1. 総司、と名前を呼んだ。はっきりと発したつもりだったのに、耳に届いた自分の声は震えていた。声だけじゃない、心もだ。足元すら不安定で、油断すれば真っ逆さまに堕ちていきそうな感覚がする。堪らなく恐ろしい。そんな私を繋ぎ止めているのは、紛れもなく総司だ。心は離れてしまったのに、名前を呼んでくれた。ちっぽけなその事実が、今の私の命綱。

    「あんた、誰?この子に何の用なのさ?」
    「話がしたい。とても大切な話だ。君の方こそ誰なんだい?彼女の恋人…ではないな。なら、譲ってくれないか?」

    今更、私とこの男で何を話すというのだろう。怒鳴り散らしてやりたいのに、喉に石でも詰まったように言葉が出てこない。負けん気だけは人より強かったはずだ。でも所詮は強がり。恐怖というのは何年経っても、否、一度死んでも根付くものなのだろうか。そう思うと悔しかった。私は未だにこいつが怖いのだ。それが堪らなく悔しい。屈服したくない。

    「嫌だね。恋人だとか、関係ないと思うけど。この子は僕らと一緒に来たんだし、あんたに構う時間なんて無いよ。それに何より、彼女自身が話したくないって言ってるんだ……分かっただろ、さっさと失せろよ」

    感情が押し寄せてくる。胸を覆う恐怖を上回る嬉しさが、込み上げてくる。偽善だろうが気まぐれだろうが構わない。彼が、総司が私の為に怒ってくれている。それだけで、今の私は息ができる。

    「何か勘違いしていないかい?私は君と話しているわけではないんだ」

    男は私を見て、そう言った。気味の悪いくらい優しい瞳だ。何故、自分を殺した女にそんな視線を向けられる。この目は嫌だ。あの時も感じた、兄を思わせる瞳。たったそれだけで受け入れそうになる自分はもっと嫌だ。震える心と唇に鞭を打ち、やっと顔を上げる。と同時に、隣から漂うピリピリとした空気が肌を刺激した。総司が、憤怒している。あの時代では日常だった殺気も、楽しい祭りには不似合いだ。折角の楽しい時間を、無駄にしてしまう。

    「今は、とても出来そうにない」

    声を出したのは私だった。視線が交わる。途端、男の瞳が僅かに揺れた。なんだ、怖がっているのはお互い様か。思わず笑ってしまう。感情に流されて、本心を隠すべきじゃない。たとえそれが伝えたくない思いでも、見栄を優先するな。あの時の闇は、私が断ち切ってみせる。

    「正直、それだけの余裕がない。何より優先したいことがあって…後悔、したくないから」

    本心だった。今の私には、総司のこと以外は全て些細な事だ。この男との確執は、容易く消えるものではない。それでも今は、もっと大切なことがある。ここで飲まれてしまうわけにはいかない。隣の総司がこちらを見る気配がした。何も恥ずべきことは言っていない。だから、胸を張る。貴方の瞳に映る私は、誇れる姿でありたいから。最後まで言い切ると、男の瞳が再び揺らぐ。そしてまたあの顔−−−兄に似た笑顔で言った。

    「そうか……なら、それが終わったらで構わない。いつまででも待つよ。どうしても伝えたい事があるんだ」
    「……約束はしないわよ」

    私の言葉に返事はなく、男は妻を伴って去って行く。その姿が見えなくなるまで、上手く息ができなかった。二つの影が人混みに消えてやっと、身体の力が抜ける。なんとか足に力を込めて、我に返る。そうだった、隣には総司がいるのだ。見上げてまず謝罪をした。

    「ごめんなさい、迷惑かけて」

    ちょうど鎖骨の辺りを見ながら、今できる精一杯の笑顔を作る。じゃないと、自分を保てそうになかった。本当は一人になりたい。一人で泣いて、眠ってしまいたい。隣にいるのが総司だと、縋りたくなってしまう。たとえその心がそこに無いとしても、その姿も声も、私のよく知っている総司だから。悔しいくらいに貴方は変わらない。

    「皆のところに戻りましょう」

    声が震えないように、腹に力を込める。そっと視線を逸らして身体の向きを変えた途端、左手首を掴まれる感覚がした。その瞬間、乾いた音が鳴る−−−自分でも驚いていた。信じられない気持ちで振り向けば、私に振り払われた右手を見つめる総司の姿。心臓を掻き毟りたくなった。私は確かに拒絶したのだ、誰より焦がれている彼を。咄嗟に謝ろうとしたけれど、無理だった。「ごめん」の三文字すら上手く紡げない。周りは賑やかなはずなのに、自分の呼吸音がはっきり聞こえた。そんな空気を破ったのは、総司の溜息。嗚呼、失望させてしまった。視線がずるずると下がっていく。

    「あ、左之さん?僕等これから別行動するから。そう、うん、じゃあ」

    なんで。一緒に居てくれなくていい。私だけ先に帰してくれればいいのに。本当にそう思うのに、嬉しいと感じている自分もいる。我ながら面倒臭い女だ。通話を切って、総司が私の前に立つ。目は、まだ合わせられない。さっきよりも少し下、胸の辺りを見つめた。ちょうど心臓がある場所。ふと、最後に聴いた鼓動の音を思い出す。また聴きたいな、なんてことを考えていたら再び手を取られた。今度は振り払えないくらい強い力で。

    「総司、どこに行くの?」
    「別に。ただ歩きたいだけ」

    ぶっきらぼうな答えに滲んだ優しさ。それに気付かないほど鈍感ならよかった。どうして優しくしてくれるの。私は貴方を拒絶したのに。必死に立てた心の壁も、簡単に飛び越えてくる。だから愛しいのに怖い。その手を握り返すことすらできない。本当は手を引かなきゃいけないのは私のはずだ。

    「さっきの、誠志郎さんを殺した奴でしょ」

    どくん、と胸が震える。確信を持った言い方だ。あの忌まわしい記憶を、思い出したのだろうか。そうでなくても総司は鋭いから、気付かない方が可笑しい。私が小さく頷けば、彼はそれきり何も言わなかった。祭りへ向かう人々の波に逆らって、ただ歩く。この手を離してしまったら、今の私は歩けない。長い橋の上で立ち止まって、総司がまた私を見る。

    「泣かないの?」
    「貴方がいるんだから、無理よ」
    「へえ、僕はそんなに頼りないんだ」
    「逆よ」

    いつもの意地悪な顔でそう言うから、少し笑ってしまった。その言葉があまりに見当違いですぐに否定すると、今度は一転、不可解そうな表情。

    「総司がいれば、それ以外の苦しみなんて些細な事。だから、泣かない。私が泣くとしたら、一人になった時だけ」

    傍に居られなくなる−−−私にとってそれ以上の不幸はない。隣に貴方が居る限り、涙を流すことはない。私の言葉に、総司の指先が小さく震えるのを感じた。振り払ってしまった手を握れば、何だって出来る気がする。

    「それってただの強がりだよね」
    「そうね。でもお互い様でしょう?」
    「なにそれ、僕が弱虫だって言いたいわけ?」
    「だって総司、隠すの上手いじゃない。悲しい時だって正直に言わないし」

    どんどん不機嫌になる表情が愛おしくてクスクス笑った。お願いだから、このまま話し続けて。静かになって優しい指先で触れられたら、今度こそ本当に涙が落ちてしまうから。

    「あの時は泣いてたくせに」
    「っ、それは……あれ以上に最悪なことなんて無いと思っていたから。だから、貴方の手を放したの。でも今は違う。今度は絶対に放したりしない」
    「ふぅん。ついさっき、思いっきり振り払った人の言葉とは思えないね」

    痛い所を突かれ、思わず言葉に詰まる。いくら綺麗事を並べても、私が無意識に総司を拒んだことは事実なのだ。何も言えずに俯くと、横を素通りする人達の足先が見えた。まるで自分だけが取り残されていく心地がして、強く瞼を閉じる。そんなことをしたって、何も変わりやしない。

    「それに、僕を理由にするのは逃げだよね」

    本当に容赦がない。泣くわけにもいかないし、笑うしかなかった。優しい記憶ばかりだから、鋭い声や冷淡な態度に一々怯えてしまう。そして何より、総司が言っていることが本当だから、顔を上げることが出来ないのだろう。総司の方が大切だから−−−そう呪文のように唱えることで、私は恐怖から逃れようとしている。否、逃げてしまった。意図してではなく、無意識だったのが余計に質が悪い。

    「…全部、貴方の言う通りね。弱虫なのは私の方。情けないけれど、あいつが怖くて堪らなかった。それを認めたくなくて、虚勢を張ったのよ……幻滅したでしょう?」

    全て見透かされていると分かってやっと、視線を合わせることができた。そして少し後悔する。私を射抜く総司の瞳が、嫌になるほど澄んでいて、消えてしまいたくなった。だけど交わったが最後、視線を逸らすことは許されない。

    「幻滅って、意味分かって言ってるの?僕は別に、君に対して幻想なんて抱いてない」
    「っ……そう、だよね」
    「あのさ、そうやって勝手に解釈するの気に入らないんだけど」
    「え?」
    「悪い方に捉えるのは止めろってことだよ。さっきのは、君が泣いたところで僕はがっかりなんてしないって意味だから」

    予想外の言葉に、瞬きを繰り返す。私の願望かもしれないけれど、これはもしかして、泣いてもいいと言ってくれているのだろうか。いやでも、どう見ても不機嫌全開だ。難しい顔をしているのが自分でも分かった。真意を探るために見つめ返すと、総司がぎゅっと眉間に皺を寄せる。今更ながら思い出した、彼は私に負けないくらい意地っ張りだということを。

    「そっか…そっかぁ……っ、

    息を詰まらせたのと同時に、涙が溢れてくる。道行く人々が怪しげに視線を寄越すけれど、どうだっていい。総司の言葉で蓋の外れた感情が、胸の中で暴れ回る。そんな私を呆れたように見下ろして、総司は再び歩き出した。

    「ふたり居るんだから、少しの間くらい片方が下を向いていたって平気だよ」

    ありがとう−−−たったの五文字すら紡げなくて、繋がれた手を握り返すだけで精一杯だった。どうか触れ合った指先から、私の想いが伝わっていますように。浴衣の白い花柄が、涙で滲んでいく。その時、ヒュルルと、お馴染みの音が鳴った。空に咲いた花火に皆が足を止めて見上げるけれど、総司は足を止めない。きっと、とても綺麗なのだろう。だけど、今の潤んだままの視界では、それも半減だ。だからその感動は、来年まで残しておこう。今度は笑って眺めることができるように、頬を流れる雫はそのための糧とすればいい。
 - 表紙 - 
(読了報告として押していただけると嬉しいです)