傍にいるための理由

期間は大学卒業まで。他人でも恋人でもない。友達でもない気がする。ただ、彼女にとって二つとない場所を許されたという事実が、俺にはとても意味のあることだった。

「で、どうだった?」
「なんとか生き延びたって感じかな。大学卒業までは付き合ってくれるって」

そう答えると、松田が目を見開くから、得意げな気持ちになる。なのに次の瞬間には、見慣れた顰めっ面が返ってきた。言わんとしていることを理解し、苦笑しつつ先手を打つ。

「そんな怖い顔すんなって。分かってるよ。何もしないんじゃ意味ないって言いたいんだろ」
「ああ。そんなのは、ただの自己満足だ」
「陣平ちゃん、辛辣すぎ〜」

そう、分かってる。この不確かな関係に満足してしまえば、ただ悪戯に時間は過ぎて、俺と苗字の距離は縮まることなく終わりが来る。何故って、彼女には俺と仲を深めようなんて気は微塵もないから。

「頑張ってみるよ」

この頃はまだ、彼女の言った"救う"が叶う日が来ると思っていた。心のどこかでそれが出来ると、信じていた。何一つ根拠なんてないのに。

**

季節は秋になった。11月。放課後、踊り場の窓から外を見れば、澄んだ空が広がっている。こんな綺麗な空を見て溜息が出てくる俺は、恋する乙女ってところだろう。すれ違う生徒はいない。今は三者面談の時期だから、当然だろう。

「本当によかったの?私立だって構わないのよ。それに一人暮らしだなんて・・・」

階段を上りきったところで、声がした。角を曲がった先。誰かの母親だろうか。随分と優しい。うちは金持ちばかりの高校じゃない。だから特待での入学や、国立の大学を狙っている生徒も多い。それに比べたら、なんて甘い言葉。

「その話はもう終わったはずだよね。仕送りもいらない。そのためにバイトしてるんだし。国立で学びたいことは学べるんだから、態々お金を掛ける必要なんてない」

ピタッと足が止まる。聞き間違えるはずがない。淀みのないその声は、苗字のもの。内容に反して声音は柔らかく、まるで親が子どもに言い聞かせているようだ。立場が逆じゃないのか。聞き耳を立ててるのも悪い気がし始めたその時、こっちに近づいてくる気配。慌てても遅かった。角を曲がってきた彼女とばっちり目が合う。

「萩原」
「あー、ごめん。ちょっと教室に忘れ物してさ」
「そう。今なら空いてるから大丈夫だと思うよ」
「あら、お友達?」
「・・・うん。同じクラスの萩原」
「そうなの。いつも娘がお世話になっています」
「いえ、そんな」

上手い言葉が見つからなくて、とりあえず謙遜してみる。あんまり似てないな、そう思った。人好きのする笑みは、苗字のものとは全然違う。そんな母親を興味なさげに見つめながら、彼女は肩の鞄を掛け直す。

「じゃあ私、図書室で勉強してから帰るね。今日はありがとう、仕事休んでくれて」
「どういたしまして。気を付けて帰って来るのよ」

手を振る母親に小さく頷く。俺には一瞥だけを寄越して、素通り。相変わらずクールだなぁ。真っ直ぐな背中を見送りながら、苦笑する。すぐに母親も会釈をして階段を下っていく。なんだか一気に疲れた。息を吐いて、用事を済ませる。机から数学の参考書を引っ張り出した。こいつがないと出された課題が出来ない。あとは教室を出て、家に帰る。そのつもりだったのに、俺の足は階段を下ることなく廊下を進む。だって、そうだろ。居場所が分かってるんだから、行くしかない。図書室に入って、一番端の席にその姿を見つける。ところが勉強している様子じゃない。頬杖を突いて、窓から外を眺めていた。他に生徒はいない。俺が斜め前の席に腰掛けると、ゆっくりとその視線が動く。呼びかける前に目が合うのは珍しい。

「松田は一緒じゃないんだ」
「いくら幼馴染でも四六時中一緒ってわけじゃないよ。俺が忘れ物したって言ったら、先に帰るって。あいつ、気が長い方じゃないからね」
「そう・・・萩原は帰らないの?勉強?」
「いや、苗字と話したくてさ」

そう言えば、彼女は切なげに瞳を揺らした。胸が鳴る。俺が笑いかける度に眉を寄せて困った表情をしていたのに、今はどこか仕方ないって顔をしてる。心を開かない野良猫が、初めて手から餌を食べてくれたみたいだ。その変化が俺に齎す喜びを、君はきっと知らないんだろう。ふと机の上を見ると、鞄から顔を覗かせていたのは大学のパンフレット。俺でも知っている、有名な都内の国立大学だ。

「本当に国立受けるんだ」
「うん。学費が全然違うし、私立じゃ一人暮らしさせてもらえなさそうだから」
「実家を出たいと思うのは、"ずっと昔に決めた事"が理由なの?」
「・・・萩原って、詮索好きだよね」

ほらまた、仕方なさそうに笑う。そんなにガード緩めちゃって平気なのかな。付け込みたくなるから、隙を見せたりしないでほしい。その心に踏み入って、最深で佇む君の所へ駆けて行きたくなる。

「残念、ハズレ。俺はどっちかって言うと聞き役だよ。その方が相手は楽だからね」
「なら、私にもそうしてほしいんだけど」
「それは難しいな。だって苗字は、訊かれなきゃ自分のこと話さないでしょ。でも俺は知りたいんだ、君のこと」

何も尋ねなければ、知ることはできない。もし彼女が、周りの人達に自分を明かすような子だったら、そんなことはしなかった。噂とか人伝で知ることができるから。だけど彼女は誰にも明かしたりしない。その胸に秘めたものを、ずっと自分だけで抱えていくつもりなんだろう。

「教えられることなんて、何もない。私はそんなに中身のある人間じゃないから」

そう言った時の表情は、俯いているせいでよく見えない。でもその声が震えているのが分かって、安堵の次に嬉しさが湧き上がってくる。葛藤とは無縁な子だと思っていた。その生き方に自信すら持っているように見えた彼女が今、惑っている。もしその引き金になったのが俺なら、夢みたいだ。

「じゃあさ、これから一杯にすればいいじゃん」

顔が見えないのがもどかしくて、右手で前髪を払う。急に触られた所為か俺の言葉にか、彼女が弾かれるように顔を上げた。目が合って、驚く。その瞳は潤んで揺れていた−−−まさか泣いているのか。だけど次の瞬間、それは怒りに染まる。

「そんな簡単に言わないで・・・私が必死に守ってるものを、壊そうとしないで……ッ、萩原といると、苦しくなる。こんなの、要らない」

立ち上がってそう吐き捨てて、彼女は俺を見下ろした。瞬きをしないのは、涙を零したくないからだろう。だって今にも溢れそうだし。不思議と、悲しくはなかった。込み上げてきたのは、苛つき。俺は苗字じゃないけど、たぶん彼女の気持ちを本人より理解できている。

「────本当に?」

意図していたより冷たい自分の声。視線が交わると、彼女が息を飲む。いいんだ、これで。だって俺は今、ムカついているんだから。苦しいって顔じゃないだろ、それ。おまけに最後の『要らない』はめちゃくちゃ震えていた。これを真に受けるようじゃ、俺はとんだポンコツだ。そういえば昔、松田がよくこんな顔で不貞腐れていたっけ。そんな事を思い出す自分に内心苦笑しながら、立ち上がる。机をぐるりと回って、佇んだままの彼女に近付いた。強い言葉で拒絶したくせに、俺を見る瞳は怯えている。視線を合わせたまま無防備な指先に触れれば、今にも逃げ出そうとするから、素早く手首を掴んで引き寄せた。押し返そうとするもう片方の手を握って捕まえる。

「本気で嫌なら、ブン殴ればいい。俺、女の子には手上げないから、たぶん苗字の方が有利だよ。大声で叫んでもいい。図書室だし、すぐに誰か飛んで来てくれる」
「殴らせる気ないよね・・・もう、離して。逃げないし、誤魔化しもしないから」

お望み通り解放すると、苗字は浅い溜息を吐いて視線を落とした。こんなに距離が近いのは初めてだ。睫毛長いな。髪は滑らかで肌触りが良さそうだ。唇は艶があって、少しも荒れてない。キスしたら、すげぇ柔らかいんだろう。いやいや待て、今はそんなこと考えてる場合じゃない。

「この決め事は私にとって大切なものなの。それを脅かそうとする存在から逃げるのは悪いことじゃないはず。曲げるつもりは微塵もない。萩原はまた答えを聞かせてって言ったけど、私には同じ答えを返す自分しか想像できない。なのに・・・さっき貴方から冷たい瞳を向けられた時、恐怖より先に切なくなった。やっと、悲しみも喜びも感じなくなったはずが、この有様…苦しいのかも分からない。自分がどうしたいのかすら分からない人間なんだよ、私は」

諦めたように再び椅子に座って、これまでが嘘みたいに饒舌になる。心を抉られるような言葉達に半ば折れかかっていると、急に掌を返してくるんだから質が悪すぎる。切ないなんて言っちゃっていいわけ?それ、恋愛の常套句だからね。そもそも『どうしたいのか』なんて分からない人間は大勢いるし、そんなのは途中で見つければいい。俺だってぶっちゃけ、彼女とどうなりたいのか分からないでいる。幸せになってくれればいいのか、それとも俺が幸せにしたいのか。ああ、なんかもう、言葉を選ばなくてもいいか。つまりは、俺も君も己の願望すら言えない不器用者同士ってことでしょ。

「萩原は…どうしてそこまで私を気にかけるの?」
「どうして、ね・・・最初はただの興味かな。俺に靡かない子って珍しかったから。ああ、自慢とかじゃなくてさ、人付き合いは得意な方だし、一回話したら次があることの方が多いんだ」

隣の椅子に腰掛けて、質問に答える。最初はそう、純粋な興味だった。世界に無関心な女の子。

「自慢だなんて思ってない。いつも次があるのは、一度関わったら、誰だってまた話したくなるからだよ。萩原には、そういう魅力がある」

そのくせ話してみれば、真顔で人の心臓を鷲掴みしてくる。時々子どもみたいに正直だ。自分の言動や行動が、どれ程俺の胸を揺さぶっているのか、分かっていないんだろう。少し近付いたと思ったら、すぐに離れていく。その心は見えないし、触れられない。なのに、綺麗だってことは知ってる。

「その魅力とやらも、君の前じゃ形無しだろ?」
「そんなことないよ。萩原と話すのは楽しい」
「・・・それだよ、それ」
「それ?」
「苗字は隠し事はしても、絶対嘘は言わないでしょ。自分を飾らずに話してくれるところ、好きだなって思った」

反応が見たくて、頬に手を突きながら横目で視線を送る。好きだと告げた瞬間、困惑するように瞳を揺らすから笑ってしまった。言われる側の気持ち、少しは分かってくれたかな。仇は討ったぞと、そう心で松田に伝えた。

「それからは、ただ気になって・・・今に至るってところかな」
「途中、濁しすぎてない?」
「そりゃそうだ。俺もよく分かってないんだから」

怪しむように見てくるから、苦笑しながら両手を上げる。降参、降参。なんとなしに言ったのに、苗字はひどく驚いた顔をしていた。理由が分からなくて首を傾げた俺に答えるように、彼女が口を開く。

「萩原でも、分からないことがあるんだ」
「俺のこと何だと思ってるの?宇宙人?」
「ふふ。こんなに優しい宇宙人じゃ、地球征服は無理だね」

嗚呼ほんと、卑怯だよな。またそうやって、静かに微笑んだりしてさ。差し込んだ夕陽に溶けていきそうだ。俺がいくら叫んだって、きっと君は振り向いてはくれない。だけどもし光を望むなら、その瞬間、手を伸ばすのは俺であってほしい。だから今は、ここに居る。君の隣に、手を取れる距離に。

「俺を利用すればいい。どうしたいのか……最後、苗字が本当の望みを口に出来るように、俺に手伝わせてよ」
「ッ、どんな結末でも、後悔しないの?」
「しないよ。たとえ最後に、やっぱり要らないって言われても、それが君の本心ならね」

もし本当にそうなったら、俺は泣くのかな。だけど、目に映るその背中は、今以上に凛々しくて真っ直ぐなんだろう。それだけで、十分だ。だってそれは、たとえ向かう先が暗闇でも、君が自信を持って進むと決めた証拠だから。きっとこれが、意気地なしの俺が選べる最善。

「他に質問は?」
「ない」
「よし、じゃあ契約成立ね。はい、握手」

膝に乗せられていた手を取って、笑う。触れた手の温度を、小さく握り返してくれた感触を、忘れてはいけない。何故かそんな気がした。それはきっと、未来の俺からの警告だったに違いない────その全てを感じられなくなる日が来るのだと、教えようとしたのだろう。

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