ありったけの愛を

最悪だ。カレンダーを見てそう思った。こういう時、つくづく自分の無関心さを呪いたくなる。今日は2月14日、世はバレンタインである。そして現在の時刻は6:02。そう、私は忙しかった。決して忘れていたわけではない。店先に並んだカラフルなチョコレートを見た時や、会社で同僚に話題を振られた時、ちゃんと用意しなきゃと思っていた。ただ私も社会人なわけで、恋人≧仕事になってしまうのは仕方ない。「俺と仕事どっちが大事なの?」と訊かれたら、即答できる自信は正直ない。しかしまあ、要はそんな事は訊かないだろうし、私がそういう女だとよく知っている。で、話を戻して結論−−−他に優先すべき事項が多すぎただけだ。たまたま、バレンタインより、気を回さなければならない事柄が重なった。

「なんて、全部言い訳じゃん・・・ああ、どうしよう。市販のやつをあげる?いやいや、絵麻ちゃんの完璧なチョコを前にしてそんなの渡せるわけない」
「朝から何をぶつぶつ言ってるんだ」

大きな欠伸をしつつ、背後から父さんが声をかけてきた。ひとりで唸っていた私に、怪訝そうな顔を向けてくる。見慣れたはずのその姿が、この時ばかりは天使に見えた。今日の私は中々冴えているらしい。父の両肩を掴みながら、口元に笑みが浮かぶのを感じた。

「・・・閃いた。ね、父さんの会社でバレンタインのチョコ作ってたよね?あれ、いくら?」
「安いので500円、高いのは2,000円だ……まさかとは思うが、要くんにあげるのか?愛する妻からのバレンタインが養父の会社の商品だなんて、有り得ないだろう。愛想尽かされても知らないぞ」
「だよね。打つ手なし、か・・・は!諦めるのは早い。いるじゃん、こういう時の救世主が!」

半ば叫びながら階段を駆け上がる。充電中の携帯を引っ掴み、目当ての人物の連絡先を表示した。あの人のことだから起きているに違いない。お願いだから、今日が裁判じゃありませんように。祈ながらコール音を聞いて、3回目が鳴り終わる前に生真面目な声が鼓膜を揺らす。

「どうしたんです、こんな朝早く」
「右京兄さん、今日仕事?」
「いえ、休みですが、
「やった!お願いがあるの、バレンタインのお菓子作り手伝ってくれない…ですか?」

休みという単語を耳で拾った瞬間、遮るように懇願する。数秒間の沈黙が落ちたあと、盛大に溜息を吐かれた。こっち側に回ったのは随分と久し振りだ。子供の頃は椿と悪戯をする度に叱られていたけれど、大人になってからは初めてかもしれない。

「全く・・・どうせ後回しにしていたのでしょう。いいですか、何事も直前になって慌てるくらいなら、事前にきちんと準備をしておくべきです」
「スミマセン」
「心の込もっていない謝罪など結構です」
「はい」

本人が目の前にいないのをいい事に、遠い目をしながらコクコクと頷いた。こういう時はとりあえず肯定すべし。長年の経験から培った対右京兄さんの最善策。椿なんかは常習犯だから通用しないけれど、それなりに真面目な私なら、まだいけるはずだ。

「まずは材料ですね。何を作るかは決まっているのですか?」
「まだ。ちなみに…絵麻ちゃんは当然何か用意してるよね?被らない方がいいと思ったんだけど」
「彼女なら昨夜、人数分のチョコレートを用意していましたよ。私も先程いただきました」
「左様でございますか」

声音が刺々しい。叱責の色が滲んでいる。思わず喉の奥でうめき声を上げてしまう。女として終わっていると言いたいのだろう。ええ、ええ、分かっておりますお兄様。心でそんな事を思いながら、現実では小さくもう一度謝罪をしておいた。

「あ、そうだ。親戚の人に林檎を貰ったから、アップルパイとかどうかな?皆で食べられるし」
「私は構いませんが・・・要には別に用意した方がいいのではないですか?」
「そんなこと言っていられる段階はもう過ぎてる。まあ、そんなに心配しないで。要には正直に謝るよ」

もういい大人なのに、兄にバレンタイン事情を心配されるのは少しばかり恥ずかしい。しかし現実は変わらない。今日は2月14日で、地面からチョコレートが湧いて出てくるはずもなく。全て自業自得だ。こうなったら、少しでも皆に喜んでもらおう。

結局、店が開くのを待ってから材料を買って、朝日奈家で作ることになった。お昼と重なってしまうから、時間は午後。3時のおやつだ。要は今日は仕事だと言っていたから、こんなに早く帰っては来ないだろう。あとは椿あたりの賑やかしがなければ、問題なく遂行できそうだ。なんと言っても、こっちには朝日奈家の料理長が付いている。

「いや、物凄く重いな。失敗した、やっぱり誰かに来てもらうんだった」

独り言を吐きながら道を歩く。林檎がかなり重くてしんどい。ヒーヒー言っていると、背後から名前を呼ばれた。聞き覚えのある声だが、今の私にとっては神の声だ。振り向けば、怪訝そうにこちらを見る侑介の姿があった。満面の笑みで歩み寄ると、益々顔を引き攣らせる。姉に対してあんまりな反応だ。

「侑介!ナイスタイミング!」
「なにしてんだよ、かなり怪しかったぜ」
「これからマンションに行くところなの。少し荷物持ってくれない?」
「いいけど、何をこんなに買い込んだんだ?」

私の手からヒョイと袋を取り上げると、そう尋ねてくる。逞しくなったなと思いながら事情を話せば、呆れたような視線を向けられた。右京兄さんは兎も角、侑介にそんな顔されると些か傷付く。

「おや、侑介も一緒ですか」
「途中で会って、手伝ってくれたんだ。あれ、珍しく誰もいないの?」
「琉生はいますよ、ソファで寝ています。まあ昨日は遅かったらしいので大目に見ましょう。あとは、
「名前ちゃん!!お菓子作るの!?」
「うわ、びっくりした・・・そうだよ、アップルパイを作るの。一緒に食べようね」

右京兄さんを遮って弥が乱入してくる。目をキラキラさせて、私の手元を覗き込む。背が大きくなったとはいえ、まだまだ子供だな。弟達をリビングへと押しやって、早速取り掛かる。

「なんか久し振りだね、兄さんと並んで料理するの」
「そうですね。大人になってからは貴女は自宅か要と外で食べることが多くなりましたし、彼女が来て私がキッチンに立つ機会も減りましたから」
「絵麻ちゃんの料理も美味しいけど、私は兄さんのご飯が大好きだよ。帰って来たなって感じがするから」
「っ、そう…ですか」

どこか寂しそうな声に、つい言い返してしまった。慰めなんかじゃない、本心だ。私を含めた兄弟達はこの人の作ったもので出来ている。勝ち負けで決められることじゃないけれど、自信を持ってほしい。私の言葉に口ごもる姿が珍しくて、悪い癖が顔を出す。

「あれ、もしかして照れてる?」
「いいから手を動かしなさい」
「はいはい」

右京兄さんと料理をするのは楽だ。長年の経験から先を読んで、時間を効率的に使い作業をする。必然的に私の仕事も最小限で済む。林檎の甘い香りがしてきて自然と口角が上がった。その匂いに引き寄せられるように琉生が寝惚け眼で歩いて来る。

「林檎の匂い」
「おはよう。寝癖付いてるよ」
「全く、何時だと思っているんですか」
「お腹、空いた」

呆れたような兄さんの説教なんてどこ吹く風。流石は琉生だ。ふらふらとソファへと戻って行く背中に、隣からまた大きな溜息が聞こえた。さて、表面に卵液を塗ったら、あとは焼くだけだ。オーブンに放り込んで洗い物を済ませて、出来上がるまで弥とテレビゲームをしながら待つ。その間に絵麻ちゃんが帰って来て参戦し、見事に惨敗した。棗も言っていたけれど、これはもうプロ。手も足も出なかった。いや、さっきのボタン操作、全然見えなかったんですけど。絶句する私にどこか照れ臭そうな顔をするのが可愛い。そうこうしていると、オーブンが出来上がりを知らせた。のそのそとキッチンに向かう私の周りを弥が飛び回る。子犬みたいだ。

「わあ、美味しそう!ねぇねぇ、早く食べようよ!」
「切り分けるから待って。あと、ナイフ使うからちょっと離れてね」
「はーい」
「あ…私、紅茶淹れますね」

気を利かせてティーポットを用意する絵麻ちゃんにお礼を言いながら、弥用にオレンジジュースを出してあげる。オーブンからアップルパイを取り出して、10当分にした。まず光はいないし、風斗と祈織は仕事で忙しいだろう。昴は宮崎だから無理。棗もこの為に呼ぶのは気が引ける。絵麻ちゃんのお菓子なら飛んで来るだろうけれど、私のお菓子なんて食べ飽きてるし。つまり、数式はこうだ。13(朝日奈兄弟)−5(マンションにいない組)+2(私と絵麻ちゃん)=10である。どうせなら揃って食べたかったけれど仕方ない。もう全員が集まる機会もあまり無いのかと思うと、少し寂しい気もする。

「さて、頂きましょう」
「お、なんか美味そうな匂いすんな」
「あれ、名前。来てたの?」

兄さんがそう言った時、椿と梓が入ってくる。見計らったようなタイミングだ。私と梓が軽く会話を交わしている間に、椿はさも当然といった様子で一番大きなアップルパイを手に取る。ちゃっかりしているな。これでいないのは雅臣兄さんと要だけだ。兄さんも仕事らしい。あとで温めて食べてもらうしかないだろう。皆で手を合わせてフォークを入れると、パイならではのサクッとした音が鳴った。

「てか、なんでアップルパイ?」
「なんでって、バレンタインだよ」
「うわ、マジか。なぁ梓、恋人からのバレンタインが1/10のアップルパイってどうよ?」
「ああもう、分かってます!右京兄さんにも散々嫌味言われたんだから。私が100悪いです。でもこの1/10に愛が詰まってる・・・はず」
「ぶっ!いや、無理があんだろ」

吹き出した椿をじとりと睨んだところで、状況は変わらない。絵麻ちゃんでさえ苦笑いだ。なんだか胃が痛くなってきた。要は理不尽なことで怒ったりしない。だけど、こういうイベントには私よりも敏感な方だ。クリスマス然り、記念日然り。故に拗ねる。それでたぶん終わりだ。そして私は、その優しさに甘えてしまう。ずっとそうだった。なんだか不甲斐ない。いつの間にか綺麗になった皿を重ね、キッチンへ。皆はリビングで会話をしたり、テレビを見たりしている。ひとり無心で皿を洗っていると、悲劇が起きた。

「ただいま〜」

え、なんで。聞き間違えるはずもない、要の声だ。隠れる暇も場所もなく、その姿が見える。そもそも玄関に靴が置いてある時点でお察しだろう。しかし目が合った瞬間、ひどく驚いた顔をされた。どうやら私が来ていることに気付いていなかったようだ。らしくないなと思ったけれど、すぐに納得する。その表情には疲れが滲んでいた。

「名前の幻が見える」
「いや、本人。なんか凄く疲れてない?大丈夫?」
「君に会ったら吹き飛んだよ。なんでうちにいるの?」
「あー、えっとですね・・・話せば長い、
「バレンタインの菓子作りでーす!」
「ちょ、椿!!」

慌てて肘で小突くけれど、時すでに遅し。本当にこの幼馴染は余計なことを。椿の言葉と台に置かれた残りのアップルパイで察したのか、なんとも言えない顔をされた。

「ちゃんと用意できたらよかったんだけど・・・いや、何言っても見苦しいから止める。ごめんなさい」

ゆるゆると視線を下げるなんて、みっともない。罪悪感の表れだ。自業自得のくせに、なんだか泣きたくなってきた。素直に謝ったのか予想外だったのか、椿が息を飲んで戸惑うように私の名前を呼ぶ。散々弄ってきたくせに、なんだその態度は。

「ん」

他に方法が思いつかなくて、腕を広げた。偉そうに言えた立場じゃないけれど、これは要にだけのプレゼントだ。ハグもキスもそれ以上も、私にそれができるのはこの男だけ。しかし全く伝わっていないらしい。稀に見るキョトン顔で数秒。無性に情けなさが湧き上がって俯きそうになった時、ふっと笑う気配がした。次の瞬間、慣れ親しんだ感覚が私を襲う。強すぎず、それでいて優しい抱擁に身を委ねた。堪らなく安心する。ああ、これじゃ私へのプレゼントだ。やってらんねぇと、椿がぼやきながら背を向けたその時、少し屈んで要が言う。

「チョコはいらないよ。一番甘いもの、くれる?」
「・・・いつも思うけど、よくそういう台詞をサラッと言えるよね。言われる方も恥ずかしいけど、言う方も結構あれじゃない?」

よくもまあ普通の顔して言えるなと思う。照れ隠しで尋ねてみた。たぶん、それすらお見通しなのだろう。なんだか気まずくて目を逸らそうとしたら、下顎を掴まれたあと、唇に何かが触れる。決まっている、キスされた。ギョッとして慌ててリビングを見る。誰も気付いていなさそうだ。

「想いが溢れて愛を語らずにはいられないんだよ」
「言葉じゃなくて態度で示してくれればいいの」
「へぇ…態度、ね。それなら今夜、全身全霊でお応えしようかな」

さぞ楽しそうに笑う顔を見て、少しだけ後悔する。口は災いの元。しかし同時に期待が胸に広がった。結局悪くないどころか最高のバレンタインになりそうだ。

−−fin.−−