幸せだと笑うから

「ただいま」
「おかえり、父さん。疲れてるところ悪いんだけど、少し話があるの」
「なんだ、孫でも産まれるのか・・・っ、要くん」
「お邪魔しています」

要がいることにやっと気付いたのか、父は見たことないくらい間抜けな顔で私達を見た。今さら改まって報告なんて恥ずかしいけれど、要がどうしてもと言うから仕方ない。いつも通りのニヤけ顔で冷やかしてくれればいいのに、父さんが泣きそうな顔をするから何も言えなくなった。そんな私の肩を抱いて、要が優しく笑う。リビングの机を挟んで椅子に座ると、私達が口を開く前に父さんが話し出した。

「こんな日を迎えるとしたら50年先だと思ってた」
「いや、なんでよ!?」
「要くん・・・こいつは滅多なことでは悩まない。頑丈で女らしい所もない。一度は君を振るような娘だ」

絶妙なコントロールで放たれた言葉のナイフが、グサグサと心に刺さる。おかしい。私は今日、結婚の報告をしに来たはずだ。要も要で、否定もせずに黙って聞いている。確かに要以外のことでは深く悩まないし、女子力も光より劣っている。隣の男を振ったのも事実だ。しかし、仮にもこれから一生を共にする女がここまで言われているのだから反論してほしい。

「それでも一度始めたことを投げ出すことはしない。明るくて優しい子だよ。君たち兄弟にとっては姉であり、幼馴染であり、そして妹でもある。何より、俺にとってはかけがえのない娘だ」
「…よく知っています」

驚いて声も出ない。愛されていることは知っていた。小さな頃から厳しくはあったけれど、決して間違ったことは言わない。一番身近にいるお手本だった。喧嘩をしていても、普通に晩御飯のリクエストを訊いてくるような父親で、反抗期なんて力づくで終わらされた。煩わしく思うことすら許さない、破天荒でどこまでも父親を貫く人。そういう人だからだろうか、この人の苦手な所はあっても、嫌いな所は一つもない。

「俺には、こいつがどんな失態を犯そうと、受け止めて寄り添うだけの覚悟がある。父親だからな、理由なんてそれだけだよ。だが、君は名前の父親ではない。君の父さんと俺が親友同士でなかったら、こいつと出会い恋に落ちることもなかっただろう。偶然交わった人生だ。君はそれに自分の人生を捧げる覚悟はできているか?」
「え……ちょっと」

まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。要も驚いてるに違いない。甘かった。要のことをよく知っているからこそ、私を大事に思っているからこそ、見極めようとしているんだ。狼狽える私の肩を要が掴む。釣られて顔を見れば、少しも動揺なんかしていなくて上げかけた腰を椅子に戻した。私を安心させるように見つめる瞳に、心が凪いでいく。

「数々の偶然の中で、俺は名前の手を取りました。彼女とずっと一緒に生きていきたいと思ったからです。そして名前もまた、俺を選んでくれました。確かに和眞さんがおっしゃったように、出会ったのは偶然でしょう。ですが、俺が彼女を愛し、彼女が俺の愛を受け入れてくれたことは決して偶然などではなく、奇跡に近いのかもしれません」

それは流石に言い過ぎでは、とは言えなかった。少なくとも私には数多くの出会いはなかったし、偶然どころか必然だと思う。でも要はどうだろう。絵麻ちゃんや綺麗な檀家さん、数え切れないほどの出会いがあったはずだ。その中で私の手を取ってくれたことは、確かに奇跡なのかもしれない。

「抱いた愛を受け入れてもらえること自体、とても稀有なことです。"偶然なのに"ではなく、逆です。その奇跡を起こしてくれた名前だからこそ、自分の人生を捧げる覚悟ができました。その覚悟がなければ俺も、そして彼女も、幸せにはなれないですから」

胸の奥底から、形容し難い感情が湧き上がってくる。泣きそうになって、必死に瞬きを堪えた。一度目を閉じたら涙が溢れてきそうだ。要が気遣うように手を重ねてくる。ふっと笑う気配がして顔を上げたら、父さんはさっきの雰囲気が嘘みたいに微笑んでいた。

「陽一に報告しないといけないな。俺の娘は、お前の娘になったってな」
「っ、そう、ですね…」

その名前を聞いたのは、とても久しぶりな気がした。要はもちろん、兄弟達が父さんと呼ぶその人は、朝日奈陽一。沢山の息子達の成長を見届けることなく逝ってしまった。あの人のお墓の前でだけは、要は息子の顔になる。それをあんまり見られたくないだろうと思っていたから、一緒にお墓参りに行ったのは一回きりだ。

「今度三人で墓参りに行こうか。最近会いに行ってないから、俺の老けた顔を見たら驚くぞ」
「和眞さんは変わらずお若いですよ」
「ちょっと、調子に乗るから煽てないでよ!」

−−−−−

美和さんと麟太郎さんには後で改めて挨拶に行くことになり、兄弟達には私の口から伝えることにした。要も、せめて兄さん達には揃って言いたかったみたいだけど、仕事が忙しいらしいから仕方ない。それに、要のことでは確実に私の方が皆にお世話になっている。

本当は1人ずつ伝えたいけれど、何しろ13人もいるから流石にそれは難しい。それに、まだ伝えられない兄弟もいる。絵麻ちゃんを取り巻く輪にいる兄弟に、結婚することになりました、なんて言えるわけない。そのことは要も了承してくれた。でも誰がその渦中にいて、誰がそうでないのか、私には判断がつかない。

不本意ながら、ものすごく不本意ながら、光に電話をかける。あの男は真剣にふざけているから、あのオッズ表の信憑性も高いに違いない。最新の表で勝率がゼロではない番号−兄弟−には、まだ何も言わないでおきたい。少なくとも、この衝動がひとつの結末を迎えるまでは。

「Hi、名前。万事解決ってところかしら」
「お陰様で。ねえ、訊きたいことがあるんだけど、タダで教えてくれる?」
「いいわよ」

間髪入れずにOKの返答があり、ずっこけそうになった。光が対価なしに頼み事を聞いてくれるなんて、何か裏がありそうで逆に怖い。驚きで数秒沈黙していると、喉を鳴らして笑う声が聞こえた。

「珍しい要の姿が見られたから、そのお礼。それで、何を訊きたいのかしら」
「実物を見せてくれなくていいから、現時点で勝率がゼロの番号を教えてほしい」
「・・・はーん、なるほど。死に物狂いで闘ってる奴らに幸せな報告はできないってことね。お優しいこと。いいわ、一度しか言わないから聞き逃すんじゃないわよ。1番、2番、3番、10番、12番、13番、ね」

いや4番もゼロでしょ、と思ったが口にはしない。予想外だったのは12番−風斗−が退場していたこと。全然会ってないから知らなかった。正直な話、風斗に伝えるべきか迷う。芸能人だからというのもあるけれど、あの子は良い意味で遠いのだ。伝えれば「よかったね」くらいは言ってくれる気がするが、私と要が結婚することに風斗は然して関心がないように思う。大事なことだから伝えたいというのは私のエゴだし、忙しいあの子をわざわざ呼び出す価値はないだろう。

「ちょっと、なんとか言いなさいよ」
「ああ、ごめん。教えてくれてありがとね」

通話を切ってから息を吐いた。教えられた番号は概ね予想通りたけど、その中で直接伝えるのは3人だけ。兄さん達と、それから祈織だ。要は当事者だから必要ない。風斗には『今度会ったら伝えたいことがある』とだけメールを送ることにした。利口なあの子のことだから、意味はすぐに分かるはずだ。そして弥はたぶん、喜んでくれるだろう。でも幼さ故の無邪気さで、椿達に意図せず伝わることは避けたいから、兄さん達に相談することに。

「よし、善は急げだ」

まずは、祈織。あの子にはかなり迷惑をかけてしまった。最近はモデルの仕事に加え、テレビでもよく見かける。世間的には順調に見えるだろうが、姉としては心配は尽きない。会う時間を作るのすら難しいかもしれないけれど、どうしても顔を見て言いたかった。プロポーズされた次の日に電話をかけると、すぐに繋がって驚く。

「もしもし、祈織?」
「声を聞けば分かるよ、どんな顔をしているのかも」
「うん…本当にありがとう。ねえ、少しだけでも会えない?忙しいのは分かってるんだけど、祈織には顔を見て言いたいから」

正直にそう言うと、暫しの沈黙。祈織は頭がいいから会話を中断するのは珍しい。迷っているのかもしれない。確かに会いたいというのは私の都合だ。祈織も同じ様に思っているとは限らない。

「もう暫く経ってからにするよ」
「・・・理由を、訊いてもいい?」
「会えば必ず、姉さんを幸せにできるのは要兄さんだけだって、思い知らされるから。それが少しだけ、ほんの少しだけ僕は悔しいんだ」

いつも淡々と話す弟の声が、僅かに震えている。私が考えているよりも、祈織は私のことを大事に思ってくれているらしい。不謹慎にも嬉しいと感じてしまう。素直に会いたくないと言わない所も優しい。

「分かった。じゃあ今度会ったときこそ私が奢るね」
「うん、楽しみにしているよ−−−姉さん」
「ん?」
「ずっと幸せに、どうか笑っていてね」

息が詰まる。祈織は目の前にはいないのに、澄んだ瞳で儚げに笑っている姿が浮かんできた。電話を握る手に力が入る。自惚れなんかじゃない−−−あの子は、全身全霊で私の幸せを祈ってくれている。「泣くんじゃない、笑え」と心が叫んだ。

「もちろんっ、約束する。でも祈織に会えるなら、たまには泣いてもいいかな」
「理由なんかなくても会いに行くよ。そうだな…姉さんが望むなら、要兄さんも一緒でいい。僕はどんな姉さんも好きだけど、あの人の隣にいるときが姉さんは一番綺麗で素敵だからね」

何も言えないでいるうちに「またね」の三文字を残して、通話が終わる。悲しくなんてないのに頬を涙が伝った。守ってあげなくちゃ−−−先に生まれた人間として、そうあるべきだと思っていたけれど、違った。見守られ、支えられ、巣立っていくのは私の方だ。

「ありがとう、祈織」

貴方はずっと、大切で愛しい私の弟。貴方がそうしてくれるように、私も貴方の幸せを祈っている。その道を少しでも照らせるのなら、下手くそな私の笑顔もまだまだ捨てた物じゃない。

−−−−−

「夜遅くにごめんね、ふたりとも」
「構いませんよ。まあ、内容は大体予想できます」
「そうだね、名前の顔を見れば悪い話じゃないことは分かるよ」

ある夜、朝日奈家のリビング。机を挟んで私と向かい合うのは、雅臣兄さんと右京兄さん。隣に要の姿はないけれど、不安は一切ない。目を閉じて左手にある指輪をスッと撫でれば、瞼の裏に優しい顔が浮かぶ。顔を上げて、大きく息を吸う。

「名実共に、私と家族になってください!」
「「・・・・は?」」

はっきりと言ったつもりなのに、聞こえてなかったのだろうか。まあ確かに最初は、定型的な挨拶をしようと思った。でも、ふたりには私達の関係は周知の事実だし、要と結婚して変わることと言えば法律上も皆と家族になるということだ。

「…名前はいつも予想の斜め上だよね」
「全くです、思わず絶句してしまいましたよ」
「じゃあ、お堅い挨拶バージョンにする?」
「結構です」

眼鏡を取って眉間を押さえながら右京兄さんが言う。礼儀作法には人一倍厳しいから、怒っているのかもしれない。でもそれならピリピリとした空気が漂うはずだけど、それは感じない。

「確かに要と一緒になったからといって、何かが変わるわけじゃない。要は僕らの弟だし、名前も僕らの妹だ。だよね、右京」
「ええ。貴方が要の手綱を握ってくれるなら、私達の肩の荷も少しは軽くなります」
「俺より世話の焼ける弟は沢山いると思うんだけど」

背後から聞こえた声に驚く。だって今日はお寺の用事で忙しいって言っていたのに。私が振り向くよりも早く、首に腕が回される。すぐ横にその気配を感じて、自然と笑みが零れた。

「身を固めて、少しは弟達の良い見本になってくれることを祈ります」
「京兄は相変わらず厳しいな」
「それで、ふたりとも。皆にはいつ話すの?」

雅臣兄さんにそう尋ねられて、隣に腰を下ろした要と目を合わせる。小さく頷かれるのを合図に、私達の意思を示した。あの衝突が結末を迎えるまでは、全員には伝えないことを。

「そうなると、弥にもまだ言わない方がいいね」
「やっぱりそうだよね、分かった。あと、光と風斗には伝えた。それから・・・祈織にも」

要の手が僅かに動くのが見える。私の声が震えていないのを感じたからか、それも一瞬だった。兄さん達も安心したように笑う。祈織はしっかりしているけれどやっぱり弟だから、心配なんだろう。あの子の笑顔を思い出しながら笑い返すと、雅臣兄さんが口を開く。

「要、名前……本当におめでとう」
「感慨深いものですね。要を頼みますよ」
「ありがとう。それと、これからもよろしくね」
「これで京兄の前でイチャイチャしてもOKかな」

私の肩を抱く腕を、今日くらいは振り払わなくてもいいか。身を任せて擦り寄ると、ふっと笑う気配がして優しい手が髪を撫でた。

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とヒロインの関係が好き