最悪の妥協点

「おい、ハギ。飯買いに行くぞ」
「おっけー」

3ヶ月経った7月の初め。とある日の昼休み。松田に声をかけられて、鞄から財布を取り出す。ふと視線を感じて顔を上げると、苗字と目が合った。全く視線を逸らす気配がなくて、仕方なく控えめに笑っておく。もちろん、微笑み返されることはない。それは別にいいけど、なんだ今の。初詣以来、俺は彼女に警戒されている。始業式でのやり取りもかなり効いてる、と思う。だからあんな風にじっと見られるなんて、ここ最近なかった。いや待てよ、一度もないだろ。

「萩原」

松田と購買に行こうとしたところで、後ろをから声をかけられた。思わず肩が揺れる。驚きの理由は、彼女が松田じゃなく俺を呼んだからだ。一緒にいて俺を呼び止めたのは、初めてかもしれない。頭が上手く回らない。つまり、どういうことだ。

「今日の放課後、空いてる?」
「……空いてます。むしろガラ空き」
「話したいことがあるから、1時間だけいい?」
「勿論」

肯定の意を示すしかできない。コクコクと赤べこも吃驚の首振りを見せる。事務連絡のような会話。会話のキャッチボールどころか、ボールを手渡されている感じ。返すタイミングを見失って、溢れ出しそうだ。俺の頷きを見届けて、「じゃあまた放課後に」と言い残し教室へと戻って行く。

「ガラ空きってなんだよ。過去一ポンコツな返事だったぜ」
「ではここで一句。研二くん あの子の前じゃ 台無しだ、ってね」
「13点」
「厳しい〜・・・デートのお誘いかな」
「んなわけねぇだろ。ま、鎧は着て行くことだな」

分かってるよ。そう答える代わりに曖昧に笑って見せる。心に鎧を着たところで、彼女の攻撃はそれを貫いてくるに違いない。初めて向こうからアクションがあったのは喜ばしいことだけど、心構えは必須だ。一刀両断される覚悟をしておくべき。

「骨は拾ってやるよ」
「洒落にならないこと言うのやめて」

お陰様で午後の授業、と言うより全ての音が右耳から左耳へ抜けていった。その日の最後の授業中、苗字の後ろ姿を見つめる。隣の列の3つ前が、彼女の席だ。残念なことに横顔は見えない。皺一つないシャツ、ノートをとる度に揺れる髪、踵を履き潰した跡のない上履き−−−嫌になるなぁ、本当に。どこを切り取っても愛しいとかさ。視界に掛かった前髪を掻き上げる。好きで伸ばしていたはずなのに、邪魔だと思った。

「(気付かせてくれるなよ)」

自覚し産まれたその日に、この恋は死ぬかもしれない。彼女のことだ。涼しい顔でトドメを刺すんだろう。どうにかして救う術を模索する時間はない。あと1時間後にはその時がやって来る。焦って良い事なんてないのは分かっているけど、思考していないと叫び出しちまいそうだ。無機質なチャイムの音に我に返る。体感5分くらいで授業が終わった。

「Good luck.」
「だからそれフラグなんだって!」

肩をポンと叩いて松田が言う。映画じゃ絶対死ぬやつじゃん。ていうかそもそも、俺って告白したわけじゃないよな。え、戦わずして負けるってことなの。なにそれ酷い。心で頭を抱えていると、苗字が近付いてくる。カウントダウン始まっちゃったよ。

「松田も一緒に来るの?」

まさかの提案に、俺だけじゃなく当の本人も顔を引き攣らせている。いやいや、流石にそれは御免被りたい。彼女の後ろから松田に向けてブルブルと首を横に振った。不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、舌打ちされる。願い下げだって聞こえたわ。

「誰が行くか」
「そう。ならお礼だけ。アドバイス、ありがとう」

その言葉に松田が目を細める。アドバイスってなんだ。俺が知らないところで彼女に何か言ったのか。そうだとしても、それは絶対に俺を思ってのものだったに違いない。そういう奴だと分かっているのに、何故か気に入らなかった。小さい男だな、俺は。親友を、突き放された時の理由にするつもりかよ−−−お前が余計なこと言った所為だって、俺は松田にそう言うのか。親友を詰ったその口で彼女に何を伝えられるってんだよ、馬鹿野郎が。

「2丁目の喫茶店のかき氷、食べたことある?」
「かき氷・・・ない、けど」

校舎裏の駐輪場で、彼女が言った。シリアスな雰囲気を予想していたから、そんな返事しか出来なかった。まさかのマジでデートって落ちはないよな。

「暑いし、外で話すのもなんだから、どこか入った方がいいかなって。あそこの宇治金時、一度食べてみたかったから・・・なに?」
「ああいや、苗字が女子高生らしいこと言うの初めてだと思ってさ。なんか嬉しい」
「嬉しい?どうして?」
「内緒」

美味しいスイーツ、上手な化粧の仕方、流行りのコーディネート。ひっそりと消える方法を探すより、そういう他愛もない事で君の思考を一杯にできたらいいのに。あとは俺の事を、その片隅に置いてくれたら最高なんだけど。そんな淡い理想は、容易く崩れ去った。

「結論から言う。萩原の手は取れない」

店内は騒がしいはずなのに、その声は迷いなく俺の耳へと飛び込んで来る。スプーンでかき氷を掬った後で、毅然と彼女はそう言った。たった今、ちっぽけな恋が消えそうになってるってのに、世界は滞りなく進む。一番端の席で話す俺達なんて気にも止めず、他の客達は談笑を続けている。喧騒がやけに遠くに聞こえた。それでも俺は存外、冷静らしい。この後どうすべきか、何を言うか、すでに整理できている。

「俺のこと、嫌い?」
「嫌いだったら、こんなに答えに窮したりしない」

それならなんで、だなんて分かりきった質問はしない。彼女に会うまでは、人は自然と温もりを欲する生き物だと思っていた。振り向かずひたすらに、冷たい方へ行こうとする君を、俺はどうしたら引き止められるだろう。違うな。俺が、君と居たいんだ。

「−−−萩原と過ごす時間は好きだよ、とても。一緒にいたら、人生は鮮やかになるんだろうね」

そう言って微笑むと、緑色の氷を砕いてまた一口含む。大事な話をしているんだからと、咎めようとはしなかった。その所作を、食べる度にふっと嬉しそうに笑う顔を見ていたかったから。

「でもそれは私にとって、なくても平気なものだから。このかき氷と同じで、あったら嬉しいけれど、貴方が居なくても生きていける」

生きていくのに必須なものなんて限られている。お金、食事、睡眠、空気。でもそれらは、あくまで生命維持のためのもの。じゃあ心は−−−君の心には誰が水を注ぐんだ。たった一人で、何を糧に生きていく。気付いてないの、さっきから『でも』とか『けど』とか言って、必死に否定しようとしてる。本当は、その胸の奥には違う答えがあるんだろ。どうにかして別の答えを出してほしい俺と、頑なにそれを選ばない君。どちらも叶えられないなら、どうすればいい。

「冬に図書室で話したの、憶えてる?あのとき俺に言ったよね、応えることはないって。それが今日、取れないに変わったんだ」

俺の言葉に、苗字の瞼が僅かに動いた。追い詰めるつもりなんてないよ。ただ、知っていてほしい。一瞬でも君が、誰かを求めたこと。その相手が俺だったこと。

「それがさ、すっごく嬉しい」

頬杖を突いて、覗き込むように目を合わせる。カランと音を立ててスプーンが皿に落ちた。困惑の色を湛えた瞳、小さく噛んだ下唇。机の上に置かれた左手は、真っ白になるくらい強く握られている。骨をなぞるように人差し指で触れてみた。引っ込められそうになるから、拳ごと掴む。

「苗字が手を取りたいって思った時のために、近くに居るよ。手の届かない距離じゃ意味ないし、他の奴に掻っ攫われるのは嫌だから」
「そんな物好きは、貴方以外に現れないと思う」
「わお、言うね〜」

雰囲気を吹き飛ばすように笑ってみたけど、彼女は少しも楽しくなさそうだ。それはそうか。たった今振った男に離れません宣言されて、笑っていられるわけない。一歩間違えればストーカーだし。

「条件が一つ、期限を決めて」
「へ、期限?あー、成程ね。ちなみに希望は?」
「希望・・・高校卒業まで」
「え、短くない!?青春なんてあっという間だよ」
「最大限に譲歩したつもりだけど」
「却下。んー、それじゃあ大学卒業するまでで」

まさか条件を提示されるなんて思ってなかった。そもそも受け入れてくれたことが信じられない。俺の提案した期限に、彼女が控えめに頷いてくれても、実感が湧いてこない。おいおい、これは予想より何倍も良い結果なんじゃないか。

「じゃあ俺からも一ついい?」
「なに?」
「終わった時、もう一度答えを聞かせて。俺の手を取るかどうか。もしまた『取れない』って言ったら期間延長ね。『取らない』だったら俺も潔く身を引く・・・努力をするよ」
「私、嘘つくかもしれないよ」
「はは、冗談。だって苗字、嘘下手くそじゃん。それに俺、そういうの見破るの得意だから」

何を言うかと思えば。つい笑ってしまった。表情が乏しいけれど、彼女は案外素直だ。隠されたとしても、見破る自信はある。馬鹿にしたつもりなんてないのに、不機嫌そうに眉を寄せるから、また愛しさが募った。

「不思議なんだけどさ、どうして受け入れてくれたの?俺との関係、切るつもりだったんでしょ?」
「いや、筋書き通りだよ」
「え・・・ちょ、どういう意味?」
「萩原が諦めないことは分かってた。回避できないなら、妥協するしかない。その上で、いかに最善の妥協点に近づけられるかが問題だった。10年くらいは覚悟してたんだけど半分の5年に落ち着いたから、むしろ予想より良い結果だよ」

つまり何か、俺は彼女の掌で転がされて、しかも大勝利させちゃったわけかよ。くそ、大学卒業までなんかじゃなくて50年くらいにしとけばよかった。駆け引き強すぎかよ。それにしても、頑なだと思っていたその胸に秘められた誓い−−−『ずっと前に決めた事』は、意外に柔なのかもしれない。それがどんな内容なのかは分からない。だけど、俺というイレギュラーを受け入れたのが証拠だ。なら、5年でぶっ壊せるんじゃないか、なんて。そんなことを思った愚かな高2の自分に、絶望感で一杯の4年後の俺はなんて言葉をかけるだろう。いや、言葉なんかじゃなく、ブン殴るに違いない。

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