1. ※沖田視点、時系列は1話〜3話。

    僕はまだ未完成だ。その事実は明らかなのに、今のパーセンテージを訊かれたところで答えられない。そもそも生きているうちに完成するのかすら疑問だ。刃こぼれだらけの刀みたいな記憶。折って捨てちゃいたいのに、忘れることもできない。嗚呼、本当に苛々するな。

    「沖田君!今日の試合、頑張ってください。応援してます!」
    「……おい、総司!返事くらいしろって」
    「五月蝿いな。近藤さんが観てるんだ、言われなくても勝つよ」

    全く知らない女の子達が嬉しそうに騒ぎ出す。今の会話のどこに喜ぶ要素があるんだろう。まあ、別にどうだっていい。もしあの子達が僕の記憶の穴を満たしてくれるなら、愛想笑いも甘い言葉も振り撒いてあげるのに。

    「総司、素晴らしい試合だったな!」
    「近藤さん……ありがとうございます」

    どんなに心がやさぐれていても、一瞬で平らに戻される。この人には敵わない。流れる汗を拭いながら、階段を下りる。時々、何もかもどうでもいいと思う瞬間がある。あの頃みたいな命のやり取りはないし、病に侵されてもいない。平和なのは良いことだと思うけれど、退屈で何かが足りない。ふと白い脚が見えて、顔を上げた。視線の先には、一人の女の子。知らない子だ。それなのに、彼女はひどく驚いた様子で唇を震わせた。

    「そ、うじ」

    聞こえたのは僕の名前。驚きより先に嫌悪感が顔を出す。僕は別に、女の子にモテたくて剣道をやってるわけじゃないんだけどな。名前を呼んだきり何も言わないその子が少し珍しくて、正体を尋ねてみた。ただの気紛れのつもりだったのに、絶望に染まった表情に僕の方が惑う。なに、その顔。まるでこの世の終わりみたい。なんとかいつもの調子を装う僕に、途中から入ってきた平助が訳の分からないことを言った。

    「絶対、後悔するぞ」

    何を言い出すかと思えば、後悔するだって?どうして見知らぬ女の子のことで僕が後悔するんだ。頭を下げて謝罪をするその子を、平助が苦しそうに見つめた。何故か胸が疼く。耐えられないほどの痛みじゃない。針で軽く刺激されるようにチクチクと、胸を刺す。まるで自分が悪者になった気分。

    「名前!!」

    視線を移すと、あの頃と同じ姿で懐かしい人が駆けて来る。誠志郎さん−−−無意識に名前を呼んだ僕を一瞥して、気遣うように隣の彼女を見つめた。その背後には近藤さんや土方さん、一君の姿もある。近藤さんは兎も角、いつも冷静な二人が取り乱している。なんとなく、読めてきた。どうやら、彼女が鍵らしい。

    −−−−−

    半ば引き摺られて、誠志郎さんの家に連れて来られた。別に逃げたりしないのに、土方さんはいつにも増して鬼みたいな顔で見てくる。

    「名前は、俺の妹なんだよ」

    眉を下げてそう告げられた。呆然と僕の名前を呼んだあの子を思い出して、眉を顰める。だって全然似てない。目の前の誠志郎さんとは真逆の、気が強そうな瞳をしていた。

    「土方さんや一君は、どうして彼女を知ってるんです?平助とも知り合いみたいだったし… 誠志郎さんとは今日初めて会ったのに、僕だけ知らないなんて可笑しいじゃないですか」

    鼻を鳴らして土方さんを問い詰める。言い逃れなんて絶対にさせない。欠けている記憶について、今まで誰に何を訊いても教えてくれなかった。やっとなんだ、掴める距離にあるんだ。この虚しさを埋めてくれるなら、なんでもいい。

    「お前、あいつに会って何か感じたか?」
    「…随分と曖昧な質問ですね。鬼の副長らしくないなぁ。気持ち悪いですよ。それとも、そんなに慎重になる程、あの子が大事なんですか?千鶴ちゃんに告げ口しちゃいますよ」

    両手を挙げて、わざとらしく笑ってみる。いつもなら青筋立てて怒鳴り散らすのに、全く表情を変えない。駄目だな、今日は。本気で話さないと本気で怒られそう。まあ今回ばかりは僕もふざける気はないから、感じた通りの印象を伝える。

    「別に、特に何も感じませんでした。面白そうな子だとは思いましたけど、それだけです」
    「そうか」
    「彼女は、誰なんですか?」
    「んなもん、本人に訊け。あいつはお前からは絶対に逃げねえ。そういう女だ」

    近藤さんも一君も口を挟まない。つまり、土方さんの言葉は本当なんだ。少なくとも、二人は同意見ってこと。僕から逃げない。それは好都合なはずなのに、あの真っ直ぐな瞳と対峙していつも通りでいる自信がない。

    1時間もしないうちに彼女が帰って来た。近藤さんに笑いかける横顔に、無性に苛々する。ぐっと奥歯を噛んで視線を逸らした。土方さんは本人に訊けって言ったけれど、口を開いたらきっと止まらなくなる。無理矢理にでも知ろうとしてしまう。自分らしくいられないほどに、僕の心はあちこち欠けていて歪だ。退屈や虚しさを感じるのは、失った部分の方が僕にとって大事だから。今の僕の心には、核が無い。

    それから土方さんのお節介で、彼女の買い物に付き添うことになった。道中、斜め後ろから聴こえる足音に何故かほっとする。なんで、こんなに乱されるんだ。例えば、今ここで彼女が危険な目に遭ったら、僕は身を挺して守るだろう。なのに、その理由が分からない。こんなのどう考えたって可笑しいでしょ。

    「さっき誠志郎さんに聞いたけど…君さ、僕と同い年なんでしょ。その話し方やめたら?」

    買い物を終えて寄り道した公園で、目を合わさずそう言った。暫く待っても返事がなくて、顔を上げる。僕の視線から逃れるように下を向いて、「分かった」と小さく呟く横顔は切なそうなのに、どこか嬉しそうにも見える。その瞬間から、優しくするのが馬鹿らしくなった。そうだ、簡単な話だ。この子はただの鍵。閉ざされた記憶の箱を開けるための道具。何を迷う必要があるんだ。苛つくままにその表情の訳を問えば、吹っ切れたように彼女は笑う。

    「たとえどんな言葉でも、貴方が私に何かをくれたことが堪らなく嬉しいだけ。気味の悪い女でしょう?」
    「なにそれ…君、僕のこと好きなの?」
    「好きよ」

    音が止んだ。その三文字だけが迷わず僕の鼓膜に駆けて来る。告白なんて、今まで数え切れないくらいされてきた。愛想良く断る術も身に付けたはずなのに、喉の奥が詰まって何も言えない。嗚呼そうか、この子の言葉は重いんだ。腹を抱えて笑い飛ばせないのは、その所為だ。容易く口にしているように見えて、根っこは深くて簡単に折れない。

    「君さ…僕が知ってる人に似てるって言ってたよね?あれ、誰のこと?」

    逃げたりするもんか。必ず取り戻してみせる。そのためなら何だってするし、誰だろうと利用してやる。僕の問いに彼女の瞳が揺れた。尋ねてみたけれど、確信がある。目の前の女の子はきっと、残ったピースだ。本能がそう叫んでいる。

    「とても、大切な人」
    「上手な言い方だね。それで質問に答えたつもり?君は、僕を知ってた。君にもあの時代の記憶があるんだ…そうでしょ?−−−っ、どうして黙ってるのさ…僕のことが大切だって言うなら教えてよっ!記憶が戻った方が、君にとっても都合がいいだろ!」

    大切だと言うだけで口を閉ざした彼女の肩を掴む。吐き出した方が楽だろうに、「できない」の一点張り。この頑固さ、どこかの誰かさんそっくりだ。本当に誠志郎さんの妹なのかな。押しても押しても、靡かない。ああでも、あの人もそういう質か。妙な所で似てる。

    段々と絆されていくのが分かる。僕はこんなに潔かったっけ。どうしたらいいんだろう。試しに耳触りの良い言葉を並べてみようか。否、効果があるとは思えない。なす術が無くなってしゃがみ込んだ。じっと地面を見つめていると、さっきまで怒鳴り散らされていたのに彼女は傍に寄って来る。心配そうに瞳を揺らして覗き込んでくるのが、なんだか可笑しかった。

    「やっとだって、思ったんだけどな」
    「え?」
    「分かってるんだ、嫌になるくらい。思い出せない記憶が僕にとっていかに大切だったのか。ずっとここにある虚しさが訴えかけてくる。足りないんだ。誰に頼んでも、教えてくれない」

    嘘じゃない。本当のことだ。時々、胸を掻きむしりたくなるくらいに、虚しくなる。なんでもいいから、この穴を埋めたくなる。でも、痛いほど分かっている。それでは意味なんかないんだ。息苦しくなって胸の辺りを掴むと、細い指が僕の手に触れた。その感触に、なんでか泣きたくなる。つぅっと骨に沿って撫でてから、優しく手を握られた。思わず手を振り払って逃げ出したくなるのを堪えて、訊いた。

    「君の傍にいれば、いつか思い出せるのかな」
    「私が取り戻せるのは、貴方の記憶じゃない。でも、心なら…私の中に貴方に託された心がある。それを貴方に返す。上手くできるか正直、自信がない。でも貴方と、総司と一緒なら私は絶対にやり遂げられる。だから……っ、この手を取ってほしい」

    言葉を選んでいるのがよく分かった。縋るように瞼をきつく閉じる彼女に、胸が熱を持つ。彼女はきっと、僕を知っている。でもいくら頼んでも、簡単には教えてくれなさそうだ。今ここでこの手を振り払ってしまったら、彼女は二度と僕に話しかけてはこないだろう。震えるその指先を見て、怖いのは同じなんだと理解した。思わず口元が緩む。彼女がゆるゆると瞼を開けるのと同時に、握っていた手にさらに力を込めた。

    「僕は沖田総司、君の名前は?」
    「っ、名前……名字名前」

    泣きそうな顔で自分の名前を言う。初めて呼ぶはずのそれは、不思議と唇に馴染んだ。名前−−−と呟くと、彼女は嬉しそうに目を細めた。どくんと胸が鳴る。その理由に気付かないフリをして、笑った。もし全部思い出したら、この手は離れていっちゃうのかな。ついさっきまで、得体の知れない女の子だったのに、今はこんなにも眩しく映る。こんなに簡単に、心に触れてくる子、僕は知らない。
 - 表紙 - 
(読了報告として押していただけると嬉しいです)