名付けるとすれば

※祈織視点

────私、祈織が笑うと安心する。だから、たくさん笑ってくれたら嬉しい

それは恋なのか。その問いに対して、自信を持って頷くのは難しい。だけど、かけがえのない存在かと訊かれれば、迷いなく首肯できる。ひとつだけ確かなことがあるとすれば、自分の中で苗字名前という存在が異質であるということだ。

────祈織!父さんからお菓子を貰ったの、一緒に食べよう。これまだ発売前なんだって、だから内緒ね

今まで家族に対しても礼節を持って接してきた。大勢いる他人に対するのと同様、波風を立てないように、必要最低限の関係を保つ。大人しくて、つまらない人間だ−−−そう認識されていることは知っていたけれど、それでいいと思っていた。そんな風に振る舞うことは苦手ではなかったし、その方が他人との摩擦も減らせる。そんな僕の本質に気づいていた人は少ないだろう。気づいたうえで、より深く踏み込んでくる人はもっと少数だ。そのマイノリティの筆頭が九つ上の要兄さんと、その恋人−名前姉さん−だった。

────祈織、本を読まない?私も小学生のときに読んだやつなの。ほら、こっちにおいで

もしも彼女に対するこの感情が恋だとするなら、二度と花開くことはない。いや、"二度と"という言い方は間違いだろう。一度も花を咲かせたことはない。そもそも土から芽を出すことすら許されなかった。種を植えたときにはもう、彼女の隣には要兄さんがいた。この想いを恋と名付けるのは簡単なことだったのかもしれない。でもそうするには僕はあまりに幼くて、抱いたことのない想いに戸惑っているうちに月日が過ぎ去ってしまった。

────祈織は優秀だな。これじゃ、私が教える所なんてないや。算数で90点以上取れたらお祝いしようね

名前を呼ばれると胸が鳴った。それは期待や歓びからではなく、ある種の恐怖−−−心の内に足跡を付けられるような感覚だったけれど、不思議と不快ではなかった。毛を逆立てた猫に触れて、相手がそれを享受してくれたときのような、恐る恐る手を伸ばした結果ホッとするような感覚。猫に例えたりしたら怒られそうだけど、僕はころころと表情を変える姉さんを見るのが好きだから、それもいいなと思った。

中学生になって、特別な相手ができた。それまで姉さん以外が踏み入れたことのない領域は、瞬く間に色を変えた。冬花に関して、僕は姉さんに自ら話すことはなかった。恋愛相談も姉さんではなく、要兄さんにしていた。"白石冬花の恋人"としての側面を見られたくないと無意識に感じていたのだろう。

甘いお菓子を食べたり、勉強をしたり、並んで本を読んだり、それまで姉さんと過ごしていた時間は冬花と共有するようになった。心を占める存在が移り変わっていく。まるで姉さんの代わりに冬花に愛を捧げているような心地がすることもあったけれど、次第に冬花への愛を信じられるようになっていった。中学3年の秋、数ヶ月振りに姉さんに会った。僕の隣に立つ冬花を見て驚いたのも一瞬で、すぐに愛おしそうに目を細めた。その表情に左胸が軋む。

────綺麗な人だね

姉さんが去ってから、顔を綻ばせて冬花が言う。僕はそれに、控えめな笑みを返すことしかできなかった。姉さんの笑顔を見た瞬間、もう私がいなくても大丈夫ねと、そう言われた気がした。姉さんの中で、自身の存在が弟のひとりになりかけている。そのことに一瞬でも嫌悪感を覚えた自分に戸惑いを隠せなかった。心のどこかで優越感にも似た思いがあったのだろう。それはつまり、要兄さんを除いて苗字名前が気にかける存在−−−その位置にいることが、こんなにも自分にとって特別なことだったのだと痛感した。

冬花のことは好きだ。いなくてはならない存在だと思う。それでも姉さんの中に、たとえ心の片隅でも朝日奈祈織が在ることを許してほしかった。そんな子供みたいな願望を誰かに曝け出すことはないまま、僕の心は息を止める−−−姉の影をかき消すほどの光だった冬花が、死んでしまったからだ。兄弟達ですら僕になんと言葉をかけるべきか逡巡する中で、姉さんはただ隣にいるだけだった。虚な心のままに見た横顔は、いつも通り凛としていて、そのことに何故か安堵した。

────あのね、アメリカに行くことになったんだ

それから数ヶ月が経って独りで過ごすことができるようになった頃に、姉さんは僕の前から姿を消す。寂しそうに笑っていたのを、ぼんやりと覚えている。そんな顔をしていた理由はきっと、僕を置いて行くからではなく、要兄さんに別れを告げたことを後悔していたからなのだろう。

今思えば、距離ができてよかったのだと思う。もし傍にいたら、僕は姉さんに冬花を重ねてしまったかもしれない。仮にそうなっても要兄さんが全力で止めただろうし、それを許すほど姉さんは甘くはない。だけど姉さんに誰か−−たとえそれが冬花でも−−の姿を重ねることはしたくなかった。

あのチェーンを使って、僕が冬花の所へ逝こうとしたと知ったら、姉さんはなんと言うだろう。要兄さんのように止めただろうか。きっと涙を流して抱き締めてくれただろう。それなのに要兄さんと同じ場所には決して立たせてくれない。どこまでも姉として、僕を救う人。冬花を失って、空虚な心のまま2年と数ヶ月が過ぎた頃、姉さんが帰って来た。その頬に涙が伝うのを見て、形容し難い情念が湧き上がる。呆然としたままの要兄さんに詰め寄って尋ねた。

────要兄さんが泣かせたの?

久しぶりに自ら声をかけた気がする。この2年、この人は僕にとって煩わしい存在だった。そして冬花のことに限らず、心底にあった嫉妬心が起因していたことは否定できない。鼓膜を揺らした自身の声は、意図したよりもずっと冷たくて、そうして初めて胸を支配している感情の正体が怒りなのだと知った。

────傷付けるしかできないなら、僕も黙っているわけにいかない。姉さんを大切に思っているのは兄さんだけじゃないからね。兄さんは姉さんにとって特別だから、今回は目を瞑る。でも…もしまた泣かせたりしたら、容赦しない

要兄さんが何か言う前に背を向けた。リビングを出て一瞬、姉さんの後を追おうと思ったけれど留まる。棗兄さんと梓兄さんが一緒にいるだろう。そこに僕が行ってもあまり意味はない。小さく息を吐いて目を閉じると、残像のように姉さんの泣き顔が浮かんできた。

それから冬花の死と、姉さんへの想いを断ち切るように絵麻かのじょを愛そうとした。いや、確かに愛した。盲目的なまでの想いを押し付けた。そんな暗闇の中で、光を見出そうと必死だった僕を救ってくれたのはまた姉さんなのだから、なんだか可笑しくなる。冷たい手で叩かれた頬の熱を思い出せば、自ずと聞こえてくる声が僕の心を明るく灯した。

────光の下に導くことはできる

あのクリスマスイブの夜、道を誤りかけた僕に姉さんがくれた言葉。やるべきことが決まったと告げたとき姉さんは心底嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、何故だかもう一度、その心の中に居場所を与えられた気がした。

次に姉さんに会ったのはモデルをしていることを告げたときで、彼女はまた暗い表情をしていた。無理に笑った顔なんて見たくない。嫉妬心を押し殺そうとする姿に「そのままでいい」と言ったのは、僕自身の願望だったのかもしれない。胸に抱いた嫉妬を殺してまで要兄さんの傍にいるくらいなら、自分の方が幸せにできるのではないか。そんな愚かなことを一瞬でも考えた僕を戒めてほしかった。

その後の姉さんについて僕は別の人から教えられた。ある仕事で琉生兄さんと一緒になったとき、研修でフランスに行くのだと告げられる。「そうなんだ」と短い返事をしたあと、次の言葉を聞いて心が波打った。静かな水面に石を投げ入れられたみたいだ。

────祈織くん、お願いがある。姉さんから目を離さないで。要兄さんのことで、心が揺れてる。頑張ったけど、僕じゃダメだった。祈織くんにしか頼めない

モデルをしていることを告げた日以来、姉さんとは会っていない。定期的に雑誌を送ったり、メールのやり取りくらいはあるけれど、それだけだ。顔を見ていないし、電話もしていない。幸せを願っているのに、自分が幸せにしようとは思っていなかった。その所為で気付けなかった変化だ。

────もういらなくなったからね

それを聞いて、要兄さんは何を思うのかを想像しながら軽くなった首元を撫ぜた。さして重量のある物ではなかったのに、数年に亘って身に付けていたからか、そこに何もないことに違和感がある。僕は今日、冬花を失ってからずっと肌身離さず持っていたクロスを手放した。いや、返したと言った方が正しい。絵麻かのじょを経由して要兄さんへ。

────当分会えないけど、きちんと生きているから心配しないで

直接言わないのは、僕なりの悪足掻きみたいなものだろう。結局、要兄さんが望んだ通りに、僕は息をしている。それが少し悔しいのかもしれない。嘘で形作られたあの十字架クロスは、良くも悪くも僕を支える存在だった。そういう意味では要兄さんが意図した通りの役割を担えていたのだろう。それを手放すことが何を意味するのか、あの人ならすぐに分かるはずだ。

──── 泣かされたらまた怒ってくれる?

姉さんかのじょは今、泣いているのだろうか。涙を流す理由も、それを止められるのも、たったひとりだと分かりきっている。それでも、ずっと味方でいると言った。それは弟としての言葉だと思ってくれていい。でも心のどこかで僕の小さな恋心おもいに気づいた姉さんが困った顔をするのを見てみたい気持ちもある。

ひとつだけ残っていた仕事を片付けて、事務所の車で目的地の近くまで送ってもらった。時刻は午後10時半、もう寝ているかもしれない。家の明かりは点いていなかった。ここまで来たのだから、話をしなければならない、何より琉生兄さんの言葉の真意を確かめないことには、自分の気が収らなかった。

インターホンに手を伸ばしかけて、はっと顔を上げる。朝日奈家のマンションがある方角から姿を現したのは、姉さんだった。いつもなら驚きながらも笑ってくれるのはずなのに、街灯に照らされたその顔は涙に濡れていた。常に規則正しい鼓動を刻んでいた心臓を強く掴まれたような心地がする。この思いの正体を、僕は知らない。もし知れば、もし名前を付けてしまったら、きっと困らせてしまう。それなら僕ができることは−−−。