05 夜の訪問者


 あれからひとり自室でベッドに座り、辺境伯様の行動を振り返っていた。

 よく考えれば、たしかにナタリーは間者だったのかもしれない。お父様は監視や盗聴の魔法さえかけていたらしかった。これについては、ラゼスキア様が嘘を仰っているとは思えない。お父様のことだ、これを機にサファイエ辺境伯の弱みを握ろうとでも考えていたのかもしれない。
 そして王命の関わる婚姻の契約で、辺境伯様の指定外である「わたしと親しくない侍女の同行」を進めた。

 ろくな取り調べもせず、即断で殺してしまったのはよくないかもしれないけれど──本来ならば王族まで通達が行き、お父様へ何らかの処罰がくだるほどの所業だ。それを侍女の命を奪うことひとつで済ませてくれたのだから、むしろ甘い……とまで言えるのかな。

 でも御者の男は……。
 辺境伯様はご自身の屋敷の場所が明かされるのを酷く警戒していたし、私の知らない何かがあるのかもしれない。〈魔の森〉は外交上でも重要な意味を持つ領土だ。もしかしたらこの屋敷の居場所は、国家機密に登録されているのかも。

 ──そう思うと、考え無しに否定ばかりしていたわたしは、妻として失格だろうか。そしてこんな陰謀だらけの妻を与えられた辺境伯様のことを思えば……。

 彼はただ冷血なだけではなく、色々な事情を踏まえたうえで行動していたのかもしれない。それに、結果的に監視役であるナタリーから逃れることができたし、公爵家では妹の粗相を窘め、わたしのほうを尊重し、特別な敬意を示してくれた。
 「不貞の子」「無能」と蔑まれてきたわたしにとって、こんなふうに尊重してもらった経験はほとんどない。

 せっかくご縁が結ばれたのだ。感情的になって否定するのではなく、少しずつ彼を理解して、ちゃんと支え合う夫婦になっていきたい。初心に帰らなきゃ。


 やっぱりこれまでの振る舞いを改めて謝罪しにいこう。



 マーマレードを呼び、辺境伯様にお目通り願いたいと伝えた。すると彼のほうがわたしの自室に伺うということだったので、何度か遠慮はしたけど、仕方なく食い下がることにした。
 しばらくすると、部屋にノックの音が聞こえた。扉を開けると、背の高い彼がひやりとわたしを見下ろした。

 促されるようにまたソファへ座り、彼はその隣へ、少し距離を開けて座った。

「話とは」

 辺境伯様の行動は不可解な点が多いし、貴族にしては口調がお上品でないこともある。だけれども、仕草や挙動は一級品のそれで、こうして相対すると、威風堂々として冷徹なさまに少し萎縮してしまう。

「あの……先ほどはっ。たいへん無礼な振る舞いを、申し訳ございませんでしたっ!」

 彼はわたしが続きを言うのを待っている。

「婚礼支度品が古着ばかりだったことも……結果的に辺境伯様との婚姻の格を落とすような振る舞いでした。これは王族の名誉にも関わる婚姻であるというのに、わたくしの落ち度です。監視魔法やナタリーの同行におきましても、不徳の致すところでございます。サファイエ辺境伯のやり方を知らぬまま、わたくしの偏見で辺境伯様を侮辱するような言葉を述べたことも、本当に申し訳ございませんでした。ですがどうか、これで王族との関係を断ち切るようなことは……」

 考えれば考えるほど、公爵家の失態がいくつも溢れてくる。お父様のせいにするのは簡単だけど、「応えてもらえない」と、諦めてしまったのはわたしだ。そのうえ、お父様の命に従って彼を騙そうとした。未来の夫に、またこの王族の命で行われた大事な婚姻に、わたしは──。
 辺境伯様は薄い唇を開いた。

「まず、その堅苦しい呼び方をやめろ」
「……え?」
「辺境伯辺境伯と何度も爵位を呼ぶな」
「……では。閣下……」

 彼は呆れたように目を細める。

「さらに悪くなったな」
「あの、では……サファイエ公と……」
「ラゼスキアでいい」

 淡白に流れた言葉に、目を瞬いた。

「えっ、ですが……馴染みのない者に呼ばれたくないと仰っておりましたので……」

 シャーロットが早々に窘められていた。

「あれは妹だろう。お前は妻になるんだから、ラゼスキアでいい」

 さっきはただの貢物と仰っていたのに、彼の真意が全然読めない。

「かしこまりました。ラゼスキア様とお呼びいたします……」
「して、先の謝罪を受け入れる気はない」
「ですが!」
「王命の名誉、王族との関係、などと言っていたが、セラエル、お前は誰の側についている?」

 質問されて初めて、辺境伯様ご本人に向けたものではなく、半分は国の安寧のために行った謝罪になってしまっていると気づいた。

「あの、非礼を……」
「責めているわけじゃない」

 落ちついた声がわたしを遮った。

「お前の意思が見えない。さっきは父親や侍女を庇って、箱にかけた魔法を隠したな? だが今度は、王族の命である大切な婚姻だから、王族との関係が切れてしまっては嫌だからと謝罪しに来た」

 顔が熱くなった。
 ……指摘されたとおりだ。
 そして、芋づる式に自分の行動が恥ずかしく思えてしまった。その場しのぎの行動で、とにかく今一番最善になればいいと……誰かに咎められないように、せめて迷惑をかけないようにと……その行動がすべて裏目に出ている。
 わたしの気持ち≠ヘ彼には伝えられてない。

「お前はどんな存在になりたい。王族による外交の駒でいたいのか? それともダスメリカ公爵家の娘でいたい? それとも──」

 見つめられている青い視線から逃げるように、目を伏せた。

「お前が王命でここに来たのは知っている。国からその説明を受けたであろうことも察せられる。だが今後、お前はどうするつもりだ?」

 ……今後。

「あくまで国の安寧のための婚姻だというのなら、それはそれで構わない。割り切って国のために働くのも間違っていない。だが、──まだ俺たちは会ったばかりで、特にお前は、見知らぬ辺境伯の元へ嫁がされて大きな不安を抱えているだろう。魔族である俺に不信感があるのもわかる。だが、それでも普通の結婚生活を求めていきたいか? つまり……わかりやすく言えば、今後俺と親しくなりたいと思っている?」

 どこか掬い上げるような彼の言葉に、自然に唇が開いていた。

「国が滅んでしまうのは嫌です。いっぱい人を殺めるラゼスキア様も、見たくありません。──ですが、……ラゼスキア様とお近づきになりたいです」

 ──幸せな結婚生活が、したいです。

 思わず漏れだした一粒の涙を、彼が拭った。

「今の発言は取り消すなよ?」
「は。はい。もちろんです」
「では、話は以上だ」

 そう淡白に言い放つと、彼は席を立ってしまった。

「ま、待ってください……では先程の謝罪は……」
「受け入れる気はない。そう言っただろ」
「ラゼスキア様!」

 呼びかけても冷たく扉が閉まる音が聞こえただけで、立ち止まってはくれなかった。

 わけのわからない涙が滲んでいく。

 質問されたことに返したのに、結局彼が何を考えているのか──それは教えてくれなかった。

 貢物と言ったそばで、妻なのだからファーストネームで呼べと言う。親しくなりたいとお話したのに、謝罪は受け付けないと突っぱねられてしまった。彼の行動はやっぱり淡白でつれないままで。

 ……だけど。
 初めて、自分の意思をはっきり口にできた気がした。

 誰かの言葉じゃなくて、誰かのためじゃなく、「わたしがなりたいもの」「わたしがほしいもの」に目をかけてくださった。

 ラゼスキア様がわたしの言葉を引き出してくださった理由は、今もわからないままだ。でも、何かが救われて、体のどこかが少し白く洗われていくような心地がした。


 ✶


 マーマレードに夕餉について尋ねると、「摂るつもりはない」と返ってきたと伝えられた。やっぱり嫌われてしまっているのかな。ファーストネームで呼べと言ったのは、妻と夫という体面を保つために提案された言葉だったのかもしれない。

 公爵家で食事を摂るときは、離宮でひとり、乾いたパンと冷めたスープを飲むだけだった。でも辺境伯家では食べきれないほどの食事が並び、どれもとても美味しかった。

「ごめんなさい……残してしまって」
「いいんですよ。まずはセラエル様のお口に合うものを知りたかっただけですから」
「どれもとても美味しかったです。味付けも素晴らしいです」
「お褒めに預かり光栄です」

 マーマレードが微笑み、軽く会釈をする。言葉に違和感を覚え、ふと尋ねた。

「マーマレードが食事を作ったの?」
「そうでございます」
「あの……料理人は、」
「この屋敷には私以外の使用人はおりません。こうして振る舞うのは初めてなので、お喜びいただけて安心致しました」
「え? 今までラゼスキア様のお食事を作っていらっしゃったのでは?」
「いえ。僕はセラエル様が屋敷に来ると決まったあとに雇われたのです。不慣れな言葉遣いなのもそのせいでして……ごめんなさい」

 このお屋敷には彼女しか使用人がいなくて……しかもそれも、わたしのために寄越されたものだったの? これまでラゼスキア様はどうやって生活されていたの……!?

「旦那様はひとりでなんでもできますから、使用人はいらないそうですよ」
「……そうだとしても……。仮にもお貴族様、ですし……」



 それから彼女は入浴の支度をしてくれ、温かいバスタブに浸かったあとは素敵な香りのする石鹸で体を洗ってくれた。それも魔族にしては、いや、初めての仕事にしては不手際がなく驚くばかりだ。
 寝衣は家から持ってきたものを使おうとしたら、新しい服を渡された。柔らかな手触りで、淡いブルーの絹が使われている。胸元にあしらいと小粒のダイヤが光っていて、とてもかわいらしい。

「部屋着もあります!」
「まあ!」

 見せてくれたのは、なんだかとてもモコモコした綿毛の塊のような服だった。

「……これは?」
「柔らかくて着心地がいいと思ったんです。寒い日にもお役立ちです」

 でも……この、珍妙な服は見たことがない。淑女が着て大丈夫なもの? ウサギとか猫とか……そういう動物にでも見立てているような服だ。

「あ、あの。ありがとう」

 魔族のあいだでは普通なのかもしれない……。一応、明日袖を通してみよう。
 濡れた髪を乾かす前に、マーマレードは声をかけた。

「髪を乾かすのは、旦那様がやるそうです」
「……え!?」
「なんでも、令嬢の髪は大切だから僕には任せられないと。入浴時に体を清めることさえ旦那様がやると言ってきたので、僕が止めました。呼んできますね」

 彼女はポケットから銀のベルを取りだした。それを何度か振る。音は鳴らない。……音が鳴らないベルも気になるけど、家の主人をベルで呼び出すの? 家令が?

「マーマレード! 城の主人を使用人のように呼んではいけません……! せめてお部屋まで行ってください」
「いえ。旦那様がこのベルをくださったのです」
「え……!」

 どうしよう。ついていけない。
 それに濡れた髪のままで、しかも寝衣でラゼスキア様に会うなど……! 
 ──も、もしかしてそのまま初夜に、ということ!?
 待って、心の準備も物理的な準備もできてない!

「マーマレード、待って。わたしまだ服を着ていないわ。初夜のためのネグリジェが用意してあるから、そちらに着替えなくては」

 実は、初夜の準備はシャーロットが手伝ってくれていた。
 これについては彼女に感謝するばかりだ。シャーロットは完全に荒々しく無骨な老爺辺境伯がくると思い込んでいたので(それはわたしもそうなのだけど)、嬉々として初夜の仕度品を揃えてくれたのだ。

『お年を召した方はどんな下着が好みなのでしょうね?』

『もしかして、途中で終わってしまうのでは……!? お姉様の初体験、忘れられない夜になりますわね!』

『よぼよぼの体に抱かれるなど……私には耐えられませんわっ。お姉様、それでも嫁入りを決めたのですから、素晴らしいです!』

『インキュバスでお爺様なんですよね? もしかしてたくさん御奉仕させられてしまうのかしら……。嫌ですわ……。男性の鼻伸ばした顔というのは、見ていられませんものね。それがお年を召した方となれば、もう……っっ!』

『あ、こういった香油も使うといいですわよ。きっとお爺様の体じゃ、お姉様の体が反応しないと思いますから! ……あれ? ですが、もしかしてお姉様はそういった趣味がおありで……!?』

『ネグリジェ、これはいかがでしょうか? 私もお爺様の趣味はよくわからないのですけれど……きっとお姉様に似合いますわ!』

 ──と、この調子で皮肉を飛ばしまくっていた。
 これまでで一番楽しそうにお喋りしてくれたくらいだ。逆によくそこまで嫌味が出てくるものだと、一周まわってわたしも楽しくなってきたくらいだ。

 ともかくそのおかげで、初夜の支度品だけはばっちりだった。わたしがちゃんと気に入ったネグリジェまで用意してくれたんだから、彼女は本当に楽しみにしていたんだろう。今更、あんなに格好よくて若々しい辺境伯様が来たこと、シャーロットに申し訳なくなってきたな……。

 ただともかく今は準備できてない。もうベルは鳴らしてしまったから、すぐに彼が来てしまう。

「大丈夫です、気にしなくていいですよ」
「気にするわ! ダメよ!」

 でも扉の前まで来てしまえば、入るなと拒絶するのも失礼だ。のほほんとしたままのマーマレードを急かすうちに、ノックが聞こえた。

「入っていいか?」
「ダメです!」

 咄嗟に答えてしまった。彼の一段低くなった声が聞こえる。

「呼ばれたから来たんだが?」
「ふ、服を着ておりません!」
「マーマレード。裸の状態で俺を呼んだのか?」
「違います! 着ています! 入って大丈夫ですよ」

 わたしの意見は!?

 ついに彼が入ってきてしまう。もう夜分遅いのに、ラゼスキア様の服は正装と見紛うほどにめかしこんでいた。もしかしてこれからどこかパーティに……?

「あ、あの。このような姿で申し訳ありません」
「気にしてない」
「わたしが気にするのです……! 今後はその、夜に訪れるときは事前にお知らせくださいませ!」
「髪は毎日洗うだろう? つまり毎日訪れる。次からは心の準備をしておけ」

 毎日乾かすつもりなの!?

「早く乾かさないと風邪をひく。座れ」

 わかんない、ついていけないよう……。
 促されるままにソファに腰を落とすと、ラゼスキア様は隣に座り、わたしの髪を触り始めた。一緒に用意してきたらしいオイルを手に撫で付け、それを髪に付けはじめた。

「あの、次からはマーマレードにやってもらえれば大丈夫ですので……」
「お前の髪は随分傷んでいる。髪は女にとっては大切だろう、マーマレードに任せたくない」
「大丈夫です。わたしはそんなに髪を重要視しておりません」

 我ながらなんという返し……!?

「そんなに俺に触られるのが嫌か?」
「いえ……そうではなく……」
「お近づきになりたいんだろ?」

 意地悪な微笑が声にのせられている。
 ……これもその一環なの? だとしたら、余計に意識しちゃうよ。

 ラゼスキア様はオイルをつけ終わると、魔法で温風を出し髪を乾かしはじめた。いつかに侍女にやってもらった魔法より、ずっと風が柔らかくて気持ちいい。

「熱すぎないか?」
「いえ。ちょうどいいです」

 細い指が何度も髪のあいだを通り、丁寧に解されていく。あまりの気持ちよさにそのまま寝落ちてしまいそうなり、体が傾いた。
 体を支える冷たい掌の感覚が服越しに伝わり、慌てて身を起こした。

「も、申し訳ございません!」
「ああ」

 髪が乾いてくるにつれて、指先が何度か頭皮を擦るのにどきどきしてきた。ラゼスキア様の指は冷たいし、余計に体が粟立ってしまう。

「体は十分に清めてもらったか?」
「……はい」
「結構」
「……あの。使用人がひとりだと伺ったのですが……」
「そうだ」

 こんなふうに普通に話しかけてくださるのは、もうこれまでの粗相を咎める気はないということなの……?

「えと……マーマレードは料理もしていると聞きました。彼女が手を放せないときは、どうすればよいのですか?」
「あいつに銀のベルをもらっただろ? それで俺を呼べ」

 本当に言ってるのこのお方!?

「城の主人をベルで呼ぶなど聞いたことがございません! いくら妻の立場でも、そんなふうに気軽にラゼスキア様をお呼びできません!」
「お呼びしていい。俺は気にしない」

 ラゼスキア様、たまに自分に敬語を使うの、ちょっとお茶目だ。っといけない、そんなのにときめいてる場合じゃない。

「そういう問題ではありませんのよ」
「そも、妻の世話を他人にやらせるほうがおかしいだろう。食事に毒を盛られたり、使用人に間者がいたり、現にお前に嫌がらせをする侍女も来ていたじゃないか」
「……気づいていらっしゃったのですか」
「そりゃあ」

 するすると前に落ちてきた髪を少し触った。質のいいオイルや洗髪のおかげか、見違えるほど手触りがよくなっている。くすんでいた金髪にも艶が戻ってきている。

「ラゼスキア様はお仕事があるでしょう?」
「俺の仕事の管理遂行能力を疑うと?」
「ち、違います! じゃあ護衛はどうしているのですか? 門番もいないようでしたが、ラゼスキア様のお部屋の前にも、護衛はいないのでしょうか?」
「人間の兵士などいくら雇っても足しにならん。魔族は育てるのに時間がかかる。お前の部屋にも、部外者が入らないよう魔法は施してある。破壊されれば俺が気づく。それにここは〈魔の森〉だからな、魔物は護衛の代わりにもなる」

 ……たしかに、魔物を倒しながらこの城まで辿り着くのは大変そうだ。

「ラゼスキア様は、護衛兼お世話係なのですか?」

 彼は低く喉を鳴らし、軽く笑った。

「ああ。ラゼスキア様は、お前の夫だからな」

 …………。
 夫だから護衛もやるし世話もやるって言われてるみたいだ。なんか恥ずかしい! なんだかずるい!

「では、せめてお部屋まで呼びに参ります。ベルは使えません」
「ベルで呼んだほうが効率的だ」
「効率性の問題ではありませんよ……」
「部屋まで来たら無視する……と言いたいところだが、それでいいと言いそうだな。じゃあ部屋まで呼びにきたら、一日中すべての世話を俺がすることとしよう」
「……え、え!?」
「朝の身支度も料理も配膳も、入浴も下着の準備も、全部俺がやる」

 ……な、な。酷い。なんという脅し方なの!?

「では、わたしはマーマレードがいないときはひとりで解決します。ラゼスキア様のお手を煩わせる必要はございませんもの。今回も、身支度がひとりでできる者を嫁に、というお話だったのでしょう? その条件のとおり、わたしはひとりでなんでもできますので!」
「なかなか手強いやつだな」

 乾かし終わったのか、体を前に向かされる。彫刻のように端正なお顔が思ったよりも近くに現れて、思わず身を引く。

「では、お前があえて俺を呼ばずにいると気づいたら、 公爵家に告げ口でもしてこよう。セラエルが妻としての仕事を全うしないと」
「そ、それはなしですよ……ラゼスキア様……」
「お前が卑怯な手に出るなら、俺もそうするまでだ」

 彼は悪戯げに目を細め、そのあと淡白に落とした。

「終いだ。もう寝ろ」

 瞳によく似合うサファイアのピアスが揺れる。高価な宝飾品も、あちこちまだ身を飾っているままだ。ラゼスキア様の後ろ姿へ、声を投げる。

「これからどこか出かけるのですか?」
「いや? いつもこのような身なりだ」
「あの、このあとは……」
「このあと? 何が?」

 彼は胡乱に顔を顰めたあと、軽く笑った。

「抱くつもりはない。興味ない」

 そうして、パタンと扉が閉まった。

 興味ない=B
 彼は徹底的に合理主義なようだ。こうして髪を梳かしてくれたのも、いつかのお披露目のときのため、辺境伯家の者として恥をかかないように自ら整えておきたいというだけだったのかもしれない。この家に相応しい淑女として、効率的に……なんの感情もなく、わたしを扱っているだけなんだわ。