ブレーキに足を

「んじゃ、陣平ちゃん。また明日、ちゃんと真っ直ぐ帰るんだぞ〜」
「うるせ、さっさと行け!」

気持ち悪い。今日の萩原を一言で表するなら、これだ。春夏秋冬ヘラヘラしているような奴だが、今日は群を抜いて表情筋が緩み切っていた。もはや尋ねる気にもならない。どうせあの女絡みだ。欠伸を噛み殺し、下駄箱に上履きを突っ込んだところで、声がかかる。

「松田ひとり?珍しいね」
「俺とあいつをセットにすんな。萩原は今日、三者面談なんだよ」
「ああ、成る程」

興味ゼロかよ。いっそ清々しい。10年以上一緒にいたのに初めて知ったぜ。ハギの奴、マゾだったのか。そんなことを考えながら「じゃあな」と手を振ると、何故か引き止められた。顔だけを向けてみれば、苗字は見たことないような顔をしている。珍しく逡巡しているのが分かった。だがそれも一瞬で、すぐに唇を引き結んで言う。

「松田・・・私、貴方の忠告を聞けなかった。萩原の手を振り払えなかった」
「俺がいつそんな忠告したよ?お前、頭は良いのに実は馬鹿だろ」
「中途半端にね。温もりを感じないくらい馬鹿に成り切れたら良かった・・・一つ、お願いがあるの」

見当違いなことを言うのが面白くて、鼻で笑ってやった。それで拗ねたり怒ったりするような奴じゃないのは分かっていたが、予想外の申し出に思わず身体ごと向き直る。こっちを見上げる瞳は、淀みなく俺を映していた。こういう時は、あの儚い雰囲気が嘘みたいに影を潜めやがる。本当に同じ人間かと疑いたくなるくらいに。

「もしもの時は、ちゃんと萩原を助けてね」
「・・・は?」
「卑怯なこと頼んでいるのは重々理解してる。でも正直、拒み切れる自信がない。勿論、松田の言った通り、選ぶのは萩原自身。だけど、もし貴方が駄目だと判断したなら、迷わず止めて−−−お願い。殴ってでも、目を覚まさせてあげて。それはたぶん、松田にしか出来ないから」

ふざけんな。そう叫びたかったのに、無理だった。俺は生憎、盆暗じゃない。その答えが、どれだけ葛藤して悩み抜いたうえで出されたものなのか分かっちまうから、頷く以外の選択肢なんて残されていなかった。苛々するぜ。なんで、揃って堕ちていく前提なんだ。どうして一緒に這い上がろうとしない。萩原に、そんな覚悟はないって思ってんのか。ああ、クソ。言いたい事は山程あるのに、上手く言葉に出来ねぇ。口を開けば、俺は確実にこの女を詰っちまう。だがそうしたところで、効果はゼロ。こいつはどうせまた、その場凌ぎの笑顔を返すに決まってる。何も、言えなかった。それを見透かしたように、苗字は俺の横を通り過ぎていく。おい、まだ返事してねぇだろうが。心で吐き捨て振り向いたときにはもう、その背中は見えなくなっていた。

「ブレーキかけるのは、いつもあいつの役目だっつーの。立場逆じゃねぇか・・・クソったれ」

**

3年になって、萩原とクラスが分かれた。ちなみに苗字は俺と同じクラス。それを知った時の萩原の顔は、かなり笑えた。日頃の行いだ、馬鹿野郎。あまりの間抜け面に、写真を撮っとくんだったと後悔した。

────お願い。

時折、頭を掠める記憶。あいつらの関係がどんな風に落ち着いたのか、俺は知らない。訊くつもりもない。だがあれ以来、萩原は苗字を見かける度に声をかけるようになった。ただ、それだけだ。一緒に下校したり、二人きりで飯を食ったりするわけでもない。まあ、そんなことをし始めたらすぐに噂になるだろう。そうなれば多分、苗字は今度こそ萩原との関係を断つに違いない。あの女は交友関係が広がるのを嫌っている。

────誰にも知られずに死にたい。

繋がりを持ちすぎれば、あのふざけた望みが叶わなくなるからだろう。しかし、萩原研二がいる限り、それはもう叶う見込みがない。ざまあみろ。そう心で言った後で、虚しさだけが残った。何故か、最後に笑うのは苗字だという、確信めいた予感がする。楽しげな笑顔じゃない。浮かべているのは、俺の嫌いなあの微笑み。それを掻き消すように頭を振った。

「あれ、もしかしてもうギブアップ?」

揶揄うように尋ねてくる萩原を睨みつけた。誰の所為だと思ってんだ。舌打ちをして机に視線を落とす。テキストに並んだ文字の羅列に、頭が痛くなってくる。高3にもなれば、学校生活の主体は勉強だ。今まで馬鹿やってた時間も、こうして机に向かわなくちゃならない。他人のこと考えてる暇なんて無いんだよ。

「ハギ。お前、大学行っても苗字と関わるつもりなんだよな?」
「愚問だね。意外にコロッと落ちちゃうかもよ〜・・・・って、顔怖ッ。冗談だって」
「気緩めんじゃねぇぞ。自分でよく言ってんだろうが。順調にいってる時ほど、危ねぇってよ」
「ちょ、現実になりそうだからマジでやめて」

止めろだと?あの女、涼しい顔で無茶言いやがって。それなら、逐一報告しろってんだ。状況も分かんねぇんじゃ、止めるもんも止められないだろ。いやでも、一から十まで報告されんのも耐えられねぇな。親友の恋愛事情を聞かされるなんて地獄でしかない。

「心配してくれてんの?」
「警告してんだよ、ばーか。しょうもねぇ結果になって、隣でベソかかれるなんざ御免だからな」
「ほんと、素直じゃないよね〜・・・でもま、肝に銘じておくよ。それだけ危ない橋渡ってる自覚はあっから」

引き返すつもりなんて、これっぽっちも無いと横顔が語っている。決めたんなら、進めよ。かなり癪だが、あいつの忠告には従ってやるさ。それくらいの情は俺にだってある。

**

面倒な季節がきた。そう6月、梅雨だ。一生付き合っていくしかないが、相変わらず面倒な相棒だな。苦笑しながら、鏡の中で爆発してる髪を撫で付ける。どっかの優男は女子みたいな髪質のくせに。もういっそ、全人類坊主にしちまえばいい。

「本当に彼女じゃないの?」

トイレを出て階段を下りていると、そんな声が鼓膜を掠めた。棘のある言い方と雰囲気に、どんな話題か想像がついた。マジでこういう修羅場ってあんだな。漫画やドラマの中だけかと思ってたぜ。さて、標的は一体どこのどいつだ。手すりから少し身を乗り出し様子を窺って、驚く。階段の下の薄暗い場所で、女子3人に囲まれているのは苗字だった。険悪な空気の中、その横顔があまりに普通でドン引きする。

「違う」
「嘘・・・最近よく話してるじゃん」
「会話なんて、ほとんどの女子がしてるでしょ」
「でも、萩原くんから話しかける子はいないの」
「そう。じゃあ、本人に訊いた方がいい。行動しているのは萩原なんだから」
「そ、そんなの無理に決まってるじゃない!」

おいおい、正気か。なに火に油注いでんだ。てか、俺に言われるとかよっぽどだぞ。完全に煽りにいってやがる。止めるべきか。いや、俺が出て行ってどうすんだ。萩原を呼ぶか。駄目だ、それは余計に面倒なことになる。俺が逡巡している間も、会話は続いているようだった。

「5分47秒」
「は?」
「貴方達との会話に費やした時間。これだけあれば数学の問題が一問解ける。本当に不毛」
「なっ、あんた何様のつもり!?」

中心にいた女が声を張り上げる。ハッとした時には遅かった。そいつは苗字の胸ぐらを掴んで、物凄い形相で詰め寄る。怖、般若かよ。この時にはもう、止めるだなんて選択肢はなくて、堂々と傍観に徹していた。何故って、あいつの勝ちは見えていたから。萩原ならたぶん止めただろう。だが生憎と俺は、喧嘩は見るのもするのも大好きなんでな。

「どうすれば解放してくれる?萩原のことを無視すればいい?物を隠すとか、階段から突き落とすとか、幼稚なことするつもりなら勘弁して。これ以上、時間を無駄にしたくないから。気が済まないなら、私を殴る?今、ここで」

思わず息を飲んだ。襟元を掴まれたまま、苗字が悠然と尋ねる。いつも通り背筋を伸ばして、相手を見下ろしていた。なんだよお前、まだ憤れるんじゃねぇか。無意識に口角が上がる。どうやら俺は、少なからずこの女を気に入っているらしい。テメェの事で腹を立てる姿に喜びを覚えたのが、その証拠だ。強い言葉を使っているわりに、無表情。まるで景色でも眺めているみたいだった。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。苗字の目には、そこに立つ女子達も隣にある掃除用具も、きっと等しく景色なんだろう。なら萩原は、あいつもお前にとっては景色か────なんて、訊いたところで何になる。頭を掻いて再び視線を戻すと、残っているのは苗字だけだった。疲れたように息を吐いて歩き出そうとする背中に声をかける。

「やるじゃねぇか」
「……松田」

声の主を探すように視線を巡らせた後、その目が俺の姿を捉える。階段を下り切って向かい合うと、変わらぬ無表情で見返してきた。数秒の沈黙。いや、何とか言えよ。そう思った瞬間、我が目を疑う。目の前の苗字の体が蝋燭の火みたいにふらついて、揺れた。慌てて肩を掴んで、ちゃんと実体があることに胸を撫で下ろす。ああ、こりゃ俺には無理だわ。とてもじゃないが、ずっと見てるなんてぜってー無理。

「おっまえ、ちゃんと立てよ」
「ごめん、なんか疲れちゃって・・・なんでだろう」
「なんでって、怒ったからだろうが。んなことも分かんねぇのか」

心底不思議そうに言うから、丁寧に教えてやる。俺の答えに目を見開くと、そっと視線を落とした。いや、どういう気持ちの顔だよ。相変わらず、読めねぇ女だ。

「怒ったのなんて、すごく久し振り。こんなに疲れるんだっけ。松田は凄いね。いつも怒ってるから尊敬する」
「お前なぁ、真顔で喧嘩売ってくるのやめろ。悪かったな、気性が荒くてよ・・・あと、その…さっきのあれ、萩原には言わねぇから心配すんな」
「さっきの…ああ、あの子達のこと。どうしてそれを私に言うの?」

慰めるなんざ得意じゃねぇが、流石に見なかったことには出来ない。ところが苗字は、俺の精一杯の気遣いを吹っ飛ばす返しをしてきた。首を傾げて尋ねられて、こっちが動揺しちまう。

「どうしてってお前、
「どっちかって言うと、彼女達の方でしょ。嫉妬で他人を詰ったなんて、好きな人には知られたくないだろうし。私はただ時間を無駄にしただけだから、知られたところで何ともない・・・どうしたの?そろそろ教室戻らないと、授業始まるよ」

その言葉を聞いて、思い知る−−−萩原はまだ、こいつの心を捕らえきれていないってことを。普通、あんな風に責められる姿を、好きな奴に見られるなんて嫌だろう。それも、その相手が原因なら尚更。だけどこいつは、知られても構わないと言った。言いやがった。

「(おい、萩原。だから言っただろうが、順調なんかじゃねぇって。そんなとこで満足してて、いいのかよ。お前の声は、まだ届いてねぇぞ)」

- back -