師さんの恋人?」
「…………ええ、この先も『生涯忘れられない人』です」
「とっても素敵だわ!」

 瞬く紫の瞳には、穏やかな笑みを浮かべたままのギルバートが映っている――嗚呼、大丈夫だ。僕は笑えている。
 押し寄せる不安、孤独、重圧が少しだけ安堵感に変わった筈なのに、吸い込まれた空気は胸を締め付けるばかりだった。

「それで、お願いって何かしら?」
「その人へ僕の演奏を届けたくて――」

 足元に置いていた茶色の鞄……ヴァイオリンケースを膝に置いてギルバートは「聴いて貰えますか?」と、ミシェルへ眉を下げて微笑んだ。










 白い部屋、射し込む光、それを遮る鉄格子、静寂の向こう側から聞こえる微かな喧騒、ベッドに座る部屋の主は、ヴァイオリンを構える男性をじっと見つめる……自らのヴァイオレットの星空に映りこむ男性を、彼女はどう思っているのか。

 ギルバートが、すっと弓を引いた――彼から紡ぎ出される音は、殺風景な白の部屋を飾り付けていく。

 最初は、淡い黄色、そこから煌めくダイヤモンドを次々と降り注がせる。紺碧の細長いリボンを少しだけアクセントに加え、踊る星屑はくるりとターン……優雅なワルツみたいだ。曲の後半で、星屑はよりいっそう輝きを放ち――そして、静かにゆっくりと濃藍の中へと融け込んでいった。

 ぱちぱち、と手を叩く音が部屋の中に響き、紺は橙を帯びて白へと変わった。細く息を吐いたギルバートは「ご清聴いただきありがとうございました」と、拍手を未だに送ってくれるミシェルへ微笑んだ。

「その曲、彼も弾くの」
「……凄い偶然ですね。誕生日も同じで、曲までだなんて」

 ケースにヴァイオリンをしまいながら受け答えしているその時だった、ギルバートの頭の上に乗る微かな重みを感じたのは。その重みはゆっくりと髪の毛を一本、一本梳くようにギルバートの頭を撫でつける。ギルバートは困惑を滲ませた瞳をそのままに、深緑と紫紺をかち合わせた。柔らかく目尻を下げ、笑ってくれるこの顏をギルバートは知っている。

「上手になったわねギルバート、お父さんの『星に願いを』そっくりだったわ」
「……、ぁ……かあ、さ」

 笑みを零すこの目の前の女性は、確かに今、ギルバートの母親だ。震える声、徐々に滲んでいくこれを止めなくても良いのだ。はっ、と吐いた息は喉のつっかえを取り除いくれる……『息』が出来るってなんて素晴らしいことなんだ!

「母さんあのっ……!」
「お父さんもきっと貴方のことを誇りに……」

 気づいた時には遅かった――綺麗な紫は一瞬で黒へと変わり、光を亡くす。

 女の叫喚は、ギルバートの耳へ深く深くナイフを突き刺す。自分と同じ色の髪を振り乱し、のたうち、怒り狂うこの人は誰なんだろうか?
 『恐怖』なんてものは、ギルバートの中にもう存在していない。心に痕を残すのは『諦念』――それだけだった。

 騒ぎを聞きつけた看護師たちが部屋へと入り、女を押さえつけ針を刺す。その内に、一人の看護師がギルバートを外へ出るようにと声を掛けてきた……誘導してくれた看護師は、来院したギルバートと最初に会話を交わしたあの担当看護師だった。

「カークランドさんお怪我は!?」
「いえ、大丈夫です」

 心配そうに外傷がないかチェックしてくる看護師を、ギルバートは苦笑を浮かべつつやんわりとそれを避けた。ヴァイオリンケースを持ち直して、ギルバートは悲鳴から逃げるように玄関へと足を動かす。

「あの、カークランドさん……」
「すみません、母の気分を害してしまったみたいです。また時間を置いて来ますので、また宜しくお願いします」

 努めて優しく、でも少しバツが悪そうな笑み携えることに集中する……ギルバートは一刻も早くここから出たかった。この笑みに看護師が弱いことをギルバートは、既に把握済み。案の定、看護師は追ってくることも、声を掛けることもなくギルバートをそのまま見送ってくれた。

「――今回も『またね』って言えなかったね」

 バタリと閉められた扉。しめやかに降り注ぐ雪は、ギルバートの肩と頭をゆっくりと濡らしていく――ああ、やっぱり僕が背負わなくちゃ。

 ぴりっと痛みが走った唇は、酷く乾いていた。



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