1. 一刻も早く階段を駆け上がって、部屋に逃げ込みたい。しかしどうやら兄は、それを許してくれそうになかった。誰が来ているのか尋ねようと口を開こうとしたとき、兄の背後から人が出てくる。

    「よお、邪魔してるぜ」
    「…土方さん。相変わらず見目麗しいですね」
    「お前こそ、生意気なところは変わらねえな」

    自然な動作で私の逃げ道を塞ぐと、鋭い視線でリビングに入るように促される。鬼の教頭と心で命名した。部屋に足を踏み入れると、予想通りの面々。なんで家に招いたのかと兄を睨むけれど、眉を下げて笑うばかり。いい加減、Noと言える人間になってほしい。私の姿を認めた近藤さんが歩み寄ってくる。勢いよく手を握られて、何故か男泣きされた。

    「いやぁ、今日は本当にいい日だ!会えて嬉しいよ、名前君」
    「近藤さん…私も、二度とこうして会うことはないと思っていました。本当に嬉しいです。さっきは挨拶もせずにすみませんでした。お詫びに今度、夕食をご馳走しますね」
    「それはいい!君の作る料理は美味いからな」

    ニコニコしながらも、どこか余所余所しい。この人は本当に、嘘をついたり演技をしたりするのが苦手だ。その背後には不機嫌そうな総司の姿がある。この場で私を知らないのは彼だけなのだ。そりゃそんな顔にもなる。私を交えて集まれば、こうなると分かっていたはずだ。お人好し二人は兎も角として、土方さんと一君は何故止めてくれなかったのだろう。いや、違う。あえて止めなかったんだ。つまり、今ここで私に何かアクションを起こせとでも言うのか。

    「兄さん、今帰ったばかり?」
    「ああ、ついさっきだ。試合は残念ながら負けてしまったがな。沖田君と斎藤君の活躍は凄まじかった。素晴らしい剣技だったよ」
    「そう…とりあえず、お茶菓子でも買って来ます。皆さんは家で待っていてください」

    来客なんて滅多にないから、お茶菓子など常備していない。それに、少し外に出て気持ちを落ち着かせたかった。財布とスマホを持って立ち上がる私を、近藤さんが慌てて止める。

    「いや、お構いなく。誠志郎君が淹れてくれたお茶で十分、
    「…おい、総司。一緒に付いて行ってやれ」
    「は、なんで僕が?一君が行けばいいじゃないですか。その子、君とも知り合いなんでしょ」
    「生憎、俺は試合で疲れている。無理だ」

    もう少しまともな言い訳はなかったのか。元新選組三番組組長が剣道の試合程度で疲れるものか。突然の提案に私も言葉が紡げなかった。正直言って一人でいい。むしろ一人がいい。そう私が言うより先に、土方さんが近藤さんを膝で小突いた。

    「あ、おお、そうだな。総司、彼女に付いて行ってやりなさい」
    「……分かりました」

    渋々立ち上がるから、気づかれないように笑った。誰がどう見たって言わされているのに、やはり近藤さんには逆らえないらしい。皆、変わらない。だから、貴方の瞳に私が映らないことが余計に苦しい。

    「どこに買いに行くの?」
    「え、ああ…バス停前のスーパーに」

    そう私が答えると、総司はふいと向きを変えて歩き出してしまう。慌てて追いかけて、一歩後ろから付いて行く。柔らかそうな髪が風に揺れている。線は細いのに、広い肩幅。緩く握られた左手が恋しい。記憶だけだったら蓋をしていられたのに、こうして目の前にいるだけで心が制御できない。想いが溢れてくる。どちらにしても、呪いだなと小さく笑った。無言のまま目的地に着く。煎餅や甘い物を買い物かごに放り込む。そして最後に私が手に取った物に、総司は初めて表情を変えた。

    「好きなんです、これ」

    驚いた顔に少し嬉しくなって、金平糖を振って見せる。「そう」と、返事はたったそれだけ。それでも言葉をくれることが、とても嬉しい。会計を済ませて外に出ると、スッと伸びてきた右手に袋を取り上げられた。

    「ありがとう」
    「近藤さんに言われてるからね。自分の仕事はするよ……ねえ、少し遠回りしてもいい?」

    思いも寄らない提案に、すぐに答えられなかった。瞬きを数回してやっと意味を理解する。言葉が出てこなくて、なんとかコクリと頷いた。そして来た道とは逆方向へと歩き出す。さっきよりも速度が遅い気がした。暫く歩いて、足を止めたのは公園の前。迷いなく入っていく背中を追いかける。端にあるベンチに座ると、立ったままの私を見て呆れたように総司が言う。

    「何してるのさ、早く座りなよ」
    「…お、お邪魔します」
    「さっき誠志郎さんに聞いたけど…君さ、僕と同い年なんでしょ。その話し方やめたら?」

    前を向いたままそう言われて、思わず泣きたくなる。悲しいからじゃない、嬉しさからだ。あの時、記憶を失ったのは私の方だった。彼はそんな私に不貞腐れたような顔で言ったのだ。

    −−−そんな他人行儀な話し方、しないで

    分かっている。あの時と今とでは、彼の私に対する想いは全く違う。それでも、私の隣にいるのは沖田総司なのだと思い知らされる。たとえ私を憶えていなくても、総司は変わらない。だから望みを捨てられない。いつかきっと、あの時みたいに笑いかけてほしいと思ってしまう。総司のことになると、いつだって私は臆病なくせに欲張りだ。なんとか涙を奥へと追いやって頷く。

    「分かった」
    「また、その顔」

    怪訝そうな表情を浮かべながら、総司が呟く。気に障るような顔をしていただろうか。バッと頬に手を当ててみる。ヘラヘラ笑ってはいないけれど、自分はどんな顔をしていたのだろう。

    「僕は、誰にでも優しくなんてできないんだ。相手が傷付くようなことも平気で言うし、それを直そうと思ったこともない。別にどうでもいい人が傷付いたって、僕は痛くも痒くもないから。君もそうだ。だから、優しい言葉をかけたりしない。それなのに…なんで、そんな顔するの。君は傷付いてるのに、笑ってる」

    私のことを"どうでもいい人"なのだと言うくせに、その表情が苦しそうなのは何故だろう。総司は周りをよく見ている。他人の変化も見逃さない。私がどんなに繕っても、見破られる。

    「笑ったのは、嬉しかったからよ。ああ別に、そういう質ってわけじゃなくて…たとえどんな言葉でも、貴方が私に何かをくれたことが堪らなく嬉しいだけ。気味の悪い女でしょう?」

    眉を顰めて見てくるから、クスッと笑った。気味が悪いなんてものじゃないだろう。会ったばかりの相手にそんなことを言われたら、恐怖を感じるに決まっている。でも今の私は言わば無敵だ。だってこれ以上、失うものなど何もないのだから。

    「なにそれ…君、僕のこと好きなの?」
    「好きよ」

    肯定の言葉が無意識に宙を舞う。同時に強い風が吹いた。たじろぐ姿に愛しさと切なさがないまぜになる。見たことのない顔をされると高鳴って、好きだと伝えて頷いてもらえないと締め付けられる。私の左胸はそういう風にできている。悲しいくらいにこの鼓動は貴方以外には無反応。

    「君さ…僕が知ってる人に似てるって言ってたよね?あれ、誰のこと?」

    さて、どうしたものか。鋭い彼のことだ。不思議に感じないわけがない。左之さんが言った通りなら、総司の記憶には穴がある。そこに自分だけが知らない女が現れた。疑いの目を向けるのは当然だ。今ここで貴方と私は恋仲だったと言ったら、どうなるだろう。きっと顔を歪めて「頭、大丈夫?」とか言われるのが目に見えている。それに想いというのは、その人だけのものだ。他人が語れるものじゃない。あの時の総司の想いを知ったような口でペラペラ話すのは愚行だ。でも、私は総司に嘘をつけない。

    「とても、大切な人」
    「上手な言い方だね。それで質問に答えたつもり?君は、僕を知ってた。君にもあの時代の記憶があるんだ…そうでしょ?」

    疑いの欠片すらない言い方に逃げたくなった。頷いてしまいたい。認めるだけでいいなら、どんなに楽だろう。願って叶うなら、こんなに苦しくないのに。世界は、優しくない。

    「どうして黙ってるのさ…僕のことが大切だって言うなら教えてよっ!記憶が戻った方が、君にとっても都合がいいだろ!」

    苛ついたように立ち上がって、総司が私の肩を掴んだ。弾みで買い物袋の中身が散らばる。痛い。心が悲鳴を上げる。もしあのとき本当に貴方の心が私に託されたのだとしたら、今泣いているのはどちらの心だろう。この皮膚を剥ぎ取って、私の中にあるそれを返したら、貴方は私を思い出してくれるだろうか。肩にかかる力に瞼をきつく閉じた。いつだって私は、上手く伝えられない。

    「君は、僕の何だったの?」

    解放されてそっと目を開けると、総司は下を向いていて表情は見えない。小さな問いかけは風に攫われていく。その声は震えていた。泣かないで、笑っていて。そう願っている。それなのに、身を引けない。その表情を曇らせているのが私だとしても、手を伸ばさずにいられない。

    −−−他の誰かに埋められるわけないじゃない

    どんなに時間がかかっても取り戻してみせる。私を呼ぶあの声も、優しく握り返してくれた掌も、満たされたように笑う顔も、また全身で感じたい。そのためなら私は、今よりずっと強くなれる。

    「それは、言えない」
    「なんでっ……君、とんでもなく頑固だね。僕に言われるとか相当だよ。僕がどんなに喚いたって、てこでも言わないって顔してる」
    「私にとって貴方がどんな存在なのかは、いくらでも話せる。でも、貴方の想いを私の口から話すことは絶対にできない」

    視線は決して逸らさない。真っ直ぐ見つめ返すと、翡翠色の瞳が揺れる。すると突然ゆるゆると座り込むものだから、慌てて駆け寄った。具合が悪いのかと思ったが、どうやら違うらしい。しゃがんで覗き込むと、再び目が合った。その表情が想像よりずっと柔らかくて、息が詰まる。

    「やっとだって、思ったんだけどな」
    「え?」
    「分かってるんだ、嫌になるくらい。思い出せない記憶が僕にとっていかに大切だったのか。ずっとここにある虚しさが訴えかけてくる。足りないんだ。誰に頼んでも、教えてくれない」

    苦しそうに心臓の辺りを掴んで、そう言った。抱き締めたくなるのを堪えて、拳を握る。何を伝えられるだろう、何ができるだろう。いつの間に、弱くて臆病な人間に後戻りしたんだ。あの時の私は、今よりずっと強かった。下唇を噛んで、震える指先でその手に触れる。変わらぬ綺麗な肌を撫でて、強く握られた指を解いた。惑うように翡翠色の瞳が揺れる。

    「君の傍にいれば、いつか思い出せるのかな」
    「私が取り戻せるのは、貴方の記憶じゃない。でも、心なら…私の中に貴方に託された心がある。それを貴方に返す。上手くできるか正直、自信がない。でも貴方と、総司と一緒なら私は絶対にやり遂げられる。だから……っ、この手を取ってほしい」

    何の根拠もない言葉だ。でもどうか信じて。落ちる沈黙に気持ちが萎みそうになる。背を向けて逃げ出したい。震えるのは、大切だから。それなら、怯えすら飼い慣らしてみせる。瞼を開けると、ギュッと手を握り返される。

    「僕は沖田総司、君の名前は?」
    「っ、名前……名字名前」

    自分の名前なのに上手く紡げない。零れそうになる涙を拭った。涙はまだ、仕舞っておこう。名前、と総司が私の名前を復唱する。ふっと笑ったその顔に、胸が鳴った。もう、逃げも隠れもしない。私が望むのは、貴方の隣。この道を運命と呼びたいならば好きにしろと、神様に毒づいた。
 - 表紙 - 
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