悪く言えば優柔不断

青春なんて、あってないようなもんだ。高3にもなれば、大学受験をする奴ならその大半を勉学に捧げなきゃならない。それは俺も例外じゃないし、うちは金に余裕がないから尚更だ。つまり、寝ても覚めても彼女の事を考えている、なんてことは不可能なわけで。加えてクラスが別になった所為で、一日に一回話せればラッキーだ。

「ついてねぇな」

溜息混じりに呟いた。下校途中。木陰に逃げ込んで見上げた空は真っ暗で、大粒の雨が音を立てて地面に叩きつけている。こういう日に限って傘がない。松田も先に帰ったから一緒じゃない。仕方ない。走って帰るか。そう決心し、足を踏み出した時だ。

「萩原?」

雨音に紛れて声がした。前言撤回。今日の俺はついてる。視線の先では、ライトグリーンの傘を差した苗字が目を丸くしている。会えたのは嬉しいけど、格好悪いところ見られちまった。天気予報じゃ降水確率80%だったのに、傘持ってきてないとかマジかこいつ、みたいな顔だ。

「もしかして傘持ってないの?」
「あー、実はそうなんだ・・・忘れて来ちゃってさ。もう最悪」

ちょっと待て。これは、もしかしなくても相合傘の流れじゃねぇの。流石に「一緒に入れて」とは言えないが、一縷の望みをかけて可哀想な男を演じる。

「じゃあ、これ使って。折り畳みだけど」

そう言って、苗字は鞄の中から折り畳み傘を取り出して俺に手渡す。そうだけど、そうじゃない。安定の返しに内心苦笑しつつ、お礼を言って受け取った。そして改めてその傘を見下ろし、胸が嫌な音を立てる。どう見ても男物だ。紺色で、女の子が持つにしてはゴツくて重い。たぶん広げたら普通の傘くらいあるだろう。

「これ、本当に苗字の?」

自然とそう尋ねた自分に、後から戸惑う。最初の頃は質問なんて出来なかったのに、いつから俺はこんなに無神経になったんだ。いや、違うな。彼女ことが知りたいからだ。本当はこの傘の持ち主よりも、知りたい事がある────ずっと昔に決めた事や、用事と言いながら会いに行っている誰かのこと。だけど、それを詮索しようとしたら、彼女はきっと俺から離れていく気がする。だから、訊かない。なんて所詮は言い訳だ。実際は、自信がないだけかもしれない。彼女が抱えるものを、受け止める自信が。

「違う、父親の」
「え、ああ…お父さんの。そう、なんだ」
「紺色が嫌なら、私のと交換する?」
「いやいや、これでお願いします!てか、俺がその傘持ってたら変でしょ。花柄だしさ。あ、別に苗字の傘が悪いわけじゃなくて、ほら俺は男だから…可愛い柄は似合わないっていうか、

慌てて弁明する俺をキョトンと見返すと、苗字は口元に手をやって小さく笑った。それを見てまた少し、恋情が募る。何気ない仕草や、柔らかな表情を目にする度に、胸が音を立てる。こんなのもう、どうやって誤魔化せって言うんだよ。

「そんな必死に否定しなくてもいいのに。萩原は何でも似合うと思うよ」
「そっか…ん、ありがと」

なに照れてんだ。ただの社交辞令だろ。自分にそう言い聞かせてみても、彼女が嘘を言わないことを知っているから、どうしても心が嬉しいと叫び出す。お礼すら満足に言えない。

「…って、苗字の家って逆方向じゃなかった?しかも歩きだし。いつも雨でも自転車だよね?」
「晩御飯、外に食べに行くんだ。そこの公園で待ち合わせしてて。だから、ごめん。そろそろ行かなきゃ。じゃあ、また学校で」

雨の中を歩いて行く背中を見つめながら、手を伸ばす。行かないでと伝えたら、どんな顔をしたんだろう。きっとこんな風に見送るのは俺の方だ。俺が彼女を置いて行くことはなくても、逆は簡単に想像できる。一度だって振り向かず、君は俺を残して去って行く。そんな光景が、いつだって頭の隅にあるんだ。拭いたくて、もっと綺麗な未来を浮かべてみても、最後に残るのは決まってそれだ。

**

「陣平ちゃーん、帰ろう…ぜ」

元気に発したつもりの声は、尻すぼみに消えていった。教室の入り口で立ち尽くす。視線の先にはちゃんと松田がいる、行儀の悪いことに机に座って。そしてその向かいには、相槌を打つ彼女の姿。窓際の席なのに、微笑んでいるのが分かった。悔しいことに、絵になる。なんてことない話題なんだろう。それでも考えずにはいられない。もしそこに立つのが俺でも、君は同じ笑顔を向けてくれたかな。

「ん?なんだ、ハギ。来てたのか」

俺に気が付いた松田が、声をかけてくる。それに釣られて俺を見た苗字の顔にはもう、微笑みはない。いつも通りの表情。今にも溢れ出しそうな感情を胸の奥に押しやって、笑いながら手を上げた。松田だけが俺の挙動の不自然さを感じ取り、怪訝そうに眉を寄せる。頼むから「どうした?」なんて訊いてくれるなよ。

「楽しそうだね、何の話?」
「楽しそうだぁ?どこがだよ」
「松田には訊いてない」
「は…おい、なんなんだその態度はよ」

青筋を立てて松田が俺を見返す。やっちまった。らしくない。ガキかよ、俺は。二人からすりゃ、急に怒り出した変な奴じゃん。気まずくなって、一歩後ずさって視線を落とす。格好悪すぎて逃げ出したくなってきた頃、視界に映り込んだのは幼馴染ではなく苗字だった。眉を下げながら俺を覗き込んでいる。

「萩原、具合でも悪いの?」
「え・・・」
「ぶっ、いや、どう考えても違うだろ」
「そう、ならいいけど。あ、飴食べる?」

あまりに見当違いな問いかけに、自分の口が半開きになるのが分かった。俺の心情を見透かした松田がニヤつきながら否定する。今にも「こいつは嫉妬してんだ」と言いそうな親友を視線で牽制しておく。幸い詳細を尋ねられることなく、彼女は鞄を漁り出した。いや、もしかしたら興味がないだけかもしれない。そんな悲観的なことを思っていると、いつかと同じ飴玉が掌に転がされた。

「松田もいる?」

彼女がそう尋ねると、松田が図々しくオレンジ味をリクエストする。少しは遠慮しろ。俺が貰ったのはレモン味。あと1種類か。これが何かのカウントダウンじゃないことを祈りたい。俺達が封を切って口に放る間に、彼女は荷物を片付け始めた。

「苗字も帰るの?なら一緒に、
「ごめん。本屋に寄るから、またね」
「・・・・・・振られたな」
「うるせーよ。で、何の話してたの?」
「おーおー、必死だな」

冷やかしはいいからさっさと教えろ。ここで怒ったりしない。俺は大人だから。ぐっと堪えてニコッと笑って見せる。すると松田がギョッとしたように仰け反って「気持ち悪りぃ」と顔を歪めた。失礼な奴だな、本当に。

「別に大した事じゃねぇよ。ほら、今日返ってきた模試の結果。あいつ、志望校A判定だったんだよ。んで、ダチと遊ぶ時間を勉強に充ててるだけあるなって言ってやった」
「お前はまたそういう事を・・・」

得意顔で言うから、思わず頭を抱える。よくもまあ、普通の顔して言えるよな。でも、笑ってたな。それも傷付いた様子じゃなかった。彼女と出会って、「なんで」と何回唱えただろう。なのに少しも理解できた気がしない。

**

光陰矢のごとし。そうは言っても、今この時がいかに大事かなんて、その瞬間には分からないものだ。だから後悔なんて言葉があるんだろう。涼しくなってきた10月のある日。昼休み中、2階の廊下を歩いていたら、窓の外に人影が見えて足を止める。無意識に視線を向けた自分を呪いたくなった。校舎裏で佇む影は二つ。それだけなら素通りした。だけど、そのうちの一つには見覚えがある。間違いない。あの背中は、彼女だ。そしてその向かいにいるのは、男。誰だよ、お前。雰囲気で感じ取る────ありゃ告白現場だ。上履きの色で相手が下級生だと分かる。必死に何かを伝えているのは見えても、内容までは聞こえない。ああクソ、大声で名前を呼んじまいたい。数秒後、苗字が首を横に振ると、そいつは背を向けて去って行った。

「はっ、情けねぇ」

鼓膜で拾って初めて、それが自分の吐いた言葉だと理解する。なに言ってんだ、俺は。愕然とした。気持ち一つ伝えられず、曖昧な関係に浸かって満足してんのはどこのどいつだよ。俺なんかより、さっきのあいつの方がよっぽど男じゃねぇか。ただ怖いだけだろ、自分もああなるのが。容易く手を振り払われるのが、怖くて堪らないんだろ。だからこんな、ぬるま湯みたいな場所に甘んじている。窓枠を強く握り締めて、動こうとしない背中を見つめた。こっち向かないかな。そう思っていたら、何かに呼ばれたみたいに彼女が振り向く。その視線は一直線に俺へと飛んできた。全く驚いた様子がないのを瞬時に理解して、身を隠す。いやいや、なんで隠れてんだよ。反射で起こした行動に苛ついてみても、もう遅い。暫くしてからそっと様子を窺うと、彼女の姿はもう無かった。

「どうしろってんだよ」

呟きは誰に拾われることなく喧騒に消えた。笑い合う生徒達を見ていられなくて、階段を上がる。屋上に出て、ベンチに座り空を仰いだ。一面のうろこ雲。手を伸ばして掴もうとしても、触れられない。どっかの誰かみたいだ。手の甲で額を覆って息を吐いた。あと5ヶ月もすれば、高校生活が終わる。彼女と結ばれるのがゴールだとしたら、俺は今どの地点にいるんだろう。この3年でどれだけゴールに近付けたかな。そもそもスタートすら出来てなかったりして。だとしたら、お笑い種だ。

「道のり長すぎて挫けそう」

弱音ばかりが口を衝く。それならいっそ投げ出しちまえばいい。そう思わなかったと言ったら、嘘になる。一度や二度じゃない。そんな悪魔みたいな囁きが幾度も頭の中を反響していた。取り返しのつかなくなるあの日まで、ずっと。だけど、諦められなかった。それこそがこの想いの証明だったのに、俺はそんな事にすら気付けずに吹っ飛んじまった。とんだ馬鹿野郎だよ。

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