1. 夏休みを間近に控えたある休日。総司と並んで商店街を歩く。今日は私の近所の高校で練習試合があり、その応援に来た。今はその帰りだ。そっと隣を盗み見ると、総司は退屈そうに欠伸をしている。なんだか猫みたいで少し笑ってしまった。

    「人の顔見て笑うなんて失礼じゃない?」
    「ごめんね、猫みたいで可愛かったから」
    「なにそれ、全然嬉しくないんだけど」

    そう言って拗ねたように顔を歪めた。不満げな総司の前では言わないけれど、今日は色々な表情が見られて胸が躍る。最近は、段々とこうして軽口を交わせるようになった。少しくらい不機嫌な顔をされても、笑って返せるくらいには余裕が出てきたと言ってもいい。別に総司を怒らせたいわけではないけれど、些細な諍いも必要だと思う。一緒に笑って泣いて、過ごしていきたい。ゼロから始まった私達は、すれ違った分だけ分かり合える気がするのだ。

    「あ…」

    小さな呟きを零し、総司が立ち止まる。釣られて私も足を止めて、その視線を追った。そこにあったのはポスターだ。とある店のガラス戸に貼られた真新しいそれには、大きく『花火大会』と書かれていた。ああそうか、もうそんな時期なのか。この辺では夏の一番大規模な催しだ。毎年河川敷で行われ、屋台も出るし、大勢の人が楽しみにしている。私も小さな頃、家族と行ったものだ。

    「今年もやるんだね。総司は誰かと一緒に行くの?」

    平静を装って尋ねた。本当は一緒に行こうと言えればよかったけれど、もしかしたらもう誰かと約束しているかもしれない。私の問いに、総司は再び歩き出してから、ぶっきらぼうに答えた。

    「平助達に誘われてる」
    「そっか…楽しんで来てね」

    相手が女の子じゃなかったことに、安心している自分がいる。誘う勇気もないくせに、嫉妬心だけは一丁前だ。今からでも言ってみようか。たった一言だ−−−私も一緒に行きたい、と。スゥッと息を吸ったその時、遮るように総司の声が響く。

    「なに他人事みたいに言ってるの?君も一緒に行くんだよ」
    「え?」
    「左之さんが誘えって五月蝿いんだ。自分で誘えばいいのに…行けないなら左之さんに言っておいて。僕は関係ない」

    ふいと視線を逸らし、再び歩き出してしまう。それでも自分の口元が緩むのが分かる。ああ、なんて単純なんだろう。チクチクと棘みたいな言葉でも、その先が尖っていないことを知っている。走って追いかけて隣に並んだ。

    「絶対行くわ!すごく楽しみ」
    「……なんなのさ」
    「何か言った?」

    総司がボソッと何か言った気がして尋ね返す。覗き込むように見上げると、ふいとそっぽを向かれてしまう。浮かれすぎて呆れられたのかもしれない。それでも、どうしたって胸の高鳴りを抑えられそうになかった。何色の浴衣を着て行こうか、髪型はどうしようか、そんなことばかりが頭を過っていく。楽しい思い出にしたい。心からそう思った。

    −−−−−

    結局、白い花柄をあしらった紺色の浴衣にした。薄紫の帯が結構気に入っている。当日は昼間からいい天気で、夜になっても雨の気配はない。ウキウキしながら待ち合わせ場所へと急ぐ。履き慣れていないはずの下駄は不思議と足に馴染んだ。当たり前と言えばそうなのかもしれない。あの頃の名残りと言ってもいい。草履は高級品で、農家の娘には不相応だったから。たとえ違う身体でも、感覚は忘れていない。それが何故か嬉しかった。

    「あ、名前さん!」

    名前を呼ばれて、キョロキョロと声の主を探す。すると、少し遠くで手を振る千鶴ちゃんの姿が見えた。白い浴衣に、緩く結い上げられた髪は大人っぽい。同じ女の私でも可愛いなと思うのだから、隣にいる平助の心境は自然と察せられる。見るからに緊張している様子だ。ふたりは幼馴染と言っていたけれど、好きな女の子の浴衣姿はやっぱり特別なのだろう。

    「千鶴ちゃん、すごく似合ってる」
    「そんな…名前さんもとっても綺麗です」
    「ありがとう。皆はまだ来てないの?」
    「もうすぐ着くってさっき連絡きたぜ」

    携帯を操作しながら平助が言う。左之さんと総司以外は他に誰か来るのだろうか。一緒に行けるだけで嬉しくて、そこまで確認していなかった。人混みに目を向けて、知った顔がいないか探してみる。滞りなく流れるはずだった視線は一点で止まった。翡翠色の瞳と目が合う。息をするのを忘れる私を他所に、総司はなんてことない顔で近寄って来る。

    「総司、一君も」
    「なんだ、僕が最後じゃないの?いつも時間に五月蝿い誰かさんは来てないんだ」

    嫌味たっぷりに言う総司に、平助と千鶴ちゃんが苦笑いで返した。誰かさんとは土方さんのことだろう。一方で私は、そんな会話を拾いながらも、心が騒ついて仕方なかった。総司は薄い青色の着物で、どこか新選組の隊服を思い出させる。もちろん京にいた頃のように髪は長くはないし、周囲の景色も違う。それでも何故か落ち着かなかった。

    「気分でも悪いのか?」
    「え…別にそんなことないよ。ただ着物姿だと、少し…ね」
    「楽しいならば、遠慮せず笑え」

    暗い顔をしていたのだろう。一君が心配してくれる。誤魔化すように答えれば、思いも寄らない激励が返ってきた。戸惑ってしまい、ただその横顔を見つめることしかできない。その間に残りのメンバーが来てしまって、結局気遣ってくれたお礼は言えず終いだ。

    「お、土方さん達だ」
    「遅いじゃないですか」
    「仕方ねぇだろ、混んでたんだよ」
    「言い訳はいいですから、ほら、千鶴ちゃんの着物姿に何か一言ないんですか?」

    にやにやと意地悪そうに笑いながら、千鶴ちゃんを土方さんの前に突き出す。平助なら照れてしまう場面でも、そこは流石は鬼の教頭。彼女の頭のてっぺんから爪先まで視線を巡らせ、ふっと笑う。

    「似合ってるじゃねぇか」

    うわ。これは中々の威力。第三者の私でもドキドキしてしまう。千鶴ちゃんは頬を真っ赤に染めて、視線を斜め下に移しながら小さくお礼を言った。その様子に面白くなさそうな平助と総司。平助が千鶴ちゃんのことが好きなのは知っている。でも総司は−−−と、そこまで考えて止めた。勝手に人の気持ちを推し量るのはとても愚かなことだ。どう感じているかなんて、その人にしか分からない。彼女が好きなのかと、そう尋ねる度胸もないのに、嫉妬心だけは一丁前とは笑える。

    「名前ちゃん、浮かない顔してんな」
    「まあ、なんとなく理由は察せるけどな」
    「私、左之さんのそういう所、苦手」
    「ははっ、そりゃどうも」

    それから皆で並んで川沿いの道を歩く。土方さんを筆頭に揃いも揃って美形だから、すれ違う女性達からの視線が凄い。その集団に自分がいることがひどく分不相応な気がして、小さく溜息を吐いた。左隣の新八さんが、それをご丁寧に拾って私の顔を覗き込む。続いて便乗するように、右隣の左之さんがまた揶揄ってくる。ひとり心を擦り減らしているのが馬鹿みたいだ。折角の花火大会なのだから、楽しまなければ損。それくらい分かっている。そっと顔を上げて、前を行く総司の背中を見つめた。一君と軽口を叩く横顔は楽しそう。それだけで胸が軽くなるのだから、心というのはそれほど難しく出来てはいないのかもしれない。

    「あ、綿飴」
    「なんだ、欲しいのか?買って来てやるよ」
    「平気、自分で買うから。先に行ってて」

    5歳の子どもじゃないのだし、綿飴ひとつ買うくらいできる。大丈夫かと付いて来ようとする左之さんにそう言って、屋台へと速足で近付いた。綿飴なんて、こういう時にしか食べられない。子どもっぽいかもしれないけれど、好きなのだから仕方ない。手渡された白いモコモコを見て口元が緩む。皆と所へ戻ろうと歩き出したその時、綿飴を持っていない方の左手首を掴まれた。咄嗟に振り向いて、身体が硬直する。金縛りにでもあったように、指先すら動かせない。喉はただ震えるだけで、声を出そうとしても空気が虚しく揺れるだけ。

    「ああ、やっぱり君か」
    「っ……なん、で」

    男は、私を見てそう言った。その顔を、忘れるはずもない。記憶に刻まれた赤、赤、赤。あの時、大切なたったひとりの家族を奪った男がそこに居た。じっとこちらを見下ろしている。狼狽する私とは対照的に、男は落ち着いているように見えた。まるで、いつかこうして再会することが分かっていたみたいだ。

    「一体どういうつもりよ…どうして話しかけたりしたの?あんたの顔なんて見たくもない。お願いだから、手を放して、すぐに私の視界から消えて」

    やっとの思いで睨み付ける。自分の声音がどうしようもないくらい情けなくて、立っていることすら難しい。同じだ、こいつが目の前で自ら命を絶ったあの時と。視線を合わせれば、昨日のことのように蘇ってくる。時間は傷を癒すだなんて嘘っぱちだ。色も感触も臭いすら鮮明じゃないか。嫌になるほど思い知らされる。ひとりの女の人生だ。幸せな思い出だけなわけがない。苦い記憶を切り取って綺麗な部分だけを残すなんて不可能。抱えて生きる−−−それはつまり"胸糞悪いものも全てひっくるめて"という意味だということを私は痛感していた。

    「涼介さん、どうかしたの?その子は?」

    息を飲む。不思議そうに話しかけてきた女の顔にも、見覚えがあった。私は死に顔しか知らないけれど、間違いない。あの時、病で死んだ男の妻だ。それを理解して、胸がスッと冷たくなるのを感じる。嗚呼なんだ、こいつはもう幸せなのか。嘘でも「良かったですね」なんて言えない。頑固だとか、意地っ張りだとか、私の性質は関係ない。そういうのを抜きにしても、心の一番根っこの部分が肯定できない。無意識に奥歯を噛み締めて、大声を出しそうになるのをなんとか堪えていた。

    「話しただろう。彼女がそうだ」

    男がそう言うと、女は驚いたように目を見開いて再び私に視線を向けてくる。そして、あろうことか微笑んだ。怖い−−−その表情を見て、そう思った。ここに居たくない。逃げ出したい。手を振り払って全力で走ればいい。そこまで強く掴まれていない。可能だろう。そう思うのに、足も手も動いてくれない。

    「名前!!」

    恐怖で震えていた心臓が、どくん、と違う音を鳴らした。黒く重たい思考を切り裂くように、誰かが私の名前を呼ぶ。憶えている。鼓膜を揺らしたのは、紛れもなく総司の声だ。記憶の中で、彼が私を呼んだのだろうか。一瞬そんなことを思ったけれど、すぐに現実だと理解した。勢いよく肩を掴まれ、男から引き離される。同時に視界に飛び込んできた総司の姿を見て、私は堪らなく安心したのだ。
 - 表紙 - 
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