心はいつでも隣に

「俺といるのに上の空なんて、一体誰のこと考えてるのかな?」

何を勘違いしているのか知らないけれど、私を悩ますのはひとりだけ。要ならそれを知っているはずなのだから、どうして上の空なのか推理してほしいものだ。要が修行から帰って来て1週間後。下手に会いたくないとは言えなくて、誘われるままデートをした。必死に笑顔を繕って過ごす時間は、苦痛以外のなにものでもない。パスタを口に運びながら要を見ると軽い口調とは裏腹な視線に射抜かれた。

「ごめん、ぼーっとしてた。それで何の話だっけ?」
「・・・・すばちゃんが家を出るって」

質問には答えず、再び作り笑いを返す。疑うように目を細めて小さく息を吐くと要が言った。そうだ、昴の話をしてたんだ。プロのバスケチームから誘いを受けた昴は、もうすぐ本拠地である九州に行く。中々会うのは難しくなるだろうし、一度顔を見に行こう。

「寂しくなるなぁ。絵麻ちゃんと離れて大丈夫・・・ではないだろうけど、昴は強いから心配ないか」

逞しくなった顔を思い出して笑う。今度は自然に笑えてしまった。要以外の誰かを思う方が笑顔になれるのが悔しい。顔を上げると、要が何か言いたそうに私を見る。目を逸らさずにいると、一度開いたその唇が迷うように震えた。

「名前・・・何かあった?」
「別に、何もないよ」

いつの間にか、簡単に嘘をつくようになった。大人なのだから嘘の一つや二つ可愛いものだろうけど、せめて大切な人の前でだけは誠実でありたい。そう思うのに上手くいかない。また笑顔を貼り付ければ、要が泣き笑いみたいな表情をするから、胸がじくじくと痛みを増した。

「ああそうだ。これ、返すね」

ポケットから取り出したのは、要の部屋の鍵だ。スペアだろうし別に返さなくてもいいのかもしれないけれど、今の心境で持ち続けるのは良くない気がした。戸惑うような顔は見ないフリをしながら、無理矢理その手に握らせて、必死に笑った。

−−−−−

その日のうちに昴に連絡すると2日後に会うことになって、駅の近くにある焼肉屋で待ち合わせた。先に着いていた昴が片手を上げて合図している。なんだか精悍な顔立ちになって、絵麻ちゃんと話す度に赤面していたなんて嘘みたいだ。

「いつマンションを発つの?」
「明後日だ。明日は皆が送別会をしてくれる」
「絵麻ちゃんとは話せたみたいだね。あっちに行っても頑張ってね、応援してるから」

月並みな言葉しか贈れないけど、紛れもなく本心だから飾る必要はない。「ああ」と、大きく頷いた昴の頭を撫でる。ついこの間までハグやキスをするだけで照れていたのに、多少のスキンシップでは動揺しなくなったらしい。

「心配なのは名前姉の方だ」
「えー、私は大丈夫だよ。ほら、頑丈だから」
「・・・・この前、かな兄の部屋から出てきたとき、泣いてただろ」

要を筆頭に、この兄弟は本当鋭い。隠し事ひとつできない。誤魔化すように笑ってみても無駄だった。白状しろとばかりの眼力に観念して両手を挙げてみせる。

「まあ、ちょっと、いやかなり?参ってますけども」
「・・・正直、意外だった。名前姉は、俺よりもずっと大人で、取り乱したりしないって思ってたから」
「なんかごめん、理想をぶち壊して」
「いや違うよ、安心したんだ」

ふっと微笑みながら否定されて驚きを隠せない。椿達が名前らしくないと言うように、この兄弟はどうにも私を美化しすぎている気がしていた。そんなに大層な人間じゃないのに、期待に応えようと背伸びしてみたりしたものだ。でも今、確かに安心したと聞こえた。言葉を選ばず言えば、私が要のことで情緒不安定な点に対してだ。

「大事なものだから、譲れないから必死になるんだ。上手く言えないけど今までよりも近くに感じたって言えばいいかな。名前姉にとってのかな兄は、俺にとってのアイツと同じ。それなら、本気になるのは当たり前だ」
「いやだ、昴が大人すぎて胸が苦しい」
「茶化すなよ。俺は、かな兄といるときの名前姉が好きだ。でも、だからかな兄のことを諦めるなと言うのは違うと思ってる。誰かの為じゃない、名前姉自身が一番幸せだと思う選択をしてくれ」

いつになく饒舌だ。いつもと違うからか、その目があまりに真剣だからか、昴の思いが頭に直接流れ込んでくる。祈織といい、まるで呪いみたいだ。いくら悩んだところで、私の幸せは要なしでは成り立たない。
手を伸ばして選んでもらえなかったときのことを、考えるのすら許してくれそうにない。

「言葉を濁してるけどさ、それって一択じゃない」

ごくん、とカルビを飲み込んで呟いた。そんな私を見て昴が声を上げて笑う。右京兄さんは、私が弟達を救っているなんて言ったけど逆だと思う。いつも助けられているのは私の方だ。

−−−−−

「琉生!!ごめんね、遅れちゃって」

走って近付くと、待ち人は穏やかに笑った。緩くアップに結われた髪が可愛い。私は今日、珍しく琉生に呼び出されて井の頭公園に来ていた。二人きりで話すのはすごく久しぶりな気がする。

「少しの間、お別れ。フランス、行くことになった」
「フランスって・・・琉生が、だよね?」
「お店の研修、それから、お父さんに会いに行く」

聞けば、2ヶ月ほどフランスで美容師の研修を受けるらしい。素人の私が言うのもなんだけど、琉生に研修が必要とは思えない。でも、お父さんに会えるのはきっと嬉しいんだろうな。琉生の実の父親はフランスに住んでいる。

「帰って来たら、感想聞かせて」

努めて明るく振る舞おうとして、すぐに止めた。昴にもバレたのに、琉生に隠せるわけない。せっかく久しぶりに話せたのに、こんな浮かない顔しかできないなんて駄目な姉だ。

「要兄さん、寂しそうだった」
「そう・・・・絵麻ちゃんのことが心配なんだろうね」
「違う、よ」

少し語気を強めた声。今まで聞いたことないような、琉生らしくない声音に戸惑う。捻くれた言い方をしたから怒らせてしまったらしい。こんな小学生みたいな嫉妬したくないのに、消せない。

「要兄さん、ちぃちゃんのこと、大事に思ってる。でも、あんな寂しそうな顔をする理由は、ひとつだけ。それは、ちぃちゃんじゃない」
「えっと、琉生・・・もしかして、怒ってる?」
「ううん、悔しい、だけ」

後退りしながら尋ねると、琉生はふるふると首を横に振った。よく意味が分からなくて見つめ返す。琉生は不必要なことは言わない。でも言葉足らずというわけじゃなく、ちゃんと伝えてくれる子だ。だから黙って先を促した。

「要兄さんの気持ちは、要兄さんのもの。僕の言葉で伝えても、意味ない」
「そうだね、分かってる。他の皆にも心配かけちゃったし、ちゃんと要と話さなくちゃいけない。でもね、本当言うと少し怖いんだ」

よく晴れた公園の道を歩く。弱音を吐いた私の手に、琉生の綺麗な指が触れる。弟達の前では情けない所を見せたくない。もっと言えば、要以外に泣き顔を晒すこともしたくない。

「こんな思い初めてで、要に話して幻滅されちゃったらとか、私がいなくても要は平気なんじゃないかとか、悲観的なことばかり浮かんでくる」

泣きそうになる私に気がついて、琉生が歩道を外れて木陰にあるベンチに導く。胸に秘めていた気持ちは一度言葉にすると止めどなく溢れてきた。震える手を琉生が握ってくれる。

「怖いこと、誰にでもある。大切なことなら尚更。でも、踏み出さなくちゃ、そのまま」

油断すると涙が溢れてきそうで、必死に眉間に力を込める。それきり琉生は何も言わなかった。でも握られた手は力強い。小さく「頑張る」と声に出すと、隣で琉生が笑った気がした。

−−−−−

「そうそう。ここは、この定理を使う」
「でも、ここの値も分からないから、未知数が二つあるってことでしょ?これじゃ、答えが出ないよ」
「ああそれは・・・・こっちを使えば求められる」
「あ、そっか!定理を二つ使うんだね」

マンションの一室に響くのは、私と弥の声。中学生になってから、時々こうして弥に勉強を教えている。正直な話、侑介より何倍も理解力があるから楽だ。ふと時計を見ると、もう夜の10時になろうとしている。

「弥、今日はもう終わりにしよう」

声をかけると、少し納得がいかなそうにしたが渋々頷いた。つい癖で頭を撫でると、子供扱いしないでと膨れっ面をされる。それがまた可愛くて抱き締めた。

「名前ちゃん、一人で大丈夫?僕、送って行くよ」
「大丈夫だよ」

大きくなったとは言え、まだ中学生の弟に家まで送ってもらうのは気が引ける。心配そうに私を見る弥に手を振って部屋を出た。音を立ててドアが閉まって、深く息をすると夜の匂いが鼻をつく。

階段を下りかけた足の向きを変えて、上へ。今日みたいなきっかけがある日の方がいい。3階と4階の間にある踊り場に差し掛かったとき、エレベーターが開く音がして、顔を上げると絵麻ちゃんが通り過ぎるのが見えた。神妙な面持ちに声をかけられないまま影に隠れて、彼女が部屋に入るのを待った。ところが一向に扉の開閉音が聞こえてこない。様子を窺おうとしたとき耳に届いた声に身体が硬直した。

「妹ちゃん!?」

聞き間違えるはずがない、要の声だ。驚いている様子に少しだけ安堵する。事前に約束をして訪ねて来たわけじゃないらしい。私に言うみたいに「待ってたよ」なんて聞こえたら立ち直れなかった。まあ、どちらにしても致命傷なのだけど。心のざわつきと、少し距離があるのとで、会話の内容までは聞き取れない。それでも要の声が残酷なくらいに優しいのは分かった。バタン、と聞こえた音は一回だけ−−−要があの子を部屋に招き入れた証拠だ。

「タイミング最悪だな・・・・っ、帰ろ」

ひとり呟いて立ち上がった。聞きたくもない話を、見たくもない光景を、突きつけられるのは2回目だ。1回目は確か一昨年の夏祭り。また恋心こころが砕け散りそうになる。マンションを出るまで誰にも会わなかったのが唯一の救いかもしれない。覚束ない足取りで歩き慣れた道を進む。頬を何かが伝う感覚に、初めて自分が泣いているのだと気がついた。

街灯に照らされた夜道を、はらはらと涙を流しながら歩く女。かなりヤバい絵面だ。幸いすれ違う人はいない。気まぐれなんて起こさずに、さっさと帰ればよかった。湧いて出た疑念を確信にする出来事が、恋心わたしを揺さぶる。あの子に優しい瞳を向けないで、私だけを見てと、醜い嫉妬が溢れてくる。一度は家族を大切にする貴方が好きだとか宣っておいて、実際その光景を目の当たりにしたら掌を返すが如く嫌悪感を露わにするなんて嫌な女だ。

「姉さん?」

ああ、どうして貴方はいつも、私が望むときに会いに来てくれるんだろう。月明かりが照らす中で視線を上げると、困惑した様子の祈織がいる。肩を強く掴まれて痛いのに、その痛みが私を保ってくれる気がした。珍しく戸惑いを隠すことなく、じっと私を見つめる瞳が揺れている。

「っ、どうして泣いてるの、兄さんはどこ?」

私の背後に視線を巡らせる弟に縋りついた。息を呑む気配がしたあと、要がするみたいに優しく髪を撫でられる。また涙が溢れてきて、全て吐き出したくなるのを必死に堪えた。泣くのは要の腕の中だけだという、小さな誓いを破ってしまった。自分にだけ課したものなのに、罪悪感のような感覚に襲われて身体を離す。

「ごめん、取り乱して・・・もう大丈夫、
「どこが大丈夫なの?訳を話して。そうじゃないと、僕は帰らない」
「祈織・・・・お願いっ、話を聞いてくれる?」

ひとりで悩むことに慣れていない。そもそも私は、悩むという行為に対して初心者だ。だから今は誰かに傍にいてほしい。私の話を聞いてほしい。祈織になら隠せず話せる。ただ、祈織は良くも悪くも常に私の味方だ。優しい答えをくれるから、私はきっと甘えてしまう。だからだろうか、私の綺麗じゃない所を吐き出すなら祈織がいいと、そう思ってしまった。