叶うことのない約束

「それでは皆さん、勉強で忙しいとは思いますが、しっかり休暇を取って。また来年、元気に登校してきてくださいね」

担任がそう言い終えると同時に、皆一斉に席を立ち始める。その誰より早く鞄を肩に掛けて、クラスメイトへの挨拶もそこそこに勢いよく教室を飛び出した。行き先は二つ隣のクラス。やべぇな。どうやら俺らより先に解散になっているらしい。ドアから中を覗いて、盛大に欠伸をしている幼馴染に尋ねた。

「陣平ちゃん!苗字は?」
「あいつならもう帰った。例の用事だろ・・・って、おい!」

生徒達の波を掻き分けて階段を駆け下りる。すれ違う奴らを一瞥して、彼女を探す。違う。違う。違う。昇降口にもいない。クソ、間に合わなかったか。半ば挫けかけながら靴を履き替え駐輪場へ。明日から冬休みだ。友人と年内最後の会話を楽しむのが普通だから、まだ校内にいる生徒がほとんどだろう。だからそこに、人影は一つしかなかった。自転車に跨って今にも走り去ろうとしていた細い肩を掴む。

「萩原・・・どうしたの、そんなに慌てて」
「そりゃ慌てるよ。だって今日逃したら、年明けまで会えないじゃん」
「余程急ぎの用事なの?」

自転車から降りて、また見当違いな質問。まあ、訊きたいことは確かにあるが、半分はただこうして話したかっただけだ。そう正直に伝えたら、どうせまた困ったような顔するんだろうけど、だからって指咥えてるだけじゃ変わるものも変わらない。意を決して、視線を合わせる。

「あの、さ…苗字、明日って暇?」
「明日?特に予定はないかな。家で課題をしようと思ってる」
「あー、もし嫌じゃなかったらなんだけど、一緒に出掛けない?」

やっとの思いで尋ねた。もっと器用に出来ないのかと自分でも呆れる。俺の質問に、苗字は一瞬だけ目を見開いて、眉を寄せた。ああこれは、駄目か。

「それって、二人きりで?」
「そのつもりだったんだけど…もしそれが嫌なら松田も誘って、
「人が少ない所なら」
「え・・・」

たぶん今の俺は相当間抜けな顔をしている。聞き間違いじゃないよな。もしかしてくてもOKってことか。飛び上がりそうになる。阿保か、小学生じゃあるまいし。落ち着けよ。とりあえず会話を続けろ。

「明日ってクリスマスでしょ。ああいう賑やかな雰囲気って苦手だから」
「じゃあさ、星を観に行かない?有名なスポットってわけじゃないんだけど、俺の家の近くに丘があってさ。結構よく見えるんだぜ。そこなら人もいねぇし、歩いて行ける。な、お得っしょ」

努めて明るくそう言えば、苗字は何故か少し泣きそうな顔をした。それに気付かないフリをして笑う臆病な俺を、どうか今は許してほしい。一体、誰に対する懇願だよ。答えを待っていると、彼女はそっと目を伏せて「楽しそうだね」と微笑んだ。この瞬間も君にとっては"なくても平気なもの"なんだろうか。それでもいつか"あって良かった"瞬間になれたらいい。

**

家まで迎えに行こうと思ったのに、丁重にお断りされた。だけど待ち合わせは夜の8時だ。渋る俺を差し置いて、通話アプリでのやり取りは終わった。あれか、家を知られたくないとか。まさかとは思うけど、家に押しかけるような男だと思われてるのか。だとしたら辛い。

「萩原」

思考を断ち切るように、俺を呼ぶ声。ハッと顔を上げると、少し決まり悪そうな顔をして彼女が立っていた。そしてその横にはもう一つの人影。見覚えがある−−−苗字の父親。

「なんだ、あの時の子じゃないか。驚いたな。彼氏と一緒ならそうと言ってくれれば、
「違います。彼氏じゃないです。ないんですけど、特別です……俺にとっては。1時間で構いません。ちゃんと家まで送り届けますんで、お願いします」

営業マンの謝罪みたいにお辞儀をする。突然の行動に慌てたように父親が俺の肩を掴んだ。素直に姿勢を戻すと、困惑顔でこっちを見ている。客観的に見れば、毒親ってわけじゃない。たぶん、ただ心配なだけなんだろう。でもそれが、彼女にとっては少し窮屈で。上手くいかないもんだな。家族でさえすれ違っているのに、恋愛が一筋縄でいく訳がない。

「そんな事しなくていい。夜に誰かと出掛けるなんて言い出したのは初めてだったから、つい世話を焼いてしまった・・・私達も変わらなきゃならないな」

最後の呟きは、聞き取れないくらい小さかった。私達がこの人と誰を指すのか、どこを変えなきゃいけないのか、俺には分からない。でもその声には、前向きさが宿っていた。それとは対照的に、横で聞いてる彼女の表情にはふっと影が落ちる。

「よろしく頼むよ」

そう言って笑いながら肩を叩かれた。その顔は紛れもなく父親だ。最後に苗字に一瞥を投げかけて、去って行く。背は俺と然程変わらないのに、大きな背中だと思った。

「んじゃ、行こっか」

振り向けば、彼女は少し疲れた顔で頷く。真っ白なダッフルコートに、水色のマフラー。コートの下からジーンズが覗いている。手や耳にアクセサリーの類はない。手を繋ごうかと思ったけれど、止めた。

「ゆっくり歩こう。会話もしなくていいよ」

また、臆病者が顔を出す。優しさをひけらかして、踏み込めない自分を肯定しようとしている。ひとり自己嫌悪に陥っている俺を他所に、苗字はふるふると首を横に振った。

「何でもいいから話してほしい。萩原の声を聴くと息がしやすくなるから」
「……それってつまり、俺は酸素ってこと?」
「ふは、酸素って。でも、そうかも。ずっと、山の頂上みたいに息がしづらかったけれど、貴方と話してると胸の辺りが少し軽くなる……なんでだろ」

いや、俺が訊きたいんだけどな。天然なの。居なくても生きていける────去年の夏に彼女がそう言った。でも酸素は、人間が生きていくために必要なものだ。もし俺の存在で、その心に血を通わせることができるとしたら、どんなに幸せだろう。

「沢山悩めばいいんじゃないかな。嬉しいとか悲しいとか、何かを感じる度に、その理由を考えてみてさ。それで俺に教えてよ、苗字の気持ち」

少しずつ何かが変わってきている気がする。嬉しさから、つい浮かれて助言めいたことを口走った。ところが彼女は、俺のアドバイスに対して怒りも拒みもせず、ただ微笑んで見せるだけ。笑っていてほしいと思うのに、この笑顔だけは苦手だ。最近分かったことがある。松田も見る度に顔を顰めているから、あいつも気付いているかもしれない。苗字本人は無意識なんだろうけど、それはたぶん、彼女が誤魔化す時に見せる顔だってこと。真相や本心を悟られないように、彼女なりに繕おうとしている。下手くそすぎて、見る人が見ればバレバレだけど。

「もうすぐ着くよ。ここから少し坂になるけど、大丈夫?疲れてない?」
「うん」
「転ばないように手繋ごっか?ほら、寒いしさ。なんつって、冗談だよ・・・ッ、

無意味なスキンシップをするタイプじゃないと分かってるのに、ふざけたフリをして手を差し出した。だって、触れていたかったから。君が俺の隣にいるのだという実感が欲しかった。そんな自我を一瞬で追い払い、いつもみたいに茶化して終わり。そのつもりだったのに、引っ込めようとした手に細い指が触れた。予期していなかった感触に身体が強張る。彫刻みたいに固まっている俺を差し置いて、その指は手の甲へと回り込んできた。狡いよな、ほんと。掴もうとするとすり抜けていくのに、こんな時だけ積極的とかさ。

「本当だ。萩原の手、冷たいね」
「でしょ。凍え死んじゃいそうだからさ、着くまで握っててもいい?」

なんか悔しくて、その手が離れていく前に強く握り締める。困らせたかな。拒まれはしなかったけど不安になって、そっと横顔を盗み見た。けれど、視界に飛び込んできた表情に、慌てて目を逸らす。反則だろと、そう言いたくなった。自分の観察眼を呪いたくなる。彼女は少し瞳を潤ませて、不思議そうに空いている手で胸の辺りに触れていた────初めて抱いた感情に戸惑う子どもみたいな顔で。もしその想いの名を尋ねられたら、恋だと答えてもいいかな。そんなことを思うくらい、強烈だった。繋いでいない左手で、口元を隠す。そうしないと、胸の中で暴れているものが、言葉になって這い出てきそうだ。唾を飲み込む音が、静かな空間に落ちる。

「やっぱり、怖い人」

まるで独り言みたいに、その唇から聞こえた呟き。いつかと同じ"怖い"という言葉に、胸は痛まなかった。だってそれは、俺が君にとって特別だという意味だろ。それに声音には、言葉の意味とは正反対の色が宿っていたから。その不器用さが堪らなく愛おしい。緩やかな坂を、手を繋ぎながら登る。冷たい空気がやけに肌に刺さった。いや、違うな。俺の身体が熱いのか。

「おっと…ここ、段差になってるから気を付けて」

蹴躓きそうになって足元を見ると、小さな段差があった。危ねぇな。あ、でも転んだら、どさくさに紛れて抱き留められたかも。俺がそんな不純なことを考えているとも知らず、彼女は律儀にお礼を言って段差を跨いだ。ああ、残念。それから少しだけ歩いたら、頂上に着いた。と言っても、立派な山ってわけでもないから、大した高さじゃない。だけど、開けたその場所から見る星空は中々のものだ。よく観えるように手を引けば、隣から息を呑む気配がする。反応を窺う俺に気が付いたのか、返事をするように彼女は微笑んで言った。

「こんな近くに、こんなに綺麗な景色があるなんて知らなかった……連れて来てくれて、ありがとう」

いつも見せる控えめな笑顔じゃない。俺をその瞳に映し、彼女が顔を綻ばせる。三日月みたいに目を細め、風に靡く髪が妙に幻想的で−−−やばい。そう思った瞬間にはもう、手遅れだった。繋いでいた手に力が入る。不審そうに手元を見下ろすその顔を、覗き込むようにキスをした。至近距離で視線が交わって、ついさっきまで喜びに染まっていた瞳が驚愕の色に変わる。握った手から戸惑いが伝わってきて初めて、やっちまったと、そう思った。だけど、後悔は微塵もない。嗚呼、頼むからそんな顔しないでほしい。なんで無抵抗なんだよ。いっそ噛み付いてくれればいい。そうすれば、すぐにいつもの俺に戻って、笑い話にできるのに。ああでも、無かった事にはしたくないな。そっと唇を離して、告げる。

「ごめん」

吐息を感じるくらいの距離で、困惑に揺れる瞳を見返した。二度と迎え入れてなるものかと結んだ唇が微かに震えている。想像以上に柔らかかったな。思い出すだけで、飯が食えそう。走って逃げちゃうかな、それとも怒る?泣かれるのは流石にきつい。返事を待っていると、苗字は身を引くことなく、いつも通りのトーンで尋ねてくる。

「それは、何に対する謝罪?」
「悪いと思ってないことに対して、かな…怒らないの?」
「怒れない。理由がないから。たぶん、今の私の気持ちは怒りじゃない気がする。こんな気持ちになったことないから、今は上手く表現できないけど。だから、さっき萩原が言ったように考えてみる。もし答えを見つけられたら、その時は聞いてくれる?」

ひどく澄んだ瞳で探るように思いを言葉にしていく姿に、胸が変な音を立てる。ああ、これは完全に落ちたな。頭の隅で、もう一人の自分がそう言った。いや、なんで他人行儀。ご丁寧に教えてくれなくたって分かってる。ていうか、今更だし。とっくの昔に落ちてんだよ。ただ、今日また、さらに深い所まで行っちまっただけだ。たとえ一番下まで落ち切って傷だらけになっても、構わない。そこに君が居るのなら、なんて────これじゃまるで心中だな。そう思ってから、我に返る。馬鹿かよ。心中ってのは、相思相愛のふたりがするもんだ。俺と彼女は違うだろ。あまりの自意識過剰ぶりに乾いた笑いが漏れた。それを聞いて、彼女が不安げに俺を見るから、誤魔化すように笑顔を貼り付ける。

「勿論、約束ね。いつまででも待ってるからさ」

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