- それから、総司と連絡先を交換した。通話アプリに新しい連絡先が追加される。それだけで胸が躍るのだから、私は偉く単純だ。公園からの帰り道、前を行く総司がぼやくように言った。
「あーあ、誰かさんのお陰で前途多難だよ。ねえ、話してくれないのは君の我儘なんだから、ちゃんと考えてよね」
「うん、明日からそうする」
「ちょっと、なんで明日なのさ」
「少しだけ許して。貴方と並んで歩けるのが堪らなく嬉しいの」
つい指を絡ませそうになって、慌てて手を引っ込めた。素直にそう言うと、総司はピタリと立ち止まる。何歩か進んで振り返れば眉を顰めた顔が見えて、しまったと反省した。今の私は、彼にとってただの都合のいいきっかけなのだ。そんな分際で愛を吐くなんて身の程知らず。
「…ごめんなさい、少し浮かれすぎね」
「いいよ、別に」
「え?」
「だから、別にいいって言ったんだよ。君はたぶん、あの頃の僕にとってただの女の子じゃなかった。それくらい、記憶が無くたって分かる。新選組の沖田総司だと思って、好きに接すればいいよ」
冷たくそう言って、総司は再び歩き出して私を追い越した。黙って後を追いかけながら、薄茶色の猫っ毛を見つめる。前を見据えたままで発せられた声が鼓膜を貫く。それは凛として迷いのない色を放ち、私の心に釘を刺した。
「だけど、ひとつ肝に銘じておいて。全部思い出したその時、僕が迷わず君の手を取るだなんて思わないで。記憶を取り戻すのは、僕が僕になるために必要なこと。だから君の手を取っただけだ。僕は、今の僕の心に従う。要らないと思ったら、君のことも簡単に捨てられる」
「……うん、分かった」
やっぱり、貴方は強い。私は今も揺れ動いているのに、総司は容易く言った−−−今の自分の心に従うと。私にはまだ、この気持ちが今の自分の想いだという自信がない。この糸は、あくまで契約。私が彼に心を返すために結ばれた、その場限りの細い糸。それが終わったその先で、私は彼の手を離せるだろうか。まだ一歩目も踏み出していないくせに、そんな不安が胸に湧く。いつもいつも自分のことばかりで、何百年経ったって、私は嫌いな自分に後戻り。こうしてまた貴方が、私を肯定してくれるのを待っている。なんて、愚かしいのだろう。
家に戻っても、総司は特に報告もせずに席に戻ってしまう。心配性のふたりが揃って眉を下げるから、どうも居心地が悪い。その頃にはもう日は沈みかけていて、結局買ってきた菓子を出す間も無く、近藤さん達は帰ることになった。玄関先で兄と並んで見送る。近藤さんと土方さんが兄と会話を交わす間も、総司はぼーっと明後日の方向を見つめたままだった。声をかける気にもなれずに立ち尽くしていると、ポンと肩に手を置かれる。顔を上げれば、感情の読めない双眸がこちらを見つめていた。
「総司と話はできたのか?」
「まあ、ね…記憶を取り戻すために、これからは時々会えることになったよ」
「嬉しくないのか?」
「え……そんなこと、ないけど」
「では何故そんな顔をしている?」
目を細めて一君は私に訊いた。そんなに暗い顔をしていただろうか。思わず瞬きを繰り返してしまう。だって浮かれてなんかいられない。私だけ舞い上がっている暇なんてないのだ。それに私は、まだ具体的にどうしたらいいのか分かっていない。そもそも、傍にいて記憶が戻る保証すらない。再び胸を襲ってくる不安を誤魔化すように、曖昧に笑う。そんな私を、一君は見慣れた無表情で見つめた。だけどその瞳の中には、確かな心配の色が見えて、少しだけ嬉しくなった。
「隠すの下手くそだって知ってるでしょ。でも私は大丈夫。強がりじゃなくて本当だよ。だって、あとは踏み出すだけだもの」
そう言えば、一君が目元を緩めた。そんな顔、昔は見せたことない。やっぱり折角美人なのだから、笑った方が絶対いい。私も笑い返しながら、いつかの約束通り湯豆腐でも食べに行こうと心に決めた。
−−−−−
「じゃあやっぱり、お前も憶えているんだな」
「うん、さっき全部思い出した」
「そうか……すまなかった」
兄とふたり、リビングで向かい合う。やはり兄もまた、全て思い出していたのだ。質問に頷けば、固く目を閉じて謝罪をしてくるのが、なんだか気に入らなくて拳を強く握る。
「何に謝ってるの?死んじゃったこと?」
「両親が死んで、そのうえ兄貴まで亡くしたんだ。お前が楽な道を歩んだとは思えない。本当にすまなかっ、
「謝罪なんていらない。確かに、苦しくなかったって言ったら嘘になる。でも私は今も昔も兄さんの妹でよかったと思ってるし、最期はちゃんと笑って死んだよ。それから…っ、ここで言わないと二度と言えなくなりそうだから、止めないで、そのまま聞いて。私……復讐したの、兄さんを殺したあの男に」
「っ…そう、か…そうか。ありがとな、名前」
兄のこの顔が嫌いだった。眉を下げて笑うのが堪らなく嫌だったはずなのに、今はこんなに胸が温かくなる。だってあの時は、大切だと告げる前にこの人はいなくなってしまった。二度と見られなくなるまで、私は気付くことができなかたのだ。だから悔しいくらいに今は愛しく感じる。どういたしましてと言うのも違う気がして、そっと目を伏せた。
「俺も、お前が妹でよかったよ」
「意地っ張りで面倒だって思ってたくせに」
「はは、それは今もだろう。だからこそ、心配だ…沖田君のこと、大丈夫か?」
「大丈夫、ではない。でも総司を忘れることの方がずっと苦しい。だから、頑張ってみる」
「そうか、分かった」
安心したように笑うから、まるで自分が良い子になった気分だ。選択なんて、結局は全て自分の為だ。今も、そしてあの時も。最後に笑えるなら、それでもいい。
6月に入って、一君に連絡した。勿論、湯豆腐を食べに行こうと。すぐに「了解した」と返信が来て、なんだか義務連絡みたいだなと笑ってしまった。平助も誘って、金曜日の放課後に行くことになる。学生の私達には高級料亭はとても手が出せず、ネットで見つけた一番安い店に決まった。それでも2,000円するのだから、ファストフードとかに比べると高級だ。でも150年越しの再会だし、少しくらい背伸びしてもいいだろう。
「てか、マジで豆腐なのかよ。焼き肉のが絶対美味いじゃん」
「肉ばかりでは栄養が偏る」
「まあまあ、焼き肉は今度にしてさ…折角なんだから、楽しく食べようよ」
「そうだな、冷めては元も子もない」
「おい、名前…一君の目がマジなんだけど。早く食おうぜ」
箸を持ち眼光鋭く豆腐を見つめる元三番組組長に、私と平助は若干引いた。手を合わせて早速箸を伸ばす。ちょっと季節外れだけれど、店の中は涼しいからちょうど良かった。スーパーで売っている豆腐と違って、とても美味しい。文句を垂れていた平助も「うめぇ」と笑った。
「総司は呼ばなくてよかったのか?」
「一緒に食べられたら嬉しいけど…ここ最近、考えていたんだ。正直、まず何をすればいいのかすら私は分かっていないんだなぁって。記憶を戻すっていう目標だけで、具体的にどうすればいいのか決まってない。まあ一緒に過ごさない限りはどうしようもないんだけどね…総司は私のこと憶えてないでしょ。あの時は小さい頃から知っていたから初対面って初めてだし、違和感っていうか、話すだけでも戸惑うことが多くて……あ、ごめん。なんか愚痴みたいになっちゃって」
無意識にペラペラと語っていることに気づき、慌てて謝罪をする。一君が「構わん」と小さく呟き豆腐を口に運ぶ。ぶっきらぼうな口調だけど、優しい。
「お前、変なところでビビるよな……いや、違うか。総司のことだから余計に、か」
「駄目だよね、本当。あの頃と何も変わってない。大嫌いな自分のまま。でも、今の私達の関係は少しの風で崩れちゃうくらい脆いから…なんて、言い訳にしかならないけど」
「ま、別に急ぐ必要ねえんじゃないか」
白米を口に運びながら、平助が言う。言葉は軽そうだけれど、声音は芯を持っていた。彼のことだからガンガン行けとか言うのかと思っていたのに、なんだか意外だ。無言で見返す私と同じように、一君もチラと平助を見た。
「今の俺らは武士じゃねえんだし、考える時間はあるだろ。大事なことなら尚更だ」
「なんか平助…大人になったね」
「おい、どういう意味だ!ま、何かあったら遠慮なく言えよな。ぶっちゃけ、あんだけお前だけだった総司があれだと逆に気味悪いし」
そう言われて苦笑した。この胸にある総司の心を無事に返す。それが望みだと私には断言できない。その後を望んでしまっている自分がいるからだ。全て思い出した時、総司に背を向けられたとして、私は彼の幸せを願うことができるだろうか。そして沖田総司以外の誰かとの幸せを、求めることができるだろうか。そこまで考えて、笑ってしまった。そんな私をふたりが不思議そうに見返す。
「私、強かさをあの時代に置いてきちゃったみたい。取り戻せるかな……」
「愚問だろう」
「くくっ、だな!」
ぽつりと落とした不安を、一君が一掃する。それに平助が声を上げて笑った。愚問、つまりそれは、私を信じてくれているということだ。
−−−名前は本当、頼もしいね
そうだ。あの時の私も、一人じゃ強くなれなかった。総司は今、私の隣にいない。でも、信じてくれる人達がいる。彼らは皆、あの激動の中を駆けた本物の武士だ。これはもう百人力じゃないだろうか。
「私、頑張るね」
そう言って笑ってみる。それだけで不思議と前向きになれる気がした。総司と再会してから、気持ちが浮いたり沈んだり忙しない。そんな状態では上手くいくことも駄目になってしまうだろう。土方さん公認の図太さを今こそ発揮しなくてはいけないと、心を鼓舞した。