- 夏休みはあっという間に過ぎてしまった。バイトに勉強、そして学生らしく目一杯遊んだ。まあ、総司や皆に誘われて外出することがほとんどだったのだけれど。人気のスイーツを食べに行ったり、写真映えスポットを巡ったりした。とても楽しかった。そう感じるのはきっと、大切な人達と一緒だからに違いない。
「名前」
あの花火大会以来、総司は私を名前で呼ぶ。嬉しくて擽ったい。思い出すと、かなりの醜態を晒してしまった自覚がある。だけど良かったと思える。総司のお陰で、自分の中にある恐怖と目を逸らさず向き合えたから。涼介と呼ばれていたあの男は、私に一体何を伝えるつもりなのか。いつか怖気付くことなく会話する日が来るのだろうか。想像すらできない。恐怖と同時に、話すことにすら嫌悪を覚える。だってあいつは、兄を手にかけた男だ。たとえどんな理由があったとしても、許せる気がしない。否、許してはいけないのだ。
「ほんと、僕の隣で考え事だなんて、君ってやっぱり大物だよね」
「ごめんなさい…え、もう食べ終わったの?」
咄嗟に謝って、思考を現実へと戻す。今日は土曜日。私は総司と一緒に、最近開店したばかりのパンケーキの店に来ていた。注文をして運ばれてくるまでは、ちゃんと会話できていたはずなのに。あの夏祭り以来、喜ばしい事も増えたけれど、時々こうして思考に没頭してしまうことがある。せめて総司といる時は笑っていたいと思うのに、どうにも上手くいかない。元々、私は不器用な人間だから当然かもしれないけれど。
「仕方ないじゃない。お腹減ってたんだ。それに、誰かさんは上の空みたいだし」
まずい。臍を曲げられてしまった。唇がまた「ごめん」と紡ぎたがるのを、慌てて制する。私が悪いのだから謝る他ない。そうなのだが、この前言われたのだ−−−すぐに謝るのやめなよ、と。パンケーキにフォークを差したまま黙り込む。ぐっと唇を噛んでも、時は止まってくれない。
「だから、そっちも頂戴」
「え・・・あ、ちょっと!」
目を猫みたいに細めて、総司が口端を上げる。怒ってないのかとホッとしたのも束の間、無防備だった手を取られて、パンケーキは彼の口へと吸い込まれていった。折角取っておいた苺が乗ってる所だったけれど、嬉しそうに笑うから別にいいやと思ってしまう。
「なに?」
「総司、クリーム付いてる」
ごくんと飲み込む様子を見ていると、その頬にクリームが付いているのに気が付いて、思わず笑ってしまった。自分の口元を指差して、ここだと教える。
「どこだか分かんないから、君が取ってよ」
「またそんな嘘ついて…鏡貸してあげるから」
鞄のポケットから手鏡を取り出して、手渡した。それを不機嫌そうに見下ろして、総司が溜息をつく。もし私達が恋人同士なら、頼まれたとおり取ってあげただろう。でも、今の私達は違うから。私は未だに貴方と手を繋ぐことすら怖いのだ。受け入れてもらえる確証がないと手を伸ばすことすら出来ない、臆病者。
−−−−−
9月になってやっと暑さが収まってきた。今日のバイトは19時までだ。閉店の時間になり、片付けを始める。
「ちょっとちょっと、名前ちゃん!」
「どうかしました?」
同じくバイトで入っている先輩が、興奮気味に駆け寄ってくる。主婦らしいけれど、何でも小遣い稼ぎにバイトをしていると聞いた。大人はやっぱり大変だ。頬を紅潮させているから、思わずギョッとしてしまった。若干引いている私に気付かぬまま、外に続くドアに視線を向けて衝撃の事実を告げてくる。
「外にすっごいイケメンがいるのよ。すらっとした、黒髪で鋭い目付きの良い男」
「……それ、たぶん私の知り合いです」
「ええ!?もしかして彼氏?年上じゃない?」
近い。悪い人じゃないのだけれど、少しばかりテンションが高い。ああもう、なんだって出待ちなんてしているのだろう、あの人は。バイトで疲れているのに、矢継ぎ早に質問されて、控えめに息を吐いた。
「いや、彼氏じゃないです。彼にはずっと前から心に決めてる人がいますし、私の好きな人も別にいます。まあ、それなりに付き合いは長いですけど…」
「あら、そうなの。残念」
興味を失ったように片付けを始める姿に、今度は大きく溜息を吐く。極端すぎる。とりあえず急いで終わらせるべきだろう。いつも30分はかかるところを20分で片付けた。雑にやったつもりはないから、人間やれば出来るということだ。エプロンをロッカーに突っ込み、鞄を手に取る。まだ着替えてる先輩に挨拶をして、小走りで出口へ駆けた。店の前に立つシルエットに近付いて、息を整える。やっぱり。
「土方さん……何してるんですか。大人なんだから、アポなし訪問はやめてください」
「はっ、言うようになったじゃねぇか。一応、連絡はいれたんだがな」
「え……ほ、本当だ。すみません」
「別に構わねぇよ。誠志郎さんにバイトだって聞いてたし、お前はバイト中にスマホいじったりしねぇだろうしな」
確かにスマホには、通知が一件入っている。全く気付いていなかった。土方さんは常識のある人だということを忘れていた。素直に謝ると、眉を下げて笑うから、何も言えない。
「それで、何の御用ですか?お喋りしに来たわけじゃないでしょう?」
「俺が態々、お前と世間話しに来るわけねぇだろ。そこまで暇じゃねぇよ……総司のことだ」
思ってもみない答えに瞬きを繰り返すしかなくなる。土方さんは優しい。昔からそうだ。だけどお節介ではない。恋愛ごとに関して言えば尚更。どちらかと言うと、左之さんの得意分野だと思う。
「あいつは昔っから、虫の居所が悪いと俺に当たるんだよ。よく知ってるだろうが」
そう言って、懐から紙を取り出して私に見せてくる。とりあえず受け取り、二つ折りになっているそれを開いた。目に飛び込んできたのは、似顔絵だ。たぶん目の前の美しい人を模したのだろう。中々に酷い出来栄え。黒髪と吊り目しか特徴を捉えられていない。
「これは一体……」
「総司の嫌がらせだ」
「心中お察し致します」
「他人事みたいに言ってんじゃねぇよ。原因はお前だろう」
「いや、流石にそれは無理があるかと」
ガシガシと髪を掻きながら溜息を吐かれた。指の隙間で揺れる美髪に、つい目を奪われる。悔しいくらいにサラサラだなぁ。しかし、いくら何でも理不尽だ。総司とは別に喧嘩をしているわけじゃない。確かにこの前パンケーキを食べに行ったときは、少し変な空気になったけれど、別れる時は普通だった。あれからも何度か連絡を取り合っているし。まあ勿論、文字だけではどんな顔をしているかまでは分からない。もしかしたら画面の向こうは凄い不機嫌顔かもしれない。
「これだけじゃねぇ。ホースで水引っかけてくるわ、激辛煎餅食わされるわ。今日なんてあの野郎、俺の俳句を放送で読み上げやがった」
「そ、それはまた…お疲れ様です。でも私、別に総司と喧嘩なんてしてないですよ」
「……成程な。ったく、あいつもまだまだガキってことか」
よく意味が分からず、首を傾げる。ガキ−−−恐らくそれは、総司に宛てた言葉。確かに小学生みたいなやり方だけど、それこそ昔からだ。まあ理由は明白。近藤さんと仲の良い土方さんへの嫉妬。新選組の皆も私もそれは分かっていたし、いつも「ああ、またやってる」程度の認識だった。一君だけは時々見兼ねて注意していたけれど。そういう場面も、今となっては懐かしい。それがいかに大切な時間だったか、よく知っている。
「お前に言えない事があるんだろう。まあ、今のお前等は何でも言い合える仲ってわけじゃないだろうが…だからって俺に八つ当たりたぁ、総司の奴。たまには灸を添えてやるか」
「ちょ、ちょっと待ってください!私が自分で訊いてみます」
「……お前が?大丈夫なのか?」
それはこちらの台詞だ。土方さんにお説教されて、良い方に転んだ試しがない。余計にエスカレートするのが目に見える。それに、彼が言うには、どうやら総司の悪戯は私が一因らしい。正直疑わしいけれど、この人は基本的に鋭いから当たっている可能性も大いにある。だとしたら、私の口から尋ねてみたい。
「はい。とりあえず明日会うことになっているので、さり気なく探ってみます」
「そうか。まあなんだ…喧嘩になるようなら相談しろ」
「は……ふふ、ごめんなさい。あまりにらしくない台詞だったからつい」
優しいのは知っているけれど、表に出さない人。思わず笑ってしまった私を苦い顔で見つめてくる。やっぱり眉間に皺がないと、土方さんじゃない。
−−−−−
「あの、総司…その、私に何か言いたいこと、ある?」
さり気なくだなんて言ったけれど、苦手分野だということを忘れていた。結局、こんな訊き方になってしまう。怪訝そうに私を映す瞳を、見つめ返すことができない。
「なにその曖昧すぎる質問」
「そう、だよね。隠し通せる自信がないから言うけど、土方さんから相談されたの。貴方の悪戯のこと……初めに言っておくけど、私が自分で訊いてみるって伝えた。なんとかしてくれって頼まれたわけじゃないよ」
今にも土方さんの所へ殴り込みに行きそうな雰囲気に、慌てて説明する。すると今度は、拗ねたような顔をするから戸惑ってしまった。
「子どもみたいだって呆れた?」
「まさか。土方さんには内緒だけど、貴方があの人に悪戯している姿を見てるの楽しいもの。それに、総司の素直じゃないところ、私は好きだから」
「……やっぱり君、大物だよ」
ありのままを伝えると、プイとそっぽを向かれる。これは、照れてる時の仕草だ。可愛くてクスクス笑ってしまう。宥めるように髪を撫でたら、零れそうなくらい大きく瞳を見開かれる。
「どうしたの?」
「お願いがあるんだ」
「うん、なに?」
「僕に触れることを怖がらないで」
息を飲む。ああやっぱり、鋭いな。もっと簡単に手を繋ぎたい。こうして柔らかい髪に触れたい。そんな口にできない私の望みを、また叶えてくれる。それともお願いという言葉どおり、貴方も同じ様に願ってくれていると信じてもいいのだろうか。
「約束するわ。じゃあ早速、手を繋いでもいい?」
微笑んで手を差し出せば、そっと指が絡み合う。緑色の瞳が嬉しそうに細められる。それだけで、いいの。手を取ってくれるだけで、私の胸は幸福で満たされる。貴方は、世界で一番愛しい人。