きっとその心にも春が

咄嗟に掴んだ左手は氷みたいに冷たかった。だけど不思議と驚きはなく、冬に手を握ったのは初めてなのに、なんでかその温度を知っている気がした。でもまあ、冷たいのは手袋もしないで長い時間外にいた所為だろうけど。少し遅れて松田が俺の左隣にやって来る。揶揄うような視線を受け流し、右側の彼女に声をかけた。

「ごめん。成り行きでこんなことになっちゃったけど、嫌じゃなかった?」
「嫌じゃない・・・と言うより、自分の為だから萩原が謝る必要はないよ」
「自分の為?」
「そう。あの人と帰りたくなかったから」

さらりと吐かれた台詞は、軽く受け流せる内容ではなくて、無意識に手を解いてしまった。そっと横顔を覗いてみても、俺にはいつも通りに見える。あの人とは、さっきの父親のことだろう。仲が悪いのかと思ったが、親に反抗するような子ではない気がする。あくまで俺の印象だけど、彼女はきっと、摩擦を生むくらいなら抵抗はしない。

「えっと…もしかして仲悪いの?」
「いや、別に。過保護なところがあるから苦手なだけ。ちょっと目を離したら、私が自殺でもするんじゃないかと思ってるみたい。そんな馬鹿なこと、しないのに」

思わず、俺もお父さん側だと言いかけた。目を離したら、消えてしまいそうだと思う時がある。だけど俺には繋ぎ止める術すら思い付かず、そんな資格すらないのに遣る瀬無くなるんだ。

「今の言葉、ちゃんと聞いたからね」
「え?」
「俺と松田が証人。何があってもその命、投げ出さないで。萩原くんとの約束ね」

流れるように小指を絡めて拳万する。パッと手を離して見下ろすと、彼女は呆然と自分の小指を見つめていた。勝手に約束されて、怒ったかな。それとも安心したかな、なんて。それは俺の願望。

「勝手に人を巻き込むんじゃねぇ」

松田が即座に文句を垂れる。そんな事を言ってるくせに、優しい目をしているんだろう。ふと感じていた気配が消えるから、思わず振り返った。数歩後ろから俺を見る彼女は、どこか困った表情をしている。あ、初めて見る顔だ。

「俺は、苗字が死んじゃったら悲しいよ」
「・・・私は、誰にも知られずに死にたい。だから、そういうこと言われると、困る」
「そいつは無理な話だ。残念だったな」

俺が何か言うより先に、松田が勝ち誇ったように笑った。それに彼女は眉間の皺を一層深くして、唇を震わせる。誰にも知られずに−−−それがいかに悲しいことか、君はきっと分かっていないんだ。

「私、やっぱり帰る」

困惑に染まっていた瞳が恐怖に変わる。背を向けようとするから、手を掴んで制止した。抵抗するように腕を引くけれど、それで逃れられる程、この気持ちは柔じゃない。

「離して」
「嫌だ。今さら距離置こうとしたって無意味だよ。苗字が思ってるよりずっと、俺の中で君の存在は大きいから。居なくなったとしても、俺は君を忘れてあげない。たぶん死ぬまで憶えてる・・・ごめんね」
「全然悪いと思ってないよね」
「はは、バレちゃったか」

拗ねたように下を向くから、堪らなくなる。このまま抱き締めちゃおうかな、なんて。そんな事したら、きっと二度と口を聞いてもらえないだろうし、やめておこう。交わらない視線がもどかしくて、覗き込んで笑って見せる。

「それにさ、ここまで来て背中向けたら神様に怒られちゃうぜ。だから、行こうよ初詣。それとも俺らがお供じゃ不満?」
「おい、誰がお供だ」
「そんなことない。友達と初詣に行くの初めてだから楽しみだけど…お願いする事なんて一つもない」

首を横に振って、そう言った。口元から漏れた白い息に、なんでか目を奪われる。友達だと、そう思ってくれているらしい。

「なら神に頼んでコミュ力上げてもらえよ」

本当に懲りないな、松田は。少しも反省していない様子で欠伸をしている。責めるように視線を送ってみても、どこ吹く風だ。

「松田、お前はまたそういう事を・・・ごめんね、毎度。ムカついたら怒っていいんだよ」

この前伝えられなかった事を、今度はちゃんと言葉にできた。もし納得のいかない事を言われたなら、怒ればいい。いや、ちょっと待て。なに上から目線で言ってんだ。違うだろ。まるで俺が許可するみたいな言い方をしちまった。選択するのは苗字自身だ。俺が不満に思うことでも、彼女も同じように感じるとは限らない。なんでこんなに上手くいかないんだ。ちゃんと言えたと思った途端、間違いに気付く。俺の小さな後悔を払拭するように、彼女は首を横に振った。

「別に怒ってないよ。コミュ力が欲しいと思ったことないけど、松田の好意は受け取っておく」
「ばッ、なにが好意だ!」

驚いた。そしてすぐに、胸を靄のような感情が襲う。特別仲が良い方じゃない。俺も松田も、彼女より他の子との方がよく話している。そんな、多くもない触れ合いの中で、松田が優しい奴だって彼女は理解しているんだ。自慢の親友の良い所を知ってもらえたんだから、喜ぶべきなんだろう。でもこれは、違う。拭うように服の上から胸元を掴んでみる。そんなことしたって、俺の内にある何かが消えてくれるわけないのに。

「あー、悪りぃ。俺、帰るわ。お前ら二人で行ってこいよ」
「は・・・帰るって、ちょ、松田!?」
「観たいテレビ番組あんの忘れてたわ。てかよ、お前らには俺が信仰心深いように見えるのか?だとしたら、その目は節穴だぜ。という訳で、じゃあな」

テレビ番組って、絶対嘘だろ。この時期はどの局も特別番組ばかりだ。それに初詣の願い事なんて、本気で叶うと思っている人間の方が少ない。俺がそんな事を考えている間に、松田はヒラヒラと手を振って、来た道を引き返そうとしている。おまけにすれ違いざまに、含み笑いを浮かべてきた。気を利かせたつもりか。たった今、俺はお前に嫉妬してたってのに。やめてくれよ、本当に。虚しくなるだろ。

「松田」
「んぁ?」

呼び止めたのは、俺ではなく苗字だった。何を言うつもりだろう。一緒に行ってほしいとか、かな。俺の目から見ても、彼女は俺より松田に気を許している気がする。何か用事がある時、ふたりでいれば呼び止められるのは決まって松田だ。小さく溜息を吐いて、紡がれる言葉を待った。

「良いお年を」
「・・・ああ」

思わずズッコケそうになる。いや、もう少しまともに返事しなさいよ。小さくなっていく背中を見つめていると、名前を呼ばれる。振り向けば「行かないの?」と彼女が俺に訊いた。ちょっと待って。男女で初詣とかさ、端から見たら恋人同士だよな。分かってんのか、この子。なんとか頷きを返すと、スタスタと歩き出してしまう。いや、絶対に分かってないな。

「本当は松田とふたりの方が良かったんじゃない?」
「別にそんなことないけど。どうして?」
「どうしてって・・・苗字は、俺よりあいつと話してる時の方が自然に見えるから」

なに自分から傷を広げるようなこと聞いてんだ、俺は。しかもまた地雷を踏んだし。なんで思い通りにいかない。手先だけじゃなくて、人間関係も器用な方だと思ってたんだけどな。いや、これは俺の能力云々の問題じゃない気がする。相手が苗字名前だという時点で、それらは機能しなくなるんだ。言葉にしてしまったのだから、悔いても仕方ない。容易く肯定されるのはちょっと傷付くけど、出会って早10ヶ月、そろそろ彼女の手痛い返しにも慣れてきた頃だ。いいぞ来いと構えていたのだが、一向に返事がない。不思議に思って隣を見ると、苗字は前を向いたまま珍しく悩んでいるようだった。

「萩原って、怖いね」
「えぇ〜……ごめん、予想外の返しで何にも思い付かない」
「自然、か・・・確かに松田と話す方が気楽かな。松田はたぶん、私のこと変な奴くらいにしか思ってないだろうし。でも、貴方は違う。どうにかして私のこと、救いたいとか思ってるでしょ。だから、気を許したくない」

最初は告げられた言葉の意味が理解できなかった。苗字の言ったことは全て事実だ。松田は確かに彼女を好意的に思っている。あいつは基本、女の子にも辛辣だけど、彼女と話すときはその棘が少し丸くなるのを知っている。そして、俺への評価も的を射ている。"救う"は少し大袈裟かもしれないけれど、その息苦しい生き方はやめてほしいと思っている。そこまではいい。問題はその後。だから、気を許したくない−−−"だから"ってなんだ。そこまで分かってて、拒むのか。いや、逆だ。今の言い方だと、分かっているから"こそ"か。

「そんな相手と初詣行くの、可笑しくない?」
「そうかも。でも、萩原と話すの好きだから。自分勝手だよね」

思わず立ち止まった俺に、一歩先で彼女が振り返る。なんだよ、その顔。自分がどういう顔してるのか、知らせてやりたい。そんな悲しい顔で好きって言われるのは、これが最初で最後だといい。

「苗字は・・・幸せになりたくないの?」

自分で言ってて笑いそうになる。まるで、俺と居れば幸せになれるみたいな言い方だ。必ず幸せにする、だったっけ。いつか見たドラマにそんな台詞があった。あんな風に言える奴の気が知れない。一体どこからそんな自信が湧いてくるんだよ。

「私は別に不幸せを望んでるわけじゃないよ。幸せになれたらいいとは思うけど、誰かを必要とする幸せなら要らない」

これまでその"誰か"になりたがる奴は全員切り捨ててきたんだろうか。今の俺みたいに。ああでも、こんな変な奴は初めてだって言ってたな。前例がないなら、まだ結末は分からない。あと少し、せめて君の瞳に俺が映っている間は、諦めさせないでほしい。縋らせてほしい。

「なら、ちょっとは脈アリだと思っていいわけだ」
「・・・どういう意味?」
「もしかして気付いてない?俺を遠ざけようとするのは、俺がその"誰か"になりそうだからでしょ」

俺の言葉に、彼女は零れそうなほど瞳を見開いた。堪らなく安心する。君の心はまだ、凍りきってなんかいない。俺の言葉や行動で色んな顔を見せるのがその証拠だ。この声も、いつかきっと届くと信じたい。

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