結末はすぐそこに

季節は夏真っ盛りだ。頸を汗が伝っていく。朝日奈家は毎年恒例の旅行に島へ行っている。と言ってもメンバーは少なく、雅臣兄さんと侑介、椿と梓に絵麻ちゃんの5人らしい。つまりは半分以下だ。今頃は楽しい時間を過ごしているだろう。

そして私は今、朝日奈邸に来ている。冬であれば運動のために階段を上るのだけど、この暑さでは自殺行為だ。今日は土曜日で、用があるのは要ではなく弥なのだが、理由は数日前に遡る−−−結婚の報告をしに行ったときのこと。雅臣兄さんの表情が心なしか暗いのを指摘したら、眉を下げて言われたのだ。

────えっと、実は弥に『嫌いだ』って言われちゃってさ……思ったよりも堪えてるみたいだ。せっかく明るい話をしに来てくれたのに、ごめんね

聞けば、弥がそんなことを言ったのは"兄さんが絵麻ちゃんと自分を引き離そうとしたから"らしい。弥も幼いなりに本気なのだろう。確かにまだ小さいからというのは諦める理由にはならない。でもやっぱり兄さんが手放しで応援できない気持ちも分かる。

「うーん、私が口を出すのはお節介かもしれない」

ひとり呟いてみたけれど、もう弥の部屋の前だ。まあ伝えることは事前に決めてきたし、それ以外は余計なことを言うなと自分に釘を刺してからチャイムを押した。トテトテと足音が聞こえて、扉が開く。

「名前ちゃん!!」
「おはよう、弥。あのね、今日は勉強じゃなくて話したいことがあって来たの。少し時間をくれる?」
「お話?うん、分かった!どうぞ」

ニパッと笑って部屋に入れてくれる。いつも思うけど椿の部屋よりよっぽど綺麗。頭もいいし、成長したら要以上のモテ男になりそうだ。ベッドに座った弥の横に、私も腰掛ける。座高もあまり変わらないくらい背が伸びた。

「ねえ、弥。雅臣兄さんに嫌いだって、言ったの?」
「…まーくん、名前ちゃんに告げ口したんだ」
「違うよ、私が訊いて、兄さんは答えただけ。それに私は、弥を叱りに来たんじゃないよ」

どうして嫌いだなんて言うのと、怒られると思ったのだろう。目をぱちくりさせて弥はこちらを見返した。私は少し、この目が苦手だ。貪欲に純粋に知りたいと訴えかけてくる。どんな疑問に対しても完璧な答えを返せるほど立派な人間じゃない。ずっと弥と一緒にいる雅臣兄さんはやっぱり凄い。

「お姉ちゃんのこと、弥が本当に大好きだって分かるよ。それは悪いことじゃない。ただね…雅臣兄さんは弥の為にならないことは絶対に言わないって知っててほしいの。確かに、聞きたくないことを言われたりするかもしれないし、それに必ず従わなくちゃいけないとは私も思わない。弥の人生だからね。もしも弥が本当に心から兄さんが嫌いならいい。でも、違うでしょう?一度声に出した言葉はね、消えないの。それに、大好きな人と明日もずっと一緒にいられるとは限らない。最後に伝えた言葉が『嫌い』だって、すごく悲しいことだから・・・弥?」

はっと隣を見れば、目に涙を溜めて唇を噛み締めている。久しぶりに見る泣き顔に、私が戸惑ってしまう。駄々をこねたりしなくなったし、ミミレンジャーごっこも卒業した。誰に教えられるでもなく、背伸びをするようになって、少しだけ早く走り過ぎたみたいだ。最近は控えていたけれど、そっと手を伸ばして頭を撫でる。ぽろぽろと大きな雫が顎の先から落ちていく。

「言わなくちゃいけないこと、何だか分かるよね」
「うん、分かるよ。僕、ちゃんと言える」
「それでこそ私の自慢の生徒」

ギュッと抱き締めると、背中に腕が回る。いつの間にか抱き締められる側になちゃったな。わしゃわしゃと髪を撫でると、天使はまた笑った。

−−−−−

大きな音を立てて、携帯が床に落ちた。リビングでワインを飲みながらテレビ鑑賞をしていた父さんが、私の方を見て口を開きかける。たぶん、「どうした?」と言おうとしたんだろう。でもスッと目を細めて、また視線をテレビへと戻す。ザーっと蛇口から流れ続ける水の音に紛れ込ませるように息を吐いた。ゆっくりと携帯を拾い上げる。既に暗くなっていた画面をもう一度点灯すると、光から届いたメール文が表示される。ディスプレイには簡潔にひとつの結果が記されていた。

────5番、6番 同時に退場

覚悟はしていた。当事者ではない私でさえ、数十秒間放心するほどなのに、本人達の心境は幾ばくか。弥と話してから1週間も経っていない。あの旅行で何かあったのだろう。いや、"何か"は分かりきっている。こんなに苦しいのは、椿と梓ふたりがどれだけ本気だったかを知っているからだろうか。それとも同情?そもそもどうして光は知っているのだろう。絵麻ちゃんがペラペラ話すとは思えないし、まさかとは思うけど…いや、絶対にそうだ。光も付いて行ったに違いない。本当に心底、神経を疑うというか、ある意味で憧憬の念すら抱く。

9月に入って、少し過ごしやすくなった頃。仕事で忙しくしていた要から電話があった。麟太郎さんが日本に帰って来るらしく、この機会に挨拶しに行こうとのこと。美和さんもいる日を教えてもらい、夫婦が暮らしている麻布十番のマンションに出向くことにした。時刻は13時。当日、私は仕事を休んだけれど、要は午前中に仕事があるから現地集合になっている。吉祥寺から30分ほど電車に揺られて麻布十番の駅に着く。適当に昼食を済ませてから、目的地への道を何も考えずに歩いた。

「あ・・・名前姉さん」
「っ、琉生!」

前方から歩いてくるのは、久しぶりに見る琉生の姿。そして、その隣には絵麻ちゃんもいる。咄嗟に左手をポケットに突っ込み、薬指にあった指輪を外す。今日は兄弟達に会う予定はなかったから油断していた。落とさないように注意を払いつつ、自然な動作で鞄の内ポケットに入れた。

「ふたりで珍しいね。あ、琉生はお帰りだね」
「うん、ただいま。姉さんは・・・お出かけ?」
「そんなところ」

フランスから帰って来たことは聞いていたけれど、会うのは帰国後初だ。いつも通りハグをして頬にキスをした。今度、ご飯でも食べに行って感想を聞かせてもらおう。それにしても、光の観察眼を疑うわけじゃないけれど、琉生が彼女を女性として意識しているようには見えない。

「琉生達はどこか行ってたの?」
「あ、えっと……ショッピングに」

ふたりには結婚のことを伝えていないから、美和さんの所へ行くとは言えない。でもこんな場所で会ったということは、絵麻ちゃんは兎も角、琉生は勘づくだろうな。でも、嘘をついたのは私だけではないらしい。絶対ショッピングじゃないと思ったけれど、表面上は言葉通り受け取って、笑顔で別れた。このままでは約束の時間に遅れかねない。

「まあまあ!ちょっと会わないうちに綺麗になって…要ったら、なんて果報者なのかしら」
「あの、美和さん…私まだ何も言ってないです」

部屋に通されて、開口一番にそう言われる。麟太郎さんも苦笑いだ。要はまだ来ていないみたいだし、訊くなら今か。いい香りのする紅茶を少し飲んでから、口を開く。

「そういえば…ここに来る途中で絵麻ちゃんと琉生に会ったんですけど、こちらに来ていたんですか?」

ふたりは困惑したように目を合わせた。それだけで、答えを貰った気がする。間違いなく、絵麻ちゃんは今日ここに来たのだろう。中々会えない父親を訪ねてきただけなら隠す必要はない。つまり、言いづらい理由があるということだ。それはきっと、兄弟達も無関係じゃない。

「変なことを訊くようだけれど、絵麻はその…君の目から見て、楽しくやっているのかな?」
「あの兄弟は私の自慢です。だから、一緒に暮らして苦痛や寂しさはないと自信を持って言えます。ただ、楽しいだけではないことも事実です」

ふっと視線を落とした麟太郎さんに少しだけ罪悪感が疼くけれど、ここでつく嘘は守るための嘘にはならない気がした。美和さんが麟太郎さんの肩に手を置いて私に先を促す。

「娘さんは、同性の私から見ても可愛らしい女の子です。妹として大切に思っています。誰かが悪いわけではありません。お二人が彼女を皆と一緒に住まわせることにしたのは幸せを願ってのことでしょうし、兄弟達も彼女を傷つけることを望んでいるわけじゃない」
「名前ちゃん・・・そうね、貴方は私達を慰めるために嘘を言ったりしないもの。信じるわ」
「恐らくもうすぐ、ひとつの結末を迎えます。その結果、傷つくことはあっても壊れてしまうことはないって、苦しさだけじゃなくて…っ、良かったと思えることができると、私は信じています。ただの自己満足だと言っていただいても構いません。そう願うことしか私にはできないから、自分を慰めるための行為だと思われるのは当然です」

ふたりの瞳が揺れる。自慢の父がいる私でも、羨ましくなるくらい大切にされているのが分かる。美和さんが優しく笑って、首を横に振った。ただのエゴなのかが捉える方の問題なら、私のこの気持ちはエゴではないと思ってもいいのだろうか。皆が私の幸せを願ってくれるのと同じく、純粋な祈りだと思ってもいいのだろうか。唇を少し噛んだその時、部屋にチャイムの音が響く。狙ったようなタイミングに3人で笑った。

「一番初めが要だなんて、陽一さんは驚くかしら」
「でも僕は、初めて並んでいるのを見た時から、似合いの二人だと思ったよ」
「そうねえ、名前ちゃんが私の娘になるのはとっても嬉しいわ。要のこと、よろしくね」

主役そっちのけでマシンガントークを繰り広げる二人に、要は肩を竦めた。その目の下にできている隈をスッと指で撫でてから、美和さんの言葉に返答した。

「たぶん、これからも喧嘩をします。迷ったり、揺らいだりし続けると思います。それでも、私がそうなるのは要だけなんですよ。苦労とか、迷惑とか、かけるなら私だけにしてほしいんです」
「えっと、名前・・・そんなこと、俺にも言ったことないよね?公開処刑?」
「まあまあ!私達よりラブラブなんじゃない?」

要の言葉は、キャッキャッと騒ぐ美和さんの声に掻き消された。その後、兄弟達にはこちらから話すから大丈夫だと伝える。まあ美和さんが連絡するとしたら、兄さん達のどちらかだろうし、二人にはもう話してるから心配はないだろう。

マンションを出て、駅までの道を要とふたりで歩く。空はもう夕焼けに染まっていて、少しだけ切ない気持ちになった。立ち止まった私に気が付いた要が振り返る。

「要……椿と梓が退場した」

息を飲んで目を見開く姿に、光は私にだけ教えたのだと理解する。要は目を細めて、先を促した。『その事実だけなら俺に言う必要はないだろう?』と瞳が言っている。そうだ、それだけなら要に言ったりしない。私ひとりで抱えていられた。弱音を吐かせてくれる相手は沢山いる。それこそ要の他に片手で足りないくらい。でも、弱音を吐きたいと思うのは貴方だけ。

「覚悟はしてた。だって、最後に彼女が選ぶのはたった一人だから。二人が選んでもらえなかったって知ってこんなに苦しいのは、椿達が幼馴染で特別だからだと思ったけれど……私、もしかしたらっ、幸せになることに、罪悪感があるのかもしれない」
「それは…どういう意味?」

違う、違うの。貴方とのこれからに迷っているわけじゃない。困惑したような要に、そう伝えたいのに、上手く言葉が出てこない。侑介の覚悟よりも、椿と梓ふたりの結末の方が、私には痛かった。家族の苦しみに順位をつけた。幼馴染を応援するなんて、嘘っぱちだ。より自分に近いふたりの幸せを免罪符にしようとした。私と要が結ばれることを知れば、幼馴染かれらは必ず集まって祝ってくれるだろう。そう、心の底から。

「椿も梓もきっと、おめでとうって一番近くで言ってくれる。私だけが幸せを掴むの。あの子と一緒になることだけが、椿達の幸せだなんて思ってないけど、やっぱり心のどこかで引け目みたいな気持ちがある」

数メートル先にいた要が歩いて来て、私を胸に引き寄せる。優しい人。また私を救ってくれる。どうすればいいのかを、教えてくれる。心の底では分かっていることだ。この手の感情は胸に抱え続けて良いことなんてなかった。

「自分で綺麗だと思っていない気持ちって、人間は隠してしまうことが多いんだよ。見ない振りをして、嘘を上塗りする。器用な人なら、露見せずに終わるし」
「私、器用な方じゃないんだけど」
「でも名前は、そういう気持ちを咀嚼して、どうにかしようとしてるだろ。俺は君のそんな所が、とても尊いと思うよ」

この男はまた、私を甘やかす。これから死ぬまで一緒にいるのなら、ずっと背伸びをしてはいられない。弱音も、綺麗じゃない感情も曝け出して、それでも好きだと言ってくれる人だから、私はこの手を離せない。

「言ってみなよ、あいつらに」
「それが、嫌なんでしょ!他に案ないの!?」
「いいから。まあ名前は怒られるだろうけど、泣かされることはないよ。俺が保証する」

そうだ、暗い顔で祝福を受けようものなら怒られるに決まっている。椿は兎も角、梓に怒られたら夢に出そうだ。未だ立ち止まる私の手を、強い力で要が引く。斜め後ろから見た背中に笑いかけて、隣に並んだ。

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とヒロインの関係が好き