1. いつの時代も雨は憂鬱だ。あの頃と違って、野菜が駄目になるんじゃないかと考える必要がないことが唯一の救いかもしれない。土曜日の午後のこと、バイト帰りの道で大きく溜息を吐いた。朝から雲行きが怪しかったけれど、せめて家に帰るまで待ってほしかった。まあ、文句を言っても仕方ないので、傘を差して歩く。総司と再会してから1ヶ月が経とうとしている。あれから彼とは会っていないし、連絡もできないまま。一応、月に一度は会おうということになっているけれど、こちらから誘う気にもなれず現在に至る。なんとかアクションを起こさなければならない。しかし、前世も含めて総司以外の誰かと付き合った経験のない私の頭では、限界がある。だからと言って、左之さんや友人に相談するのも如何なものか。

    「沖田君、私の傘に入りなよ」
    「あ、抜け駆けじゃん!ズルい!」

    耳を掠めた声に、思わず足を止める。そろそろと顔をそちらに向けると、見覚えのある薄茶色の髪が見えた。立ち止まった所為で、彼とばっちり目が合ってしまう。記憶の中のように意地悪く目を細めて、囲んでいた女の子達に笑顔で言う。

    「ありがとうございます、先輩達。でも僕、迎えが来たので大丈夫です」

    口から出任せだ。軽い足取りでこちらに駆けて来て私の傘に入ると、すたこらと横断歩道を渡る。そっと振り向けば、さっきの二人は物凄い形相で私を見ていた。先が思いやられる。あの時代は恋にばかり感けていられなかったから、こういう状況は初めてだ。総司は意地悪だけれど、愛想はいいし、仲良くなれば優しい。見目だって整っている。モテるのは当然だろう。今まで私と総司の問題だと思っていたけれど、とんでもなかった。また悲観的な思考に走りそうになっていると、隣で総司がぼやく。

    「なんで女の子ってあんなにしつこいのかな」
    「…貴方のことが好きだからだと思うけど」
    「それが理解できないって言ってるの。僕のこと何も知らないくせに、本当いい迷惑」

    ズキッと胸が痛む。それは、私も同じなのかもしれない。私が知っているのはあの時代の総司だけ、いま隣にいる彼の16年間を私は何も知らない。嗚呼、駄目だ。こんな風に発言一つに一喜一憂するのは止めないといけない。自分を戒めるように拳を握り、顔を上げた。

    「ところで、総司はどうしてここに?試合…じゃないよね?」
    「うん、君に会いに来た」

    思いも寄らぬ言葉に立ち止まる。その所為で前に進もうとしていた総司の額に、傘がぶつかった。咄嗟に謝れば、不機嫌そうな顔で傘を引ったくられる。確かに背が高い彼が持った方が効率的だ。いや、そんなことより、さっきの発言は一体何だ。言ったそばから翻弄されてしまっている。

    「用事があるなら連絡してくれればいいのに」
    「ふーん、そんなに僕と会いたくないんだ。僕のこと好きだって言ったの、嘘だったの?」
    「嘘じゃないし、私は勿論会いたいけど、総司は違うでしょ。私のこと好きでもないし、会いたくもない。だから少し驚いただけ……どうしたの?」

    つらつらと真実を述べれば、訝しげに総司がこちらを見る。いけない。また怒らせてしまった。連絡してくれたことを素直に喜ぶべきだったのに、こういう時に意地っ張りが顔を出す。

    「別に。ずっと眉下げてると思ったら、急に強気になるんだなって。ほら、雨降ってるんだから早く帰ろうよ」

    一瞬だけ、その瞳が揺れたのが気になった。歩き出そうとする総司を慌てて追いかける。話がずれたせいで結局どうして私に会いに来たのか聞きそびれてしまった。どこかに行くわけでもなさそうだし、本当にそれだけなのかもしれない。もしそうなら嬉しい。小さく笑って横に並ぶと、なんだか変な感じがした。ああ、そうか。並んで歩くのは初めてだ。これからもこうして、幾つもの初めてを積み重ねた先、そこで待っているのが光であればいい。気付かれないように横顔を盗み見ようとしたその時、総司が立ち止まった。振り向けば、一瞬顔を顰めてその体がふらつく。

    「総司!どうしたのっ、具合が悪いの?」

    咄嗟に声を上げて駆け寄った。そんな訳ないと思うのに、どうしても消せない。血を吐く彼の姿が過ぎる。腕を掴んで支えると、頭を押さえて私を見た。じっとこちらを見つめ、何も答えてくれない。もう一度名前を呼べば、総司は笑った。その表情に目を奪われる。それはよく知っているのに、初めて見る表情だった。沖田総司がいつも彼女に向けていた微笑みだ。心臓が五月蝿い。戸惑っている間に手首を掴まれて、私の体は容易くよろけた。向かい合って見上げた顔が、さっきとは打って変わって少し切なげで、今度は胸が締め付けられる。

    「君、よく耐えられるね。こんなの、いくら拒んだって抑え切れない」
    「……何か思い出したの?」
    「うん、試衛館での記憶だよ。まだ子供だった頃、君とふたりで雨の中を歩いてた」

    ぽつぽつと総司が言う。何度並んで雨の中を歩いたかなんて憶えていないけれど、子供の頃はお互いに他の子と馴染めずに、いつもふたり一緒だった。懐かしいなと、思わず口元が綻ぶのを感じる。

    「差しても意味がないくらいボロボロの番傘に、君は朱色の着物で、
    「変な形の胡瓜を持ってた、でしょ?」

    総司の口から零れたのは、紛れもなくあの時代の記憶の断片。つい言葉を遮って尋ねる。それに総司がキョトンとして小さく笑うから、また胸が鳴った。たぶん私は、本能的に沖田総司に惹かれている。抗うつもりはないけれど、ただそれに流されるのは違う気がした。

    「思っていたほど前途多難でもないかもね」

    猫みたいに目を細めて歩き出そうとする総司の手を、無意識に掴んでいた。不思議そうに振り向いた彼に、上手く整理ができていないまま唇を開く。

    「あのね、私…もっと貴方を知りたい」

    目を合わせてそう言った。翡翠色の瞳が大きく開いて、息を飲む気配がする。思わず握った手に力を込めた。私は強くない。背を向けてばかりだ。それでも、自分と彼からは絶対に逃げない。遮られたら終わりな気がして、なんとか言葉を紡ぐ。

    「あと、私のことも知ってほしい。昔の私じゃなくて、今の私を。貴方が言ったように、私も今の自分に正直でいたいの。ただ漠然と記憶を取り戻すだけじゃなくて、ごめん、上手く言葉にできないけれど…」

    これでは何も伝わらない。一度止めて、深呼吸をする。私が頭で要点を整理している間、総司は手を振り払うこともせず、ただ黙って待っていてくれた。

    「…記憶が戻ったら、この手が離れてしまうかもしれない。もしそうなったとしても、私はその瞬間、笑っていたい。その為にお互いよく知らないままじゃ駄目な気がするから。泣きながらお別れなんて悲しいし、あの頃とは違うことも沢山あると思う……えっと、だから、

    再び言葉に詰まってしまう。沈黙が息苦しい。何を傲慢なことを言っているのかと、怒られるかもしれない。記憶を取り戻す糸口でしかない私が頼み事なんて、やはり身の程知らずだっただろうか。交わっていた視線が段々と下を向いていく。何も言わない総司に、いよいよ泣きたくなってきた。

    「いいよ」
    「そう、だよね……え?」
    「なにその間抜け面。何度も言わせないでよ、いいって言ったんだ。ただ一緒に過ごすだけじゃ退屈だし、全部思い出すまでの暇つぶしくらいにはなるでしょ」

    ぽかんとする私にそう言って、総司はフイと顔を逸らした。たぶんこれは、もしかしなくても照れているのだろうか。つい口元が緩んでしまう。あの頃は無かった言葉で表すなら、総司は所謂ツンデレなのだと思う。棘のある言葉を向けられたはずなのに、心は全く痛くない。繋がれたままの手と、ほんのり赤く染まった目元に笑みが零れた。笑われたことに気が付いたのか、総司がむっと私を見る。その仕草が子供みたいで、今度は声を漏らしてしまう。

    「ちょっと、笑いすぎなんだけど」
    「だって子供みたいで可愛かったからつい……ごめんなさい」

    なんとか表情筋を元に戻して謝る。それでも、どうしても嬉しくて笑みを隠せない。もっと怒られるかと思ったけれど、総司はそれ以上何も言わず空を見上げた。いつの間にか雨が止んでいる。傘を畳んで見えたのは、厚い雲の隙間から差す光。思わず見惚れて、言葉を失った。その時、繋いでいた手に込められた力が、私を現実へと引き戻す。釣られて隣へと視線を向けて、胸が小さく音を立てる。総司が何を思っているのか、すぐに分かった。まるで、触れ合った掌から思考が流れ込んでくるみたいだ。そんなこと、ある訳ないのに。

    「綺麗だね」

    私の呟きに返事はなかった。それでも心は晴れている。取り巻く雲を貫くように降り注ぐ光は、希望に見えた。肌を包む空気は湿っぽく、雨特有の匂いが鼻を掠める。いつもなら不快な感覚も、今日は少しも気にならない。

    「ねえ。帰りながら聞かせて、総司のこと。好きなものとか、趣味とか、私の知らない貴方の16年間のこと。あ、でも言い出しっぺは私だから、私から話すね。ただ、あんまり凄い話は無いけど…」
    「そんなの別に期待していないよ。僕も君も普通の高校生なんだからさ。それに、僕は君の、君は僕のことを知るのが目的なんだ。なら、内容は関係ないと思うけど」

    傘に付いた雫を払いながら、総司が言う。歩き出す背中を追いかけて、隣に並んで曖昧に頷いた。いつもならバスで帰る道を、ふたりで話して歩く。好きな食べ物の話になった時、総司は少し視線をずらして小声で言った。

    「金平糖…嫌いな食べ物はネギ」
    「……味覚は全然変わらないのね」

    数秒の沈黙のあと、なんとかそう答えた。こうして話していると痛感する。彼はやっぱり沖田総司で、私はどこまでも名字名前なんだと。それでも今ここで息をしているのは私達で、彼らじゃない。もし最後に待っているのが離別でも、それが前向きな別れであるように。目指す結末は決まっている。そこに辿り着くために、今はただ道を選んでいこう。
 - 表紙 - 
(読了報告として押していただけると嬉しいです)