一等綺麗で大切な

※祈織視点

「祈織・・・・お願いっ、話を聞いてくれる?」

気丈に振る舞っていても、声が震えているのが聞いて取れる。この人が弱い自分を見せるのはたった一人だけで、それは僕ではないはずだ。その場所にいることを望まれた兄は今、一体どこで何をしているのだろうか。これは、きっと怒り。姉さんがアメリカから帰国したときに感じたのと似た感情だ。

「父さんは出張でいないの。今、お茶を淹れるね」

姉さんが上手くもない作り笑いを浮かべる。今まで積み重ねてきた経験を活かせば、気の利いた台詞も行動も用意できた。相手が違えば迷わずそうしただろう。そうしなかったのは、この人に上辺だけの自分を見せたくなかったからだ。

今日ここに来るまで、要兄さんに忠告した通りに"容赦しない"つもりでいた。それなのに、姉さんの涙を前にして、自分の無力さを思い知らされる。誰かが耳元で「お前では駄目だ」と囁く−−−足掻いてみようか。思いつく限り優しい言葉を並べて、力の限り抱きしめたら、姉さんは笑ってくれるだろうか。自分の考えにふっと笑みが零れる。今の僕にできるのは、守ることだ。無意識に葬った想いを掘り起こすことじゃない。姉さんが心から笑えるように、幸せを享受できるように行動する。

「祈織、もしかして具合が悪いの?」
「ううん、少し考え過ぎただけだよ。僕は大丈夫だから聞かせて、何があったのか」

姉さんが心配そうにこちらを見る。その瞳は確かに僕だけを映していても、最奥にはいつだって要兄さんがいる。確証はないけれど、僕と同様、淡い想いに蓋をした兄弟もいただろう。そしてきっと行き着く結論は皆同じだったに違いない−−−姉さんは要兄さんの隣にいるときが一番綺麗だ。

「要が修行から戻って来たのは、絵麻ちゃんのためなの。あの子のために、要は戻って来た。優しい要が好きなのに、その優しさを向けるのが彼女だと冷静じゃいられなくなる。それに…っ、修行に出た理由もあの子なのかもしれない!私は、祈織のことが理由だと思い込もうとしてたけど、
「姉さん、落ち着いて」

決壊したように姉さんが話し出す。涙に濡れたその頬に手を添える。僕の呼びかけに一度言葉を切ると、姉さんはぎゅっと目を閉じた。溜まっていた雫がまた頬を伝って顎から落ちる。やっぱり、僕ではとても拭いきれそうにない。気づかれないように小さく息を吐いてから尋ねる。

「要兄さんと、その話はした?」
「してない・・・・でも、こんなこと要に言えない」
「駄目だよ、まず話をしないと。確かに、絵麻かのじょのためなのは本当かもしれない。ああ、勘違いしないで。僕が言ったのは、絵麻かのじょ守る・・ためって意味だよ」

そう言うと、姉さんは怪訝そうな顔をした。まるで意味が分からないといった様子だ。誰がそう仕向けたかは知らないけれど、いい判断だと思う。絵麻かのじょに安全な環境で選択をさせるために要兄さんは必要な存在だ。騎士の役割を担うには最適な人選と言っていい。しかし、その所為で姉さんが泣く羽目になってるのは許せない。

「とにかく、兄さんと話をして。そのときに姉さんの気持ちも伝えるのを忘れないでね。愛情だけじゃなくて、さっき僕にしたみたいに思っていることをきちんと言わないと駄目だよ」

自分がどれだけ絵麻かのじょに嫉妬しているのか、それを要兄さんに伝えるのに抵抗があるらしい。抵抗と言うよりは戸惑いか。あの兄の恋人でいるのだから、小さな嫉妬ならこれまで何度もしてきたに違いない。今になってそれを言葉にすることを憚る気持ちは分かる。だけど、伝えなければ気付かれぬまま過ぎ去ってしまうかもしれない。兄さんがこの人を手放すことはないだろうけれど、ふたりには対等でいてほしい。

「ちゃんと要と話すよ、約束する」
「うん」

僕が頷くと、腫れた目を細めて姉さんは笑った。幼い頃、まだ僕の背が姉さんよりも低かった頃に、しゃがんで頭を撫でてくれたときと同じ顔だ。今もしも、その髪を撫でたりしたら怒られるだろうか。邪な気持ちを押し込めて、思考を戻す。

やっと話の大筋は掴めてきたけれど、どうして今なのか。要兄さんが修行から戻ったのは随分前だ。いくら絵麻かのじょのことがあるからと言っても、姉さんの変化に気付かないような要兄さんじゃない。つまり何とか持ち堪えていたのに、後押しするような出来事が起きたに違いない。

「もうひとつ、あるよね?今日起きたことを教えて」
「・・・夕方から弥に勉強を教えていたの。それで、10時くらいかな。さっきの話をしようと思って、要に会いに行ったんだけど・・・っ、

言葉に詰まる姉さんに、自分の中で何かが閃く。ひょっとすると、根本的な原因は僕かもしれない。答え合わせをするように、言葉を繋げる。

「要兄さんが、絵麻かのじょを部屋に招き入れたとか?」

どうやら予想は的中したらしい。何で分かるのと、困惑顔で訴えかけてくる。恐らく、彼女が要兄さんに会いに行ったのは僕の話をするためだ。あのクロスを返すためと言ってもいい。逆を言えばそれだけだ。でも僕がそう断言したところで効果は薄いだろう。もし、彼女ではなく姉さんにクロスを託していれば、この人がこんな風に泣くことはなかったのだろうか。でも、そうしなかったのには理由がある。ただのエゴだけれど、姉さんには要兄さんを通して僕を見てほしくなかった。"要兄さんの弟"ではなく"朝日奈祈織"を見てほしかった。

兎にも角にも現状が変わらない以上、姉さんには早く要兄さんと話をさせた方がいい。本人はたぶん、姉さんがここまで思い詰めてることを知らないだろう。他のことには嫌になるくらい目敏いくせに、どうして気が付かないのか。

「原因はたぶん、僕だよ。今日、絵麻かのじょに頼み事をしたんだ。要兄さんにクロスを返してもらうようにお願いした。部屋に招き入れたことは甚だ疑問だけど、姉さんが気にやむことは、
「ちょっと待って。あのクロス、返したの?」
「うん……僕にはもう必要ないから」
「そう、なんだ・・・っ、祈織」

頬に何かが触れる感覚に顔を上げる。目に涙を湛えた姉さんの手が、僕の頬を包み込んだ。僕のために泣いてくれる人がいて、それが他ならぬこの人だということが堪らなく嬉しい。いつの間にか自分のよりも小さくなった手を取って引き寄せると、その身は容易く胸に飛び込んできた。状況が飲み込めないのか、瞬きを繰り返す姿に嗜虐心が刺激される。

「(泣かせたんだから、少しくらい大目に見てよね)」

ここにはいない兄に向けて呟く。弱っているからだろう、らしくない失態だなと思う。姉さんが、要兄さん以外の人間に抱き締めることを許すのを初めて見た。いつだってこの人は、他人には能動的に接していた。要兄さんか、 それ以外たにんか−−−僕はずっと後者だった。すっと髪を撫でると、姉さんは我に返ったように身体を強張らせて距離を取ろうとした。さすがに切り替えが早い。込み上げてくる笑みを隠さずに、逃げようとする腕を掴む。

「祈織、離して」
「僕のこと、要兄さんだと思えばいいよ」
「・・・それ、本気で言ってるの?」

全く動じない毅然とした口調に、やっぱり姉さんだなと感心する。怒らせてしまったみたいだ。決して冗談や生半可な気持ちで言ったわけではないけれど、真っ直ぐに見返してくる瞳に怖気づきそうになる自分がいる。目を逸らしたくなった時点で、僕には要兄さんの代わりは務まらないのだと悟った。

「たとえ祈織がそれを望んでも、私は応えてあげられない。要にしたいと思うことを貴方にしたいとは思わないし、要が私にくれるものを貴方に求めることもない。それは別に貴方に対してだけ言えることじゃないけど、それだけは不変だから」

淡々と紡がれる言葉はとても残酷だ。同時にこの上なく優しくもある。もう二度と芽吹くことのないようにちゃんと恋心ぼくの息の根を止めてくれる。姉さんは、正しい選択ができる人だ。それはこの人の美点で、そういう所に惹かれたはずなのに、いざ自分に突き付けられると結構堪える。

「でも祈織は他人じゃない。要は私にとって唯一だけど、貴方が特別なことも本当だよ」

まさか下げてから上げてくるとは思わなかった。そうか、二分されるわけじゃなかった。要兄さんか、特別か、それ以外か−−−どうやら僕は"特別"にカテゴライズされるらしい。ここにきて冷静に分析する自分が滑稽に思えてくる。

「特別の中で僕はどれくらいの位置なの?」
「ええ・・・それは難題だな、うーん、一位タイかな」
「ふふっ、そっか」

予想よりも上位で思わず笑ってしまう。同じく先頭を走るのは、和眞さんと、あとは幼馴染である椿兄さん達だろうか。たぶん、僕ら兄弟の間にさして差はないだろうけれど、自分の現在地に少し嬉しくなった。

「もうひとつ、意地悪な質問していい?」
「どうぞ。もう何を訊かれても驚かないから」
「要兄さんだけにあって、僕や他の兄弟にはないものって何なの?」
「−−−・・・・私をときめかせる能力。あと、私に自由に触れる権利」

くすりと笑って姉さんが言う。それがとても希少なものだと、分かっているのだろうか。もしかしたら気づいていないのかもしれないけれど、少なくとも後者は姉さんから要兄さんに与えたものだ。その権利を与えられて初めて唯一になれるのだろう。それこそが、この人なりの愛なのだと思ったら、目の前の笑顔がより眩しく映った。

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とヒロインの関係が好き