天邪鬼は大目に見て

「あ、もうすぐ昴の誕生日じゃん」
「頼むから傷を抉るなよ」
「傷って……ああ、ごめん。忘れてた」

大学4年、9月。昼時の都内のカフェ。就職先も決まり、あとは単位を回収して卒論を片付けるのが私達の仕事だ。なんとなしにスケジュール帳を開いて、ふと思ったことを口にした。それが目の前の男には些か沁みたらしい。棗がゲーム会社への就職を決めてから、彼と昴は絶賛喧嘩中なのだ。態とらしく手を合わせて謝れば、ジトッとこちらを睨んでくる。

「まさか昴に謝ったりしてないよね?」
「いや、怒らせたんだから『悪かった』くらいは普通に言うだろ……なんだその顔」
「何に対して謝ったの?陸上をやめたこと?」

思ったより怒気の籠った声が出て、自分でも驚いた。片眉を上げる幼馴染はたぶん、どうして私が怒っているのか分かっていない。素直で優しいのは棗の美点だと思うけれど、自分の選択には自信を持ってもらいたい。まあそれも私が口を出すようなことではないのだが、遠慮するような間柄でもない。

「堅実なのは悪いことじゃない。だから、胸張ってよね。それとも、後悔するって分かってて選んだの?」
「お前、相変わらず容赦ないな。後悔しないようにやれ、だろ?分かってるよ……ありがとな」
「家族なんだから、当たり前でしょ。だからさっさと昴と仲直りしてよね。今までべったりだったのに、ぎくしゃくしてるなんて気持ち悪い」
「もっと言い方ってもんがあるだろ」

呆れたような声で言う棗に、小さく笑った。でも本心だ。棗は昴が一番心を開いていた兄弟だから、早く仲直りしてほしい。そんなことを思いながら電車に揺られる。棗は午後も授業があるらしく、解散となった。最寄りの改札を抜けて、いつも通りの帰り道。近所の公園で見慣れた顔を見つけた−−−昴だ。バスケの練習だろう。練習熱心だ。そこが良い所だけど、真面目すぎて姉としては少し心配である。

「昴!」
「……ああ、名前姉。大学の帰りか?」
「うん、昴こそ学校は?」
「今日は模試だったから、午後は休み」
「あー、成程ね。それにしても疲れてないの?」
「毎日ボールに触ってないと落ち着かないんだ」

それはもう病気ではないのかと思ったけれど、言うのはやめた。曖昧に頷く私を、少し不思議そうに見てくる。さっきまで棗と昴の話をしていたから、ついその話題を出しそうになるのを慌てて堪えた。負けず嫌いな昴の場合、火に油だ。余計にややこしくしてしまうのは避けたい。

「ねえ、私にバスケ教えてよ」
「はぁ!?なんだよ急に……」
「いや、大学生って体育の授業ないから運動する機会が減っちゃってさ。昴だって痩せてるお姉ちゃんの方がいいでしょ?」
「もう4年だろ。それに俺は、別に名前姉が太ったところで幻滅なんてしない」

真顔でこういう事を言う。これで本気だから厄介だ。この純情ボーイめ、と顔を顰めた。昴は小首を傾げながら、側にあったゴールへと近付いていく。そして、振り向いて言った。

「早くしろよ、やるんだろ?」

少し照れくさそうにこっちを見る顔が可愛い。なんだかんだでお願いを聞いてくれるあたり、優しい。荷物をベンチに置いて、上着を脱いだ。小走りで駆け寄ると、昴は仕方なさそうに笑う。

「あれ……また背伸びた?」
「そうか?まあバスケはデカい方が有利だから、伸びるに越したことはないけどな」
「えー、可愛かった昴がこんなに大きくなっちゃうなんて少し悲しい。弟達がいつかみんな私を見下ろすようになるなんて考えたくない!」

ついこの前まであんなに小さかったのに、どんどん大きくなっていってしまう。男ばかりの兄弟だから仕方がないけれど、少し寂しいのは本当だ。兄さん達はいいけど、弟達はやっぱり私には護りたい存在で、どうしても複雑。

「よく分かんねえけど、デカくなったからって家族じゃなくなるわけじゃないだろ」
「そうだけどさ」
「んなことより、シュートしてみろよ」
「え、ああ…うん、そうだね。言っとくけど、バスケ初心者だから、笑わないでよ」

釘を刺す私に、昴は片眉を上げた。その仕草が棗によく似ていて、つい笑いそうになる。そんな事を言おうものなら、昴のバスケ教室はお開きになるだろう。笑うなと言っておいて、こちらが笑ってしまった。一層怪訝そうな顔をする昴に、慌てて表情を消す。言われた通り、見様見真似なフォームでシュートを放った。ボールはへなちょこな弧を描いて、案の定リングに弾かれる。地面へと落ち、虚しいドリブル音が響く。

「うわ、全然ダメだ」
「いや…リングに届いただけマシだろ。ちょっともう一回構えてみてくれ」

昴がボールを拾い上げて、こちらに放る。それを受け止めて、言われるままにもう一度構えてみた。そこでストップと止められる。いつになく真剣な顔で近寄って来るから身構えそうになった。バスケの事になると別人なんだよな。女の子にもこれくらい積極的になればモテるだろうに、と失礼なことを考える。

「ああ、分かった。腕を開き過ぎだ。ほら、ここ」

そう言いながら、昴が私の腕に触れた。この間まで小さくて柔らかかった手は、いつの間にこんなに大きくゴツゴツした男らしい手になったのだろう。自然に脇を締めるように促される。その時だ。

「え、朝日奈!?お前…え、嘘だろ、彼女いたの?」

誰だ。急に声をかけてきた人物に見覚えはない。朝日奈、つまりは昴に声をかけたのだから彼の知り合いだろうか。見たところ向こうも高校生だ。そして身に付けているジャージを見て、納得する。そこには昴の通っている学校名が記されていた。そんな風に冷静に分析していると、予想外の攻撃に見舞われる。

「なっ、違う!!ただの…知り合いだ」

ガツンと頭を叩かれた気がした。知り合い、あながち間違ってはいない。私とこの子の間に血の繋がりはないし、法律上の家族でもない。昴にとってはただの兄の幼馴染。何一つ間違いなどない、真実。それに奥手な昴が女関係で揶揄われれば、こういう反応をするのは当然だ。そしてたぶん、一切悪気がない。分かっている。だからこそ、こんなに傷付いている自分があまりに滑稽で、何も言えなかった。同級生君は、疑うように私と彼を交互に見てくる。挨拶すら言えず、ただその様を見守った。

「いいから、さっさと行けよ!」
「あ、やべ!俺これから塾だった。明日、詳しく聞かせろよな!」

ブンブンと手を振りながら走り去る彼に、なんなんだよと迷惑そうに昴が言った。ああ、ヤバい。思ったよりショックだ。とてもこのままバスケができる心境じゃない。こっちに向き直った昴が、何も言わない私に戸惑うように声をかけている。目を合わせたら、泣きそう。まさか二十歳を過ぎて、こんなことで泣くとか情けない。僅かに残ったプライドを総動員しなんとか目に力を込めて、持ったままだったボールを昴に押し付ける。

「ごめん、私もう帰る!今日はありがと、またね」
「は、ちょ、おい……なんなんだ、一体」

戸惑う弟−−−だと私が一方的に思っている彼に背を向けて、速足で公園を出る。そうだ、棗に口を出せるほど私は彼らに近い存在じゃない。幼馴染の椿達や恋人である要は兎も角、他の兄弟達とは一線を引くべきなのかもしれない。別に一緒に暮らしているわけではないのだし、そうすれば今日みたいな出来事に一々傷付いたりしなくて済む。自問自答を繰り返し、見えてきた自宅にホッと胸を撫で下ろした。今日は早めに寝よう。

「あ、名前ちゃんだ!」
「っ……わ、たる」
「あれ、名前。おかえり」

我が家から出てきたのは朝日奈家の末っ子と長男。弥が嬉しそうに飛び付いてくる。それに雅臣兄さんは目を細めた。よりによってこの二人か。タイミングの悪さを呪いたくなる。要だったら、愚痴みたいに吐き出せたかもしれないのに。言葉に詰まる私を、少し下から弥が不思議そうに覗き込んでくる。丸い大きな瞳に、何も言えないまま嫌な沈黙が落ちた。様子がおかしいことを察したのか、兄さんも怪訝そうにこっちを見てくる。

「名前ちゃん、悲しいことあったの?」

うわ、鋭い。どこぞの無意識ボーイより何倍も鋭いぞ。思わず視線を逸らしてしまう。こんなの図星ですと言っているようなものだ。弥の言葉に兄さんが心配そうに近寄ってくる。まさか原因は貴方達の弟だなんてとても言えない。

「大学で何かあった?それとも要と喧嘩でもした?」
「いや、違うんだけど…ちょっとヘコむことがあって。でも大丈夫、すぐに元気になるから」
「…そうだよね。僕じゃ頼りないか」
「いや、なんでそうなるの!?」

兄さんの頭に耳が見えた。しゅんと効果音がした。慌てて声を上げると、ニコッ微笑まれた。あれ、なにその顔。そこで初めて嵌められたと理解する。

「じゃあ、何があったか教えてくれる?」
「はぁ……そもそもなんで、そこまで心配してくれるの?私はその、確かに椿達の幼馴染だし、良くしてもらってるけど……っ、血は繋がってないじゃん」
「名前・・・それ、本気で訊いてるの?」

やば、怒ってる。正直この人は怒らせると兄弟一怖いんだよな。思わず目を逸らす。そんな私の服の裾をクイクイと引っ張る感覚。下を向けば、弥が不思議そうにこちらを見ている。

「名前ちゃんは僕が悲しいとき、優しくしてくれるでしょ。僕もおんなじ。名前ちゃんが悲しいと、僕も悲しいから。ぜーんぜん不思議じゃないよ」
「……兄さん。この子、絶対将来有望」
「まあ、要の弟だからね。でも、僕も弥と同じ気持ちだよ。血は繋がってなくても、名前は僕の妹。泣いてたら心配だし、笑ってれば嬉しくなる」
「あ!すばるん!」

涙も引っ込んで私が呟くと、兄さんはいつも通りに笑った。単純な私がその言葉にホクホクしていると、弥が思わぬ人物の名前を呼ぶ。まさかと振り向けばバツが悪そうな顔で昴が立っていた。脇にはボールを持って、首の後ろに手をやりながら私を見ている。その仕草は、要が困った時にするやつだ。そう考えて、都合のいい答えが浮かんでくる。こういう事に気付けるのは私の特権だ。それってもう、家族じゃん。

「あー、名前姉…さっきはその、悪かったよ。俺も無意識で、あんなこと言っちまったけど、他人だなんて思ってねぇよ。俺にはたった一人の姉ちゃんだから」
「昴・・・ちょっと、もう一回呼んで!」
「は?」
「だから、姉ちゃんって呼んで!可愛い!」

本当に小さい頃、昴だけがそう呼んでくれた。胸がキュッとなって思わず抱き着く。それを見ていた弥が僕もと騒ぎ出すから、まとめて抱き締めた。恥ずかしそうにしながらも昴は引き剥がそうとしない。負けず嫌いで照れ屋な可愛い奴。おりゃおりゃと弥と同じように頭を撫でてやる。ボサボサになった髪で呆然とする弟にクスッと笑った。

「へぇ、名前にあんな顔させたの、昴なんだ」
「なっ、ま、雅兄……いや、あれはっ、
「そうなの、兄さん。昴にとって私はただの知り合い・・・・なんだって」
「おい、名前姉!余計なこと言うなって!」

いつもの微笑みが嘘のように、悪魔みたいなオーラを漂わせて兄さんが笑う。悪ノリすると、昴は本気で焦ったように私を見た。ああ、幸せだ。優しい兄達、大好きな恋人、大切な幼馴染、そして可愛い弟達。私はこの家族が大好きだ。

−−fin.−−

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