望みは果てしなく

「光!!!」

部屋に轟く声と共にゴッと鈍い音がして、光の身体が漫画みたいに吹っ飛んで床に転がった。一瞬、何が起きたのか分からず呆然としてしまう。気がついたら引き寄せられて、左肩に回る腕。拳を振り下ろした状態のまま肩で息をしているのは、私の思考を席巻していた要だ。光に心を乱されたばかりだからか、キスひとつで何をそんなに慌ててるの、と他人事みたいに思ってしまった。逆の立場なら自分だって冷静じゃいられないくせして、上から目線もいい所。

「くっ、ははははは!!」

場違いな高笑いをしながら光が起き上がった。下唇からは血が滲んでいる。日頃あんなに手入れしているのに全く気にする素振りはない。要の拳か、私が噛み付いたのが原因なのか分からないけれど、とりあえず手当をした方がいい。近づこうとしたのに、要がそれを許さなかった。

「相当怒ってるわね・・・前に殴られた時とは比べものにならない。ふぅん、自分はフラフラしてても触らせたくないなんて我儘な男。それにしても、まさか吹っ飛ばされるとはね」
「なんのつもりだ」

肩に回された手を叩き落としてやろうと思ったのに、無理だった。自分に向けられたわけじゃないけど、要が発した声の冷たさに身体が硬直してしまう。それなのに、肩を包む手は優しい。私の怯えが伝わったのだろう、その胸元に頭を引き寄せられた。視界が黒一色になる。要のシャツの色だ。

「どうもこうも、本当のことを教えてやったのよ。アンタが修行に行った理由と結末を、ね。まあ本人は薄々勘づいてたみたいだけど」
「勘づくって・・・おい、一体何の話だ?」

とても口を挟める心持ちじゃなくて、傍観する形になる。顔を上げると、要の真剣な表情が見えた。こんなに長い間一緒にいて、初めて見る顔だ。もしこれが演技なら、要も風斗みたいに役者を目指した方がいいかもしれない。

「ははっ、とぼけようなんて・・・つまらない」
「なんだと?」
「アンタほどの男が言い訳だなんて見苦しいって言ってるの。さっさと認めなさいよ、あの妹を女として見ていたんでしょう?こいつは振られたときの保険ってことよね」

尋問するみたいに光が言う。もしかしたら、取材相手にもこんな態度なのか、さすがノワール作家だ。でもこのまま光に全て任せるわけにはいかない。

「光・・・いくら弟だからって、今回ばかりは我慢ならない。お前は、俺の逆鱗に触れた」

ぞくりと、身体が震えた。部屋の温度が下がった気すらした。本気で怒ってる。諭すみたいな雰囲気じゃない。こんな要、初めて見た。このままだと殴り合いに発展しかねないほどの空気だ。でも、要と話をしなければならないのは私であって光じゃない。肩に置かれたままの手をやんわり解くと、不安げに要がこちらを見つめる。

「そんな顔しないで、逃げたりしない。光・・・お楽しみ中に悪いけど、観戦はここまでね」
「あら、つれないわね」
「ありがとね。あとその傷、ちゃんと手当しなよ」

お礼を言って口元を指差すと、ひどく驚かれる。本心半分、嫌味半分の『ありがとう』は光にとっては予想外だったみたいだ。恋心わたしが生きるか死ぬか、どちらにしても避けては通れない。たぶんわざと要を怒らせて、本音を聞き出そうとしてくれた。憎まれ役を買って出てくれた、そのお礼だ。本人は自分が楽しむためだと言うだろうけれど。すぐに私の真意を汲み取った光が手を振ってリビングを出て行くと、必然的に要と二人になる。

「名前」
「ちゃんと話すから、でも少しだけ待って。電話をかけたい人がいるの」
「電話・・・・分かった」

部屋で待っててと頼めるような雰囲気じゃなかった。逃げないって言ったのに、随分信用がないらしい。小さく息を吐いてテラスに向かう。忙しいだろうに、運がいいのか相手はすぐに電話に出た。

「もしもし、姉さん?」
「祈織」

名前を呼んだら、ひゅっと息を飲む音がした。一言発しただけで私の心情を察するんだから、やっぱり要の弟だな。テラスから見える真っ暗な空を見上げて、大きく息を吸った。

「今から要と話してくる。お願いがあるの……背中を押してほしい」
「−−−大丈夫だよ、姉さん。頑張って」
「うん…ありがとう、祈織」

祈織らしい、大きくないけれど、はっきりとした声だった。リビングに戻ると、要と目が合う。琉生や右京兄さんが言っていたように寂しそうで、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。

「お待たせ、要の部屋でいいの?」
「ああ」

いつもなら自然に繋がれるはずの手が、迷うように空を切る。ほんの少しの間で、要がこんなに臆病になっていたことに気付きもしなかった。そうさせたのは私なのに、自分の心を保つので精一杯だったなんて情けない。私から手を繋ぐと、要はふっと優しく笑った。
部屋に入れば、鼻腔を支配する匂いに泣きたくなる。一度だけ目を閉じて、涙を奥へと追いやった。背中を押されてベッドの上に並んで座ると、いつもよりも距離があることに胸がざわつく。

「振り払ったりしないから、いつも通りにして。手を繋ぐのも、隣に座るのも躊躇うくらいなら、一思いに振ってくれた方がいい」

散々怯えていた私が言うのもおかしいけれど、立場的にはどこからどう見ても私の方が崖っぷちだろう。そして何より、要は私よりも強い。それなのに、妙なところで臆病だ。私の言葉に、迷子みたいな顔をするから少し笑ってしまった。そっと大きな手に触れた瞬間に、指と指が絡まってベッドの上に押し倒される。

「一番大切な君を傷付けたくない。それなのに、どんなに拒まれても、俺はきっと君を離してやれない。この数ヶ月、名前の様子がおかしいことに気付いていたのに、出せた結論はそれだけだ。俺は祈織のときと何一つ変わっていない。結局どこまでも自分勝手だ」
「まず大前提として、要は私が一番大切なの?」

その問いに、要はこの世の終わりみたいな顔をした。まずいな、地雷を踏んだかもしれない。でもここをはっきりさせないと、何一つ解決しないのだから仕方ない。虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。視線を逸らしたくなるのを堪えた。自分の良いように解釈してはいけない。きちんと要の言葉で、違うと、私だけだと言ってくれるまで浮かれるな。そう自分に言い聞かせていると、絡み合った指に力が込められた。

「光に何か言われたから?それとも俺が君以外を選ぶかもしれないって、本気でそう思ってるの?」
「ごめん。順を追って話すから、とりあえず、どいてくれる?」

唇が触れ合いそうな距離に、慌てて胸を押し返すけれどビクともしない。え、この状態で話すの。さっきまで捨て犬みたいな顔してたくせに、今は猛獣と化している。光に付いて来てもらえばよかったと本気で思ってしまった。

「えっと、まず私は…要が修行に出たのも、戻って来たのも絵麻ちゃんのためだって認識してるんだけど、それで合ってる?」
「・・・その、"妹ちゃんのため"って言うのが俺の認識と同じかどうかが微妙だけど、確かに戻って来たのは彼女のためだ」

おずおずと問うと、ふぅと息を吐いて要が身を起こした。腕を引かれて私も起き上がると、ベッドの上で向かい合う形になる。改めて、要の答えを咀嚼してみたけれど、いまいちピンとこない。そういえば祈織も似たようなことを言っていた、守るとかなんとか。

「それって絵麻ちゃんを光から守るためってこと?」

真顔で尋ねた私に、要は一瞬ぽかんとして苦笑いを浮かべた。なんだか馬鹿にされた気がしてムッとする。じとりと睨むと、「ごめん」と頭を撫でられた。

「まあ確かに狙われてるし、俺が戻ったのは彼女を守るためだ。でも相手は光だけじゃない、名前もよく知ってる俺の弟達だよ」
「え・・・それって椿達のこと?それなら、絵麻ちゃんあのこを傷つけるやり方なんて絶対しない」
「なにも外的要因がなければ、そうだろうね。でも、光がいる。その意味は名前も分かるだろう?」

思ってもみない答えに戸惑う。でも"光がいる"と言われて、成る程と思ってしまった。あの男はどこまでもこの衝突で楽しむつもりらしい。

「つまり、今まで保てていた均衡が、光が掻き乱したことで崩れたってこと?それで皆、余裕がなくなって絵麻ちゃんに対して紳士的に振る舞えなくなった」
「いや、均衡は崩れてはいない。俺が戻って来なかった場合、そうなってた。光が提示した条件がそれだったんだ」
「うわぁ、性格悪…今に始まったことじゃないけど」

確かに、要が修行から戻ったあとも何度か皆と接しているけれど、不穏な空気は感じなかった。もちろん、私が知らないところで事は進んでいるのだろうけど、ひとつ疑問は解決した。そして、はたと気づく。光がさっき『前に殴られたとき』と言っていたのは、そのときのことだろうか。確かに、大事な兄弟の恋路を前にそんな条件を出されたら、私でも殴るわ。気にはなるけど訊かないでおこう。

「次に修行に出た理由は、二つある。一つは祈織のこと。もう一つは俺自身の心の整理だ。誤解を恐れず言うと、君への愛を確かめるため」

一つは予想通りだ。祈織のことがあってから、要は自分を責め続けていた。完全にあの子が立ち直ったと安心はできないけれど、クロスを返したのだから少しくらい張り詰めていた糸を緩めてもいいのだろう。もう一つの理由も、ある意味では予想通りなのかもしれない。私への愛を確かめる−−−つまり、それが一瞬でも揺らいだということだ。

「本当は言わないつもりだった。でもそれは卑怯だよな・・・名前と別れていた間、確かに俺は彼女に惹かれかけていた。情けないことに、君がいなくなった寂しさを他人で埋めようとしたんだ」

苦しそうに顔を歪めて話す要を見て「馬鹿だなぁ」と声に出して言いたくなった。もしかしなくても、それで私が要を嫌いになるとでも思っているのだろうか。急に母性本能じみたものが芽生えてきた。

「あーあ、私が振ってなければ、要も揺らがなかったのかなぁ・・・なんてね」

わざとらしく言って顔を覗き込むと、要は戸惑ったように私の名前を呼んだ。こんなことなら、アメリカ人の一人や二人引っかけておけばよかったかな。それでも結局、要より好きになれる人なんていなくて、やっぱり終わってしまっていただろう。

「ねえ。もしも今……あの子と私の両方から手を伸ばされたとしたら、私の手を取ってくれる?」

卑怯な聞き方だと思う。だからせめて、目は逸らさない。要は守るための嘘はつくけれど、傷つけるための嘘はつかない。それを知っているから、じっとその瞳を見つめた。膝の上に置いていた私の左手を、要の右手が包んで持ち上げる。されるがままに見ていると、掌に優しくキスを落とされた。

「君の手を、迷わず取るよ。約束する」

愛おしそうに私を見る瞳に、胸が温かくなる。大事なことを言うとき、目を逸らさない。人として当然だけど、難しいことを要は簡単にできる。そういう所が堪らなく好き。要が、握った私の手を自分の頬へ当てる。なんだか大きな犬みたいで頬を撫でてみた。安心したような顔の要を見て、スッと表情が消える。次の瞬間には、自分でも驚くくらい性格が悪そうな声を出していた。

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とヒロインの関係が好き