疑うことは容易い

たった一通の手紙で乱れた心の平穏は、祈織おとうとによって保たれた。本当、単純だな。あれ以来、祈織からは雑誌が度々送られてくる。少しずつメインで特集されるようになってきて、姉としては嬉しいような寂しいようなと言ったところ。季節は冬になって、あのクリスマスから一年が経とうとしている。実家のリビングで最後の一文字を書き終えて、息を吐く。随分遅い返事になったから、要に怪しまれそうだ。

「少しくらい悩めばいい、煩悩坊主め」

暴言を吐きながら、家を出て朝日奈家へ。要宛の手紙は雅臣兄さんに渡さなければならない。右のポケットには携帯が入っている。そして左には鍵−−−要の部屋のものだ。言う通りになるのが癪で今まで入ったことはない。

「雅臣兄さん・・・これ、返事」
「ああ、確かに受け取ったよ。ねえ、名前。少し時間あるかな、話したいことがあるんだ」

ソファに座ってそう言われた。改まって一体なんだろう。今日は特に予定もないから断る理由もないけど。頷いて私が隣に腰を下ろすと、いつもの優しい顔で話し始める。

「実はね、話っていうのは祈織のこと」

予想外の話題で何も返せなかった。目をぱちくりさせる私を見て、兄さんは苦笑すると大きく息を吐いた。また悩んでるな、この人。祈織は良い子だから、兄達を悩ませることは今までなかっただろうし。

「祈織がね…その、モデルをやっているらしいんだ」
「ああ、うん、知ってるけど」
「ええ!?な、なん、なんで?名前って雑誌とか読むんだっけ?」

動揺して立ち上がった兄さんを冷静に見つめる。それにしても、自分から伝えるつもりはないって祈織は言ってた。どこからバレたんだろう。芸能界って怖い。ていうか、雅臣兄さん。私だって雑誌くらい読むよ。そりゃ、光ほど女子力は高くないけど少しひどいな。

「あー、兄さん落ち着いて。本人から聞いてたの」
「え・・・・ああ、そうなんだ。って、え!?」
「黙っててごめん。でも、言わないでほしいって」

雅臣兄さんは優しい。誰よりも兄弟を見ているし、思っている。そういう所は要によく似ている。でも長男なだけあって、その責任を人一倍感じやすい。確かに皆は兄さんの弟だけど、必ず大人になる。いつまでも皆一緒というわけにはいかない。

「そうか、名前には言っていたんだね」
「あの子は大丈夫だよ、もう大人だから。お願い、今は見守ってあげて」
「名前・・・・」
「何かあったら私が守る。要もいるしね」

惑うように瞳が揺れた。祈織と同じで、私も成長してるんだから。真意を汲み取ったらしく兄さんが笑う。それは遠い記憶の、あの人の笑顔によく似ていた。

リビングを出て4階、向かうのは要の部屋。一度くらい入ってやろうとか、上から目線なこと思ってみたけど強がりだ。やさぐれた心を慰めてほしい。隣にいなくても私を支えるのはただひとり。ギィと音を立ててドアを閉める。そのまま座り込んだ。

「枕じゃなくても匂いするじゃん」

はっと乾いた笑いが漏れる。綺麗に整えられた布団に雪崩れ込んだ。要の言う通りになってるのがムカつくな。本人はたぶん嫉妬してるなんて夢にも思ってないだろうけど。小さく、呼び慣れた名前を声に出す。

「寒いな」

どれくらいそうしていたか、少し眠っていたかもしれない。身を起こして、変わらず静かな部屋に切なくなる。会いたい、ただ抱きしめてほしい。もし正直に手紙に綴ったとしたら、飛んで来てくれるかなと考えて自嘲した。

「名前姉?」
「・・・・昴」

部屋を出ると同時に声をかけられて、はっとする。振り向くと、昴が段ボールを抱えて立っている。昴の部屋は3階だから、誰かに用事だろう。ちょっと見ない間に逞しくなった。春に絵麻ちゃんのことで励ましたときとは別人だ。

「誰かに用事?」
「え・・・ああ、アイツに授業で使ったノートとかを届けに来たんだ」
「そっか、同じ大学だもんね。昴は真面目だからノートも見やすいんだろうな・・・じゃあ、私は行くから。あ、ここに来たこと要には内緒にしてね」

未だ困惑顔の昴に手を振って階段を下りた。会話をすれば、昴相手でもボロが出そうだ。バスケと恋に忙しいのに余計な心配をかけるわけにはいかない。

−−−−−

年が明けてから暫くして光から怪しいメールが届く。内容は光の住むマンションに来いとのこと。命令なのはいつものことだけど、光に呼ばれるときは碌なことがない。ご丁寧に日付と時間まで指定されている。

当日、パンツとセーターにコートを羽織っただけのラフな服装で家を出た。光のマンションの最寄りは中目黒駅。一度だけ来たことがあるけど、用件は基本メールで済ませるから、それ以来足を運んではいない。敷地に入ってエントランスに目を向けたとき、出てくる人物を見て咄嗟に身を隠す−−−要だ。

「(え、どうして要がいるの?帰って来たとか聞いてない。ここにいるんだ、決まってる。光が何かしたに違いない。私を呼んだのは要が戻って来たことを知らせるため・・・本当、性格悪いな)」

ひとり動揺している間に要は姿を消した。どうやら気づかれなかったらしい。光め、一言物申しておかないと気が済まない。要に連絡するのはそれからだ。苛々を募らせて光の部屋へ向かう。試しにドアノブに手をかけると容易く開いて驚く。

「光!いるんでしょ!?どういうことなの?どうして要がっ、絵麻ちゃん・・・なんで、
「名前さん!!」
「あら、早いじゃない。もしかして会っちゃった?」

靴を脱ぎ捨てて問い詰めようとしたのに、それどころじゃなくなった。部屋には光の他にもう一人、我らが妹の姿がある。もう意味が分からない。たぶん状況を理解しているのは光だけだ。

「どういうことなの、説明して」
「喜びなさい、要が帰って来る」
「だから、どうして?」

結果だけを聞いて納得できるものか。不穏な空気を察知した絵麻ちゃんが戸惑っているけど、構ってられない。耳に届いた自分の声は冷たかった。それでも、私の問いに光は笑うだけ。

「答えるつもりはないの?」
「今はね。物事には一番いいタイミングがあるから」
「御託はいい。そんなの"光にとって"だけでしょ」

残念なことに、私は馬鹿じゃない。光、絵麻ちゃん、そして要。3人揃ってする話なんて限られる。光が要に帰ってくるように促した。そして彼女はここにいるということは、その必要があったということ。そう、至りたくなかった結論−−−今はまだ予想だけど、たぶん当たってる。要は、彼女のために戻って来る。

「帰る」
「つれないわね、お茶くらい飲んで行きなさいよ」

面白そうに笑う声を無視して背を向けた。私もまた光に踊らされている。最悪だ、やっばり碌なことがなかった。きっと要は何食わぬ顔で『ただいま』と言うのだろう。今日ここに来なければ、私も笑って迎えたに違いない。想いを確かめ合ったはずなのに、結局は蚊帳の外。どす黒い嫉妬が胸を覆っていく。

−−−−−

要から『帰る』と告げられたのは、それから数日後。電話の声が以前と変わらないことに胸が軋んだ。要がマンションに戻った記念に、おかえりパーティーなるものが開かれるらしい。迷ったけど適当な理由をつけて断った。落ち込んだような要の声に少し罪悪感が疼く。その手前、家にいるのもなんだか気が引けて街へ出かけることにした。

今日は父さんも仕事で遅くなるから、一人で軽く夕食を済ませる。寒いし、コンビニでスイーツを買って帰ろう。下向きだった気持ちをなんとか保つ。歩き出したとき、近付いて来る気配。振り向く前に肩を掴まれた。

「お前、パーティー出なかったのか?」
「なんだ、棗か」
「もう少し言い方ないのか・・・こんなとこでメシ食ってるなら行けばよかっただろう」
「っ、余計なお世話!!」

営業先が近かったのかスーツ姿だ。悪気がないことは分かってるのに、つい声が大きくなる。一人になりたいときに限って、こうだ。棗はなにも悪くない、酷い八つ当たりだと思う。私の反応に片眉を上げると、棗は小さく息を吐いた。呆れられたのかもしれない。

「おい、少し付き合え」
「嫌だ、帰る」
「そこの店のタルトを奢ってやる」

こいつ、やるな。さすがは幼馴染。というより私がチョロいだけだろう。タルトに釣られて付いて行くと、思いのほか優しく微笑まれた。初対面だったら確実に落ちていたに違いない。てっきり食べていくのかと思いきや、「持ち帰りで」と言ってタルトが2つ入った箱を手渡される。父さんの分も買ってくれたらしい。

「車で送って行く」
「いや、いいよ。歩いて帰るから」
「何言ってんだ、さっさと行くぞ」

別に迷惑だろうとか考えてるわけじゃなく、ただ単に一人になりたいだけなのに。そう言ったら優しいこの男のことだ、弱音を聞いて慰めてくれるに決まっている。この場合は大人しく送られておいた方がいい。

「それで、また喧嘩でもしたのか」
「また?」
「かな兄が修行に出る前もしてたじゃないか、椿が心配してたぞ。らしくないな」

車の助手席に座って、膝の上で拳をぎゅっと握る。ほらやっぱり。椿にも言われた「らしくねえな」は、いつも私の背中を押す言葉だったはずだ。それなのに幼馴染ゆえの優しさを素直に受け取ることすら、ささくれた今の心では難しい。

「私らしいってなに、どんなことがあってもヘラヘラしてろって?1番大事な人のことすら悩んじゃいけないの?勝手な幻想を押し付けないで、私は、椿や棗の信頼に応えるために生きてるんじゃないっ!!」

最低だ。棗がそんなこと思ってるわけない。信号で停車して、車内が重たい空気に包まれる。かっこ悪い、情けない、いい大人が感情のまま怒鳴り散らすなんてヤバすぎでしょ。涙まで出てきそうになるから、辛うじて紡げたのは「ごめん」の一言だけ。酷い言い方をしたのに棗は何も言わなかった。キキッと音を立てて車が停まる。棗がサイドブレーキを上げて私を見た。

「本気で無理なら言えよ。俺じゃなくたっていい、お前を大事に思っていない奴はうちにはいない」
「だから、だよ」
「・・・どういう意味だ?」

確かに皆は家族だ。でも思い悩む対象である要も、そして彼女も、棗達にとっては大切な存在だからこそ難しい。ましてや彼女は棗の想い人だ。光の思惑も、要が帰って来た理由も、言えるわけない。

「送ってくれてありがとう、あとタルトも」

質問には答えずに車外へ出た。外気が頬に刺さる。何か言いたげな運転手に手を振った。助手席側の窓が開けられて、眉間に皺を寄せたまま棗が言う。

「和眞さんによろしくな」

てっきり小言が飛んでくるのかと思っていたから、ずっこけそうになる。こちらが何か言う前に車が動き出した。今頃マンションでは楽しいパーティーの真っ最中だろう。それとはまるで正反対な己の心模様に溜息が漏れた。

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とヒロインの関係が好き