いつか瞬く間に

高校生活2度目の4月がきた。今年の春は温暖で、桜はすでに満開を迎えている。散り始めている花びらもあった。ふと、1年前の入学式を思い出す。記憶に残っているのは苗字の背中と、ただの同級生だと笑った萩原の顔だ。そういや、まだ答え合わせしてねぇな。まあ今さらか。俺が察していることくらい、萩原は気付いているだろう。

「来年もお前と一緒かよ」
「またまた〜、嬉しいくせに」
「言ってろ・・・なんだ、あいつも同じクラスじゃねぇか」

張り出されたクラス割り表には、俺らと同じクラスの欄に苗字名前の名前がある。茶化すように隣を見れば、萩原は小さく笑った。嬉しいのか悲しいのかどっちだよ、その顔はよ。正月以来、苗字はどこか余所余所しい。まあ元からそういう奴だが、何かあったのはなんとなく分かっていた。俺が言えたことじゃないが、萩原が要らぬ事を言った可能性が高い。そして多分、こいつはそれを後悔していない。そのくせ距離を取られるのは嫌らしい。我儘かよ。廊下ですれ違う度に気持ち悪りぃ顔される身にもなれってんだ。

「まさか告ったんじゃねぇよな?」
「は・・・流石にそんな冒険はしないって」
「アホか。あいつに興味持ってる時点で、すでに大冒険なんだよ」
「松田、ちょっと横にズレてくれる?」

聞こえた声に肩を揺らした。淡々としたそれは、紛れもなく話題に上がっていた女のものだ。振り向けば想像通り、無表情のそいつと目が合う。どうやら邪魔だと言いたかったらしい。お望み通り横にズレてやれば、小さく礼を言われた。

「おはよう、苗字。ちょっと髪切った?」
「ああ、うん。春休みに揃えた。目敏いね。友達にも気付かれなかったのに」

関心したようにそう言うと、視線はすぐに前の表へと移っていった。一方、萩原は控えめに笑っている。確かにこいつは目敏いが、そこらの女子の髪が2,3センチ短くなったって気付きやしねぇよ。それだけお前のこと見てるってことだろうが。俺なんか言われても、どこがどう変わったのか分かんねぇし。てか、俺を挟んで喋んのやめろ。

「残念ながら、俺らと同じクラスだ」
「そうみたい。1年間よろしく」

皮肉めいた言い方で教えてやる。"残念"の言葉に、苗字は否定をしなかった。なのに、よろしくと笑った顔が予想以上に嬉しげで、驚いた。こいつ、こんな風に笑えたのか。消えそうな雰囲気は相変わらずだが、そこには紛れもなく喜びが見てとれた。

「苗字も教室まで一緒に行こうよ」

萩原の誘いに小さく頷く苗字の瞳が揺れたことに、気付かないフリをした。いつもほとんど表情を変えないくせに、珍しい。微かな変化に気付けても、俺にはそれが何から来てるものなのかまでは判断がつかない。喜びか、それとも恐怖か。どちらにしても、変わったもんだ。その変化がこの幼馴染の影響によるものなのかすら、俺には分からない。苗字名前について俺が知っていることは僅かだ。勉強も運動もそこそこ出来る。友人はそれほど多くない。恐らく心を許している相手はいない。ふざけた顔で笑う奴。並べてみると、よく分かった。薄っぺらい評価ばかりだ。だが別に、俺の観察眼が鈍っているわけじゃない。こいつは本当にそういう人間なんだろう。本人もそれを良しとしている。そのことを気に食わないと思った時点で、俺も絆されているのかもしれない。

「萩原と何があった?」
「確信してるんだね」

隣に萩原はいない。別クラスの奴らに呼ばれて駆けて行きやがった。廊下の途中で尋ねた俺に、苗字は笑う。無言で先を促せば、一度ゆっくりと瞬きをしてからこう答えた。

「拒んだ後でしっぺ返しされたのは初めて」
「ぶはッ、おい、どんな仕返しか詳しく教えろ」
「遠ざけるのは、いつか萩原が大切になるのが怖いからだって、そう言われた。正直、結構困ってる」
「へぇ。んじゃ、あいつが言ったことは事実ってわけだな」

言葉のわりに、全く困った顔をしていないのが笑えた。たぶん、初詣での出来事だろう。やっぱりお前は、やる時はやる男だぜ。ここには居ない親友を誇りに思った。死んでも言葉にしてはやらないが。

「分からない。でもそう言われた手前、強く拒めなくなった」
「そりゃそうだ。拒絶されるほど、燃えやがる。火に油。ククッ、あの野郎、確信犯じゃねぇのか」
「だけど、隣に居たら駄目だってことは確か。私にとっても萩原にとっても・・・っ、松田?」

やばい。そう思った時にはもう遅かった。怯えたように俺を映す瞳に、我に返る。ついさっきまで、面白おかしく聞いていたはずだ。苛つきの理由なんて、俺が一番よく分かってる。隣に居たら駄目−−−百歩譲ってそれはいい。だが、"萩原にとって"は納得いかない。それを決めるのはお前じゃなくて、萩原自身だ。

「おい、約束しろ。あいつを、諦めるための理由にはするな」
「・・・松田は優しいね」
「テメェ、女だからって調子に乗んな」
「貴方も萩原も優しすぎるから、私みたいな人間を気にかけちゃうんだろうね。善処するよ。理由付けが必要になる前に、離れる。それがきっと、"私"にとって最善だから。じゃあ、また」

そう言った時の横顔は、俺の嫌いな色をしていた。返す言葉を思い付くより先に、教室に着いちまう。話は終わりと、苗字は自分の席へと迷いなく向かって行く。どうせなら、人生もそれくらい堂々と歩けばいいだろ。好きな奴と、好きに生きればいい。息苦しいその生き方より、よっぽど充実しているに違いない。

「そんなに難易度高いことじゃねぇだろうが」

盛大な溜息を吐いた俺を、扉の近くにいた女子達が怪訝そうに見てくるが知ったことか。数分後、遅れてやって来た萩原が不思議そうに覗き込んでくる。不機嫌の理由を尋ねてくるから、無言で蹴りをくれてやった。

**

「散るの早いねぇ」
「そうだな」

帰り道。通りに咲く桜の木を見上げて、萩原が言う。それに相槌を返し、欠伸を噛み殺す。眠い。春は昼寝にはうってつけの季節だ。始業式だから下校は早い。さっさと帰って昼寝しようと思っていたら、萩原がたまには違う道で帰ろうと言い出した。別に用事があるわけじゃなかったから、こうして付き合ってやっている。

「あ、陣平ちゃん。ちょい待ち。俺そこの自販機で飲み物買ってくっから」
「コーラ」
「なんで奢り前提!?」

ぶつくさ言いながら、道路を渡っていく背中を見つめた。ああ、なんか既視感があると思ったら、初詣の時に通った道か。鼻腔を軽く刺激した線香のにおいで思い出す。その時、キキッとブレーキの音がした。車じゃない、自転車のブレーキ音だ。強く握った時に出る、あの独特な音。視線をその方に動かせば、そこにはひどく驚いた様子の女がひとり。エンカウント率高すぎだろ。萩原は気付いていない。それを好機と捉えたのか、苗字は逆方向に走り去ろうとする。させるかよ。

「おい、ハギ!もう一本買え!」
「え、なんで・・・って、苗字?」

退路を断ってやると、無表情でこっちを見てくる。おお、怖。そこに飲み物を抱えて萩原が駆け寄ってきた。俺にコーラを放って、苗字に笑いかける。炭酸飲料を投げんじゃねぇよ。

「下校途中で会うの初めてだね。いつもここ通ってるの?」
「ちょっと用事があって」

用事、ね。放課後に一人で済ませる用事なんて、俺には思い付かない。バイトなら隠さず言うだろう。そもそも苗字のバイト先とは逆方向だ。知りたいとは思わないから、尋ねることもない。だが、萩原は違うんだろう。今だって、曖昧な返事に目を細めている。無理もない。苗字名前と悩まずコミュニケーションが取れる奴がいるならお目にかかりたいくらいだ。それにこいつは、自分のことを話さない。少なくとも俺は、好きな食い物も、趣味も、家庭環境も、何一つ知らない。

「そっか…はい、これ。ミルクティーでよかった?」

萩原がミルクティーを差し出す。苗字はそれを見下ろして、諦めたように自転車を立たせてから、受け取った。そして自然な動作で、カゴの中の鞄を自分の方へ引き寄せる。

「うん、ありがとう。いくら?」
「これくらい奢りでいいよ」

財布を出し始める苗字の手を、萩原がやんわり止めた。それにまた礼を言う。妙な所で律儀な奴だ。パキッと音を立ててペットボトルのキャップを開けると、少しばかり口に含んで視線を伏せる。相変わらず何考えてんのか分かんねぇな。無言で観察していたら、顔を上げた苗字と目が合った。いや、合っていない。その視線はもう少し上、俺の頭を見つめている。

「なんだよ、ジロジロ見て」
「それ、流行ってるの?」
「ああ?何の話だ?」

それって何だ。まさか今さらこの髪のこと言ってんのか。こりゃ地毛だっつの。説明してやる気にもなれずガンを飛ばす俺の横で、萩原も首を傾げる。そして、不思議そうにこっちを見て、吹き出した。

「ぷっ、じ、陣平ちゃん。頭に桜の花びら付いてる……く、か、可愛いね……ぶはッ」
「いい度胸だ。歯ぁ食いしばれ」

指の関節を鳴らし、肩を揺らしてヒーヒー言っている幼馴染の首を絞める。大袈裟に苦しみ出すが、構うか。許さねぇ。割と強めに力を込めようとしたその時、髪に何かが触れる。

「癖毛とワックスのせいで取れなかったみたい」

苗字がそう言って、俺の髪から花びらを取ると、手のひらに乗せて笑う。春が似合わない女だった。温もりとは無縁な奴。なのに何故かその瞬間だけは、桜に似ていると思った。限られた時間咲いて、最後は儚く散っていく。俺や萩原は、ただの花見客にすぎない。その終わりを、止めることは出来ない。強い風が吹いて、花びらが攫われていく。その時、パシッと乾いた音がして視線を移せば、萩原が苗字の腕を掴んでいる。掴んだ本人が狼狽えているから、訳が分からない。無意識でやったのか。

「萩原?どうかした?」
「いや、なんか…飛んで行っちゃいそうだなって」
「なにそれ。綿毛じゃないんだから」

萩原の言葉に、苗字はクスクスと静かに笑う。だが、俺には分かる気がした。今みたいに萩原が手を掴まなければ、いつか本当に、こいつは煙のように風に攫われて行くんだろう。

「でも、そうだね。飛んで行けたら楽かも」

ほらな。無抵抗で身を任せて、別れすら告げることもない。ちゃんと視界に映していても、一度瞬きする間に姿を消しちまう。そんな予感がしている。

「じゃあ俺が、ちゃんと手を繋いでおくよ」

決めたのか−−−萩原の顔を見て、そう思った。コーラを飲み干しながら、横目で苗字の様子を窺う。眉を下げて逡巡している様に、口角が上がった。どうやら困らせる域まできたらしい。どんな答えを出すのか、見物だな。

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