気が付けば冬は終わっていた。慌ただしく日々を過ごしているうちに、あっという間に春が来た。寒さが緩み始めた3月のこと。仕事帰りの道を歩く私の心は荒れていた。と言っても、悪い意味ではない。この予感が当たっていたら、間違いなく喜ばしいことだ。それでもやはり、初めてのことだし不安はある。
金曜日だからか、すれ違う人達はみな浮かれている。まあそう見えるだけで、誰しも大小様々な悩みを抱えているのだ。彼等から見れば、私もまた幸せそうに見えるのだろう。ギュッと冷たくなった手を握りしめて前を向いた。悩むなら、要と一緒でなければ意味がない。それにはまず、確証が必要だ。
「よし」
小さく気合をいれて、進行方向を変える。立ち寄ったドラッグストアでそれを手に取った。握りしめてレジへと向かって、列に並んだその時だ。肩を叩かれて、思わず「ひっ」と悲鳴を上げてしまった。手の中の物を胸元に寄せて振り向けば、見知った顔の男がこちらを見ている。
「棗・・・ぐ、偶然だね。元気だった?」
「なんだその挨拶は。さっきも声をかけたのに、スタスタ行っちまうから驚いたぞ。具合でも悪いのか?」
全く気づかなかった自分を殴りたい。どうやら棗は、私が風邪薬でも買いに来たと思っているらしい。見たところ彼も買い物を終えて、あとは会計のみの様子。適当に誤魔化して、なんとかこの場を離れよう。怪訝そうにこちらを見てくるオレンジ頭に、どうにか笑顔で返答しようとした。
「お前、本当に大丈夫か?家まで送るか?」
「いや、平気だって。ちょっと疲れてるだけだから。あ・・・私、買い忘れた物があるから先にどうぞ」
ちょうど前の人が終わって順番が回ってきた。そそくさと逃げようとする私の腕を棗が引っ掴む。お願いだから世話焼きを発揮しないでほしい。ぐいっと引っ張られて、一緒に列から離される。握られている腕の先には、購入しようとしていた物を掴んだままだ。
「なんだか知らないが、お前に何かあったら・・・っ、
「ああもう、少しは察してよね」
じとりと睨めば、決まり悪そうに目を逸らされる。横長の箱に書かれた"妊娠検査薬"の文字を読み取ったのだろう。そっと腕が解放されて、小さく「悪い」と呟きが聞こえた。叱られた子どもみたいで思わず笑ってしまった。
「まさか買うところを幼馴染に見られるなんてね。まだ分からないから。要には言わないで」
わざわざ釘を刺さなくたって、棗はそんなことはしない。生まれてからずっと近くで見てきたのだから、それくらい私だって分かっている。未だに気まずそうな瞳を見つめ返す。棗の買い物カゴを引ったくって、空いたレジへと置く。その中にポイと検査薬も放り込んだ。小声で抗議してくるけれど、構わず財布から千円札を2枚取り出して、店員に手渡した。
「心配してくれたのに当たってごめん。はい、これ」
袋をその手に握らせて謝れば、棗が苦笑する。それに釣られて、小さな不安を吐露しそうになった。もし本当に妊娠していたら、要は喜んでくれるだろうか。それを棗に尋ねるのはなんとなく卑怯な気がする。どうして、要のことになると途端に臆病になるのだろう。決まっている、愛しているからだ。
次の日の朝、さっそく試してみた。胸の前で左手を握りしめながら、無意識に呟く。
「陽性」
ヘタ、と座り込む。悲しいわけじゃないけれど、かなりエネルギーを使ったのだろう。一気に体の力が抜けてしまった。こんな姿を見たら、椿なんかは笑うかもしれない。あんまり長くトイレにいたら、父さんに怪しまれそうだ。それにちょうど今日は土曜日。午前中なら開いている病院もあるはずだ。
今日は誰にも会いませんようにと祈った。幸い何事もなく病院に着いて、自分の番を待つ。中には私よりずっと若い女性の姿もあって、少し肩の力が抜けた。母親になることは確かにすごく大変で特別なことだけど、大勢の人が経験していることでもある。自分ができた人間だとは思っていない。でも私には要が、そして家族がいる。だから大丈夫だ。
「おめでとうございます。妊娠されていますよ」
「そうですか・・・あれ、ご、ごめんなさい」
予定日に生理がこなくて、ずっと張り詰めていた糸が切れた。たまに悩むとこれだ。泣き出した私に、医師は何も言わなかった。慣れているのか、優しいその顔に雅臣兄さんを思い出す。やっと落ち着いてから、いくつかやり取りを交わして病院を後にした。鞄から携帯を取り出して要にメッセージを送る、今日の夜に会えないかと。もしかしたら忙しいかもしれない。
あとは報告するだけだ。頑丈なのか鈍いのか、軽くなった足取りで帰路に着く。家が見えてきたとき、携帯が震える。急いで画面を見ると、要から返信がきていた。了承の旨と「何かあった?」と心配するような文章に胸が温かくなる。迎えに来てくれると言うので、お言葉に甘えることにした。19時、玄関を開けると要が立っている。思わず抱き着けば、戸惑うように名前を呼ばれた。
「急に呼び出してごめん」
「君に呼ばれたら、どこだろうと飛んで行くよ」
「なんかそういう台詞、久しぶりに聞いた」
「・・・思い詰めてるわけじゃなさそうだね」
髪を撫でて、そう言われる。見上げれば、安心したような顔。要はマメだから、私が会いたいという前に次の約束をしてくれる。もちろん離れた瞬間から寂しいのだけど。だから、今日みたいに私から会いたいだなんて言うことは滅多にない。どうやら不安にさせたらしい。それが嬉しくて胸に額を押し付けた。
「おいおい、戯れるなら外でやってくれ」
「っ、父さん!」
呆れたような声に慌てて、要を外に押し出す。ドアを閉めかけてからハッとして、再び中に向かって声をかける。キョトンとしている父に笑いかけた。
「行ってきます」
返事をするように手を挙げる。外に出ると、辺りはもう真っ暗だ。なかなか歩き出さない私を心配するような要が見つめる。今日は突然会うことになったから、どこに行くのかは決めていない。連絡した時に、どこか店を予約しようかと訊かれたけれど断った。
「少し歩いてもいい?」
「もちろん」
流れるように手を取られて、指が絡む。街灯の下を二人で歩く。何度も見た風景だ。やっぱり緊張するなぁと苦笑する。大切なことだからこそ、相手が要だからこそ、ちゃんと吟味して言わないといけない。ギュッと指に力を込めると、要がこちらを見る気配がした。前を見たまま、唇を開く。
「あの、さ・・・妊娠、したんだ」
静かな夜だから、ちゃんと聞こえたはずだ。息を飲む音がして、要が立ち止まる。そのまま歩こうとしていたから反動でフラついた。振り向けば、見たことない顔につい吹き出してしまう。心に余裕ができて、要の前に立った。
「本当に?」
「光じゃあるまいし、こんな質の悪い冗談言わない。本当だよ。ちゃんと病院にも行って来たんだからっ、
言葉が途切れる。息が詰まるくらいに強い力で抱きしめられた。腰と首を固定されて、身動きが取れない。お陰でその背中に腕を回すこともできない。一向に話出さないけれど、黙って待った。スゥと息を吸う気配に耳を澄ませる。
「さいっこうに幸せだよ!」
私の両手を握って、要が笑う。ギュンと心臓が鳴る。キュンじゃない、ギュンだ。私はつくづくこの顔に弱い。いつだって大人で揺らがないくせに、こんな時だけ子どもみたいに笑うんだ。今の自分の表情を見られたくなくて、咄嗟に両手で顔を覆った。
「え、名前?」
「ちょっと黙って、なんなのその顔」
身が持たない。頬が熱くなるのを感じながら、ブツブツ文句を言ってみる。小さく笑う気配がして見上げようとした途端、両手首を取られる。驚いている間に、引き寄せられてキスされた。重ねるだけのささやかな口付け。鼻先が触れ合う距離で、要がふっと微笑む。
「名前といると、何一つ隠せない。だから全部、本当の俺だと思ってくれていいよ」
「余計に質が悪いじゃない」
苦笑して胸を叩けば、要は得意げな顔で歩き出す。当てもなくただ歩くなんて初めてかもしれない。それでも要と過ごすだけで、私にとっては意味のある時間。並んで歩きながら、子どもができたことを話した時の皆の反応を想像して幸せな気持ちになった。
数日経ったその日、私は朝日奈家に来ていた。今日は絵麻ちゃんの見送り会を兼ねて、パーティーをする。彼女は昴と付き合うことになってから、色々考えてこのマンションを出る決意をした。最初に聞いたときは驚いたけれど、その目を見て大丈夫だと確信した。この子もまた、成長したのだ。
「皆揃ったね。それじゃあ一言貰えるかな?」
「あ・・・はい。えと、今日は私のためにパーティを開いてくださってありがとうございます。今回のことはたくさん悩んだうえで決めたことです。でも、決して後ろ向きな気持ちじゃありません。私は皆さんと家族になれて幸せです。離れてしまっても心は繋がっていると信じています・・・なので、あの、
「うん、そうだね。僕達は家族。今ここにはいない皆もそうだ。たとえ毎日会えなくたって、繋がってる。
これからも僕達は家族だ」
言葉に詰まる絵麻ちゃんに雅臣兄さんが言う。それに皆が頷いたり、笑ったり。弥に至っては泣き出しそうだけれど。私の席はちょうど彼女の向かいだ。目が合って微笑めば、照れたように俯かれた。何故照れる。
今日この場にいるのは全員ではない。兄さん達と三つ子、琉生に侑介、それから弥だ。
「それでは、いただきましょうか」
「あ、ちょっと待って!!」
乾杯しようとする右京兄さんを遮って声を上げた。皆が一斉に私を見る。こんなに大勢揃うことは滅多にない。伝えるなら今日だ。ああ、これは確かに恥ずかしい。絵麻ちゃんの気持ちが分かった。しかし私がモジモジしている間に美味しい料理が冷めてしまう。
「どうしたんです?」
「あの・・・私からも報告があるんだけど、いい?」
「なんだなんだー、子供でも出来た・・・え、マジ?」
茶化す椿をキッと睨みつける。私が言う前にこのお調子者は。拳を突き上げて隣にいる棗を通り越し、その頭を小突いた。「いってー!」と騒ぐけれど、構うものか。間にいる棗が呆れたように溜息をつく。私の反応に事実だと察した周りがザワザワと騒ぎだす。
「名前、本当なの?」
雅臣兄さんの問いに私が頷くと、弥が勢いよく駆け寄って来る。「わーい!!」と私に抱き着こうとするその首根っこを侑介が掴んだ。
「馬鹿!腹の子に何かあったらどうすんだ!」
いや、まだどうにかなる大きさじゃない。そんな侑介を指差して笑う椿の頭をペシッと叩く。椿より侑介の方がよっぽど大人だ。隣の棗が私を見て優しく笑う。心配をしてくれていたのだろう。なんだか照れ臭くて上手く笑い返せなかった。
「うわぁ!男の子もいいですけど、女の子もいいですね。お二人の赤ちゃんなら絶対に可愛いです!!」
「絵麻は本当、名前には積極的だよね・・・おめでとう。もし女の子だったら椿に気を付けた方がいいよ」
優しく笑う梓にお礼を言う。さすがの椿も姪っ子に手を出したりはしないと思う。まあ、可愛がってくれる分には大歓迎だ。厄介者扱いされて気に食わないのか椿がギャイギャイ騒ぎ出す。右京兄さんの説教まであと5秒といったところか。ふと、クイクイと服の裾を引かれて振り向く。
「新しい家族、すごく嬉しい」
「琉生・・・うん、ありがとう。赤ちゃんにオススメのシャンプー教えてね」
柔らかく笑う八男を抱き締めた。ふわりと良い香りが鼻をかすめる。新しいシャンプーだろうか。琉生らしい優しい香りに胸が温かくなった。身体を離すと、横に立ったのは兄さん達。夫婦のような佇まいに小さく笑った。
「雅臣兄さん、風邪引いたらよろしくね」
「もちろん。まずは、うさたんを作らないとなぁ」
弥がミミレンジャーごっこを卒業したのが余程ショックだったらしい。でも兄さんが作るうさたんは可愛いから、是非欲しい。目を輝かせる30代男性はかなりレアだ。思わず頭を撫でたくなる。
「我々は10人以上の弟達を育ててきました。今こそその経験を活かすときですね」
「お、お手柔らかに。私も、お袋の味が右京兄さんだって言われないように頑張らないと」
キラッと眼鏡を光らせる右京兄さんに、つい距離を取る。これは本格的に家庭料理を練習した方がよさそうだ。でもたまには要と3人で右京兄さんのご飯を食べたいな。だって美味しいんだから仕方ない。
それから乾杯して、たくさん話をした。心配だったけれど、絵麻ちゃんは楽しそうに笑っている。椿達や侑介もだ。それを見て、心から良かったなと思った。
それぞれ大人になって、良くも悪くも家族の形は変わりつつある。昴や祈織、風斗は家を出た。光なんかは家にいないことの方が多いけれど、やっぱり少し寂しく感じるのは当然だ。これからも誰かが結婚したり、子どもができたりして、私達は変わっていく。それでも、彼らは私の家族で大切な存在。それだけは、離れていようが何があろうが変わらない事実。
「うわ、なにニヤニヤしてんだよ」
棗の横から椿が言った。気持ち悪りぃと顔を歪められるけれど、今日くらいは許そう。その声に全員がこちらを見る。私が恥ずかしがると思ったのか、椿が得意げな顔をした。しかし、その予想はハズレだ。ふふんと鼻で笑ってみせる。
「私・・・貴方達の家族になれて、すっごく幸せ」
それぞれが驚いた顔をするのがなんだか可笑しい。椿に至っては虚をつかれたような表情だ。皆が箸を止める中、最後に残っていた唐揚げを平らげる。今ここにはいない弟達にも、後で必ず伝えようと心に決めた。